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粘膜特急  作者: 佐野和哉
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2.Pinkのヒロインその名はポリ子

 ゴトトン、ゴトトン……。

 自分で自分の叫び声で目を覚ましたことなんてきっと生まれて初めてだったと思う。汗びっしょり息も絶え絶えで窓の外を見てみると何時の間にか真っ白な霧は何処かへ消えて、この世の終わりのような夕焼けが広がっていた。影になった雲は真っ黒で、その向こうに沈みゆく太陽が地獄のように赤く、真っすぐな光を幾束も放っている。

 地面がすっかり影になって、まるで真っ黒な海の上を走っているような感じに見える。実際は草原で、すぐ向こうに大きく蛇行する川がある。川幅が広く、間もなく赤く塗られた長い鉄橋に差し掛かった。

 アギャアアアアアアアアアアアア!!

 アアアアアアアアアアア!!

 ウググググググゥィイガアアアア……!!

 特急が鉄橋を渡る線路を踏みしめた瞬間から、絶え間ない叫び声が無人の車内に充満した。ガタンガタンという音がする代わりに、踏みしめられた線路が力の限り声を枯らして叫び始めたのだ。

 アギャアアアアアアアアアアアア!!

 アギャアアアアアアアアアアアア!!

 ビャギャアアアアアアアアアアア!!

 燃え盛る夕暮れを反射してめらめらと赤くきらめく川面を渡る黒い影の鉄橋に響き渡る絶叫。絶え間なく続く叫び声の隙間に、ボギリゴキリ、ゴグリボグリと重く低く鈍い音が聞こえる。昔、喧嘩相手の肩や肘をへし折った時に聞こえて来た音によく似ている。

 人間の筋肉と靱帯と骨は実に頑丈に出来ているから、ちょっとやそっとでは折れやしない。ただそれは普通に生活していたら、の話。ちょっとやそっとじゃ折れないのなら、ちょっとやそっとじゃ済まさなきゃいい。

 相手もこっちの骨でも目玉でも構わず壊すつもりだったのだ。偶さか先にこちらが相手の骨を折り、関節を外したというだけのこと。

 お互い様さ……だから、もうそんな目でこっちを見るのをやめろ! お前が仕掛けて来た喧嘩じゃないか、売られたものは倍値で買うまでのこと。自分で売って自分が負けた喧嘩の恨みをいつまでも他人のせいにして引きずるな、それを他人に背負わせるな、確かにお前の人生は台無しになったかもしれない。婚約者だかなんだか知らないが女連れで喧嘩を売って負けたからってなんなんだ。

 やめろ! 人を怨むより身を怨めと昔から言うじゃないか。それも吹っ掛けた喧嘩で負けたのなんて身から出た錆以外の何物でもないだろう。悪いのはお前だ、お前が悪い!

 だからもう恨めしそうにこっちを見るな!!

 前の座席から身を乗り出して、床から半分アタマを出して、天井に張り付くように這いつくばって、目玉と舌の腐った汁を鼻と耳から垂れ流して、これ以上なじらないでくれ!!

 来るな! こっちに来るな!!

 腐った顔をして罵詈雑言を垂れ流しながらにじり寄って来ないでくれ!!

 窓の外に広がる広大で残酷な夕暮れの光線が、亡者に刺さって影にする。真っ黒な腐れ亡者の群れが、ぶじぶじと不快な音と共に全身にあぶくを浮かせ溶けながら迫ってくる。やがて足元から胸元から首筋からまとわりついて覆いかぶさって、鼻を突く異臭も相まって目の前が真っ暗になる。

 

 さま……様、ゃく様……?

「お……? お客様?」

 は!? え!?

