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粘膜特急  作者: 佐野和哉
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1.ライラックの咲く駅のホームに気が付くと立ってた

 並び立つ木々。匂い立つ淡い色のムラサキハシドイが咲き乱れている。霧と曇り空の溶けたような辺り一面真っ白な場所。他には何もない小さな駅のホームで茫然と立ち尽くしていた。ベンチも、点字ブロックも、電光掲示板もスピーカーも無い

 自販機も売店も、塾や接骨院や貴金属買い取りの広告看板も。およそ駅に在りそうなものは何一つ存在しない。ただそこがコンクリートで固められた少し高い場所で錆び始めた鉄骨の柱にトタンの屋根がついていて、すぐ隣を線路が走っているから駅だということがわかる。

 そんな駅。


 北へ。雪の降る街へ。

 何もない駅で特急列車を待ちながら──


 手荷物はカバンひとつ。コゲ茶色の軽いカバン。中身は幾つかの文庫本とお気に入りのレコード。バストアップのフォト、それとあとここじゃ言えないメロメ。着替えもタオルも別に必要ない。汗ひとつかかない世界で自分の下着を持ち歩くぐらいなら、死ぬほど好きだったあの子の下着が一枚あった方がいい

 帰る家も無い、住む街も無い、行き先も会いたい人も居ない。

 何もない旅立ちの日に、何もない駅で、空と花を見ている。遥か彼方からムラサキハシドイの木立越しに小さな黄色いライトが届いて、汽笛が霧を裂いて響いて来る。耳に届く少し割れた甲高い音が物悲しくて、最後の躊躇いを押し殺して背中を押す。カバンを手に取って一歩前に。何年も履き古した靴が乾いた足音を鳴らして、コンクリートをザラリと擦る。ゴトゴト、と線路を走る列車の音がだんだんと大きくなって、列車のシルエットも大きく、素早くなってくる。

 ベージュのボディの中央に赤いラインの真っすぐ入った、僕の好きな古い鉄道図鑑の花形だった特急列車がやって来て目の前に停まった。パシューーと空気を抜いた音がして、ガッコンと大きな音を立ててドアが開く。僕のほかに乗客は居ない。降りてくる人も居ない。

 自由席、とパネルの付いた3号車後よりのドアから乗り込むと車内にも乗客は居らず、僕は窓際の席に腰掛けた。ふう、とため息をつくのとほぼ同時に列車はゴトンと大きく低い音を立てて走り始めた。


 ゆっくりと動き始めた特急列車が、無人の小さな駅から遠ざかる。白い霧と咲き乱れるムラサキハシドイに埋もれて溶けてしまうように、やがて真っ白な景色の中に消えていった。

 車内は静まり返っていて、列車の走る音以外は何も聞こえてこない。次の停車駅や、到着時刻のアナウンスも無い。しん、とした車内にゴットンゴットンと車輪がレールを走る音だけが座席越しに響いて来る

 赤いふかふかした分厚いシートに深く腰掛けて辺りを見渡しても、壁や天井に吊るされた広告ひとつない。殺風景な淡いクリーム色の内壁が四角く広がっているだけだ。

 何もない駅を出て、何もない列車に乗って、何もない車窓をじっと見ていた。

 窓の外にはずっと真っ白な草原が続いていて、時々ちょっと木立が見える。霧の中で影になった木立の側に寄りかかるようにして立っている小さな女の子が一瞬で通り過ぎて、目に焼き付いて膨らみ始める。踏切を通り過ぎて、遮断機の赤い音が尾を引いて遠ざかる。それをいつまでも耳の奥で追いかけながら天井を見つめている。ゴトン、ゴトンと走る列車の音とかすかな揺れに合わせて体が座席に沈みこんでゆく

 体が座席に、座席が床に沈みこむように低く、低くなってゆく。まるで土葬される棺桶に横たわったような視界の端からプキュ、プキュと音がする。

 何処かで聞いたような、妙になじみのある音だ。ありふれているのに実体験を伴った記憶のない、そんな音。

 プキュ、プキュ、プキュ、プキュ

 プキュ、プキュ、プキュ、プキュ

 沈んだ座席のすぐそばまで近づいてきた、その可愛い音はサンダルだった。子供用の、アニメーションのキャラクターがニッコリ笑って描かれた笛付きのサンダル。歩くとプキュ、プキュと鳴る、小さなサンダル。

 そいつが今、沈んだ座席のすぐ際を躊躇うことなくプキュプキュしながら通り過ぎて行った。

 

 すっかり床より低くなった座席に文字通り沈み込むようにしていると、得も言われぬ安堵と充足が呼吸をするたびに鼻腔から脳の奥へ広がってゆくようだ。古びた列車とシートの匂いに混じって、振り切ってきた色んな罪悪感とか逃げ出した仕事とか投げだした家庭とかが赤く燃えて煙になって肺の奥まで染み込んで血流に乗ってまた心臓から送り出され走ってゆく。やがてそれが脳に届く頃には、安堵と充足のため息になってフゥと漏れてそれまでさ。

 やがて煙が座席の棺桶に充満して、外の景色と同じような真っ白な世界に繋がった。このまま白く、白くなったまま何処までも走ってゆける。そんな気がして。

 背骨に直接車輪が響いて、ゴトン、ゴトンという鳴動が全身の隅々まで、細胞の一つ一つまで揺らして白く染めてゆく。濁った目玉より白く、煮えたタンパク質より硬い白い白い煙のなかで唯一、質量を持つ追憶は穴の開いた靴で土砂降りのなか仕事をするような気分のものばかり。

 その不穏で不満で不安な痛みが黒点になって、白い世界にポタリと落ちる。一滴の墨を落とした岩清水のように、決して消えずに払拭しきれない悩みや憂鬱が澄んで見える流れの中に見え隠れして心が再び落ち着きを失い始める。白かった煙は不吉な黒煙に変わり、それが棺桶に充満して酷く息苦しく惨めな気分にさせる。

 景色が黒く、黒く、真っ黒に。ひどい雨が降る前の雲のような色をした記憶と痛みと罪悪感が押し寄せて気分だけはとっくに土砂降りだ。

 きつくて逃げた仕事