 戸惑いと困惑の入り混じったハスキーボイスが一筋の光になって、やがて瞼の裏で爆発するように白く弾けた。そして座席に座ったままハッと目を覚ますと、なんとも変わったお嬢さんがコチラの顔を覗き込んでいた。

 甘く香ばしい吐息と白い歯。

 眩いばかりのピンクのおかっぱヘアーに赤と白の水玉リボンを飾り付けている。

 全身から甘いバラとアーモンドの混じったような香水のにおいをぷんぷんさせている彼女は、上半身には素肌に夏物の白いセーラー服を。下半身は紺色のスクール水着に黒いタイツという出で立ちで車内販売のワゴンを押してきたようだった。

 この列車に乗り込んでからようやく目にした人間が、まさかこんな容姿をしているとは。それも魅力いっぱいなこの子にはひと組だけ欠けているモノがあった。それは目玉だ。両方の目玉だけが忽然と姿を消して、POLYSICSのメンバーみたいに黒いバーになったサングラスが埋め込まれているように見える。安っぽいPCゲームか深夜アニメの安易なヒロインがロボットであったなら、こんな見た目になるかも知れない。

「お客様、どうかなさいまして……?」

 ワゴンの取っ手に乗せた手をそっと放してコチラの顔にかざす。彫刻のようにすべっすべの、白い素肌をした細い指先に白桃色の短い爪。そんな清楚な手をしているのに、ワゴンを押す腰つきはくねくねと蠱惑的で、まあるく突き出した尻に思わず手を伸ばしたくなる。タイツと水着でダブル蒸らし効果があるとみて、さぞかし中はホンワカと食べごろに仕上がっていることだろう。

「あの、お客様」

「あっ!? ああ、いや、あの」

「凄い汗で御座います、お飲み物など如何でしょうか」

 そうか、彼女は販売員だもんな。よく見ているな、もしかするとコッチの視線もお見通しだったりしてな。

「そ、そうだね、じゃあー、こコーヒーでももらおうかな、あはは」

「コーヒーですね、かしこまりました。少々お待ちくださいまし」

 取り繕う様にコーヒーを注文すると、彼女は台座の上にセットされた電氣ケトルから銀のポットを取り外して紙コップにゆっくりと注いで蓋をした。

 殺風景な車内に広がる芳醇な香り。なんだか漸くリラックスすることが出来て安心したせいか、無意識にカバンから小さな布切れを取り出して額を拭っていた。つるつるした肌触りが心地よい。

「お待、たせいたしまし……た?」

「ああ、有難、あっ!」

 彼女の困惑と軽蔑が折り重なった不審者を見るような視線で思い出した

 これ、ハンカチじゃねえ!!

 お ぱ ん ちゅ だ!!

(しまった……!)

 しかも使用済みと来ている。よりによって一番肝心のクロッチ部分を自分の汗で汚してしまうなんて、いや、違うそうじゃない、渋谷で五時、ああああどうしよう。

「あ、あはは、あー喉乾いちゃったよ」

 僕は焦ってカップを取り上げて飲み口からぐいっと熱いコーヒーをあおった。途端に口の中いっぱいに広がったのは、僕の知っているコーヒーの苦みや香り、酸味、甘みなどではなく。もっと舌の根をぎゅっと絞られるような、純度100%まじりっけなしの

 苦汁

 と呼ぶべき代物だった。苦い、苦過ぎて味覚からツキューンと脳の奥まで貫かれるようだ。

「あの、ミルクか、お砂糖を……」

 僕はしかめっ面でそう懇願するのが精いっぱいだった。日頃はブラックでも構わない方だが、これは最早コーヒーの範疇に入らない。あのポットの中身は、一体何なんだろうか。

「え、おさと、う、みるく???」

 するとどうだ、この子はピンク色のおかっぱ頭の上に大きなハテナマークを幾つも浮かべているではないか。だからその、砂糖とミルク、シュガーと牛乳を……。

「あの、ほら、白い、甘い……」

「え、あ、あの、あたくし……」

 どうやら本当にわからないらしい、本気で困ってしまっている。目の位置で横向きに埋め込まれた黒い部分からうるうるした透明な雫が頬を伝ってこぼれ落ちていく。

 こんな形でも、涙をこぼすことは出来るんだな……。

「いや、いいんだ、大丈夫」

「ごめんなさい」

「そんなことより、他には何があるの?」

「はい、色々あるんですけど」

「ふーん、どれどれ」

「あっでも」

 話題を逸らそうとワゴンに目を向けたが、その向けた目が点になりそうなラインナップ。結局、二の句が継げず少しの間その品物をじろじろと見てしまった。

 沸騰した真っ黒い苦汁のほかには凍り付いて鈍器のようなアイスクリームが冷凍庫の奥底で真っ白になって眠っている。もはや取り出すことは困難だろう。さらに真っ赤なラベルのソーダ、ぼんやりと七色に発光するデジタルドリンク、ホタテとニシンのスムージー(それは「すり身」と言わないか?)、アーモンドの代わりに東洋人の目玉をチョコレートで包んだスナック、そして手前のラックには古びて黄ばんだ時代の末端で死ぬ雑誌。見出しの文字が日本語でも漢字でも英語やその他の言語でもなく、まるで読み取れない文字がズラズラと並んでいる。一体何が書かれているのか。

 何気なくラックから雑誌を取り出して膝に乗せると、思っていたよりずっしりとしている。

 おまけになんだか寒気がするし、ちょっとページをめくるのが億劫になっていることに気が付いた。気が付いていたのに、指先だけは止まらずに表紙をパラリとめくってしまった。が、意に反して最初の1ページは広告で、それもよくある胡散臭い健康食品とパワーストーンといった類のものだった。

 ヨーグルト風味のカルシウムタブレットで背が伸びるとか、背骨を引っ張って背を伸ばすとか、コンプレックス直撃のイラストと美容整形とか……学生の頃、毎週購読していた格闘技の雑誌に掲載されていたものとよく似ていた。いや、あの頃の雑誌広告そのものだった。食い入るように見ては、汗腺除去手術や切らないレーザーメスといった項目の費用に溜息をついたり、この手術さえ受けることが出来れば自分の学校生活は一躍バラ色になるのだと妄想したりしていた、あの広告たち。

 結局は手術を受けることなど出来ず、人生もバラ色とは程遠いまま逃げるように生きて来た。そうか、そういやこんな広告しょっちゅう見てたな。

 そこで少し力が抜けたせいで、次のページをめくったときには思い切り横っ面をはたかれたような衝撃を受けた。

「うっ!?」

 それはカラーグラビアの見開きで、これまで自分が重ねて来た嘘や冷酷な言動、言い訳がゴシック体の見出しでズラズラっと並んでいる。色とりどりの見出しが躍るその見開きいっぱいに、言った覚えのある情けない文言の数々。

 中には、あの時どう思って言ったか知らないが今からしてみればバレバレの嘘もあるし、離婚した両親の板挟みだった時期に双方に対し都合のいいことを言ってたものも網羅されている。今更もう忘れてしまっているものもあるし、きっと言ってないフレーズが紛れ込んでいても気が付かなかっただろう。そのぐらい、このページを見ることを全身で拒絶するように次のページをめくることなく本を閉じ、ラックにねじ込んだ。

「あの、お客様」

「君は一体……何を売りに来たんだ」

「そのことなんですが」

「あっそうか」

 まだ、コーヒーのお金を払っていなかった。だがよく考えてみると列車に乗る時に現金もカード類も持っていなかった。どうしよう、というか、何故そんなことすら気付かずに居たんだろうか。未だに時々、そうやって何故そんな簡単なことがわからないんだ、何故こんなものが出来ないんだと詰められることがあるが、まさにこういう所なのだろうな……。

「いえ、あの、いらないんです」

「へ?」

「おかね、いりません」

「そ、そうだったの。じゃあ、君は……」

「あたくしもわからないんです」

「へ?」

「あたくし、いつのまにかここにいて……気が付いたら、この列車に居て、この格好でワゴンを押して歩いてたんです。それで、ああ売り子さんになったんだって思って。だけどお客さんなんて誰も乗ってないし、いつまで経っても何処にも着かないし。どうしようって思ってたら、お兄さんが乗って来たから……ごめんなさい、コーヒー、不味かったですよね」

 ハナシが解らなくなって来たぞ、どうやらこの子は自分の趣味や意思で売り子さんになったわけでもなく、このような素晴らしい……いやえっちぃ、違う、破廉恥な服装をしているのでもない、と。それどころか自分でも知らない間にこんな恰好をしてワゴンを押していたと来たもんだ。

「そうか……そりゃ気の毒だったな。それじゃ着替えも要るだろうし」

「あ、それは大丈夫です。これ結構可愛いし……実はちょっと気に入ってて」

「ははは、大したモンだ」

「えへへっ」

 笑うとピンク色のおかっぱヘアーがふさりと揺れて、実に可愛らしかった。

「ねえ君、お名前は……? 僕はウノ。ウノってんだ」

「ウノさん……ごめんなさい。あたくし、自分の名前もわからなくって」

「記憶がないのか」

「そうなんです、ここに来る前は何をしてたか、何処に居たのか……自分が誰なのかもわからなくって……そんな時だったから余計に、ウノさんを見つけた時うれしくって。お仕事しなくっちゃ、って思って、つい」

「そっかあ、じゃあ、名前を決めなくっちゃ」

「えっ」

「呼ぶときに困るかなって」

「そ、そうですね……」

「ぽりこ」

「えっ」

「って、どうかな。カタカナでポリ、子は子供の子でポリ子ちゃん」

「どう、って、どうしてポリ子なんですか?」

「その目がさ、ポリシックスのサングラスみたいでカッコいいじゃん。だから、ポリ子ちゃん」

「ぽり……しっくす……? でも」

「ダメかなあ」

「あ、いえ、あの可愛くないとか、嫌だとかじゃなくて……ウノさんに付けてもらった名前だから、とっても嬉しいんですけど……あの、あたくし」

 ポリ子ちゃん(仮名)は俯き、顔を赤らめながらポツリと零した。

「あ、あたくし、子じゃないんですっ」

「子? じゃない……?」

 今度は僕が巨大なハテナマークを頭上に並べる番だった。だがそれはすぐ、巨大なビックリマークに変わった。

「ですからあの、あたくし、女の子じゃないんですっ!」

 セーラー服のリボンを両手でキュッと掴んで、真っ赤な顔ごと放り投げるようにポリ子ちゃんは言った。

「え、そうなの!?」

「あ、ハイ……い、イヤですよね気持ち悪いですよねダメですよねごめんなさ」

「マジで!? そうだったんだ。こんな可愛いのに!?」

「え、あの、ありがとう……ございます……? えっ!?」

「すげえじゃん、サイコーじゃん!」

「え、あの」

「そんな、いっぺん自分が可愛いなと思った子なら、どっちだって構わないよ。トレインスポッティングのベグビーじゃあるまいしさ」

「とれ……べぐびー?」

「性別なんて僕には目安さ、どっちだって可愛ければカンケーないじゃん」

「そ、そういうものかしら」

「そうさ、よろしくね。ポリ子ちゃん」

「こちらこそ! ウノさん」


 旅は道連れ世は情け、なんて古い言葉があるけれど。僕にもこんなに可愛い道連れが出来た。

 謎のおかっぱセーラー服スク水タイツ男の娘、ポリ子ちゃんだ。

 ピンクのおかっぱ頭には赤と白の水玉リボンを揺らして、肌は透き通るような白さで、華奢な体に似つかわしくないほどまあるいお尻をスクール水着と黒いタイツで包み込んでいる。

 また彼女には両の目玉がない代わりにPOLYSICSのサングラスみたいな黒くて細長い棒状のアイセンサーらしきものが埋め込まれているので、ちょっとサイボーグっぽくて、そこも可愛いぞ。


 だけど、だけど僕は何度かチラチラと見てしまった。ポリ子ちゃんが笑ったときに見えてしまってたんだ……あの子の喉の奥には小さな目玉が幾つもひしめき合っていて、そいつらが時々一斉にギョロリと蠢いてコチラを睨みつけていた。果たしてポリ子ちゃんの正体とは、いったい……。


つづく

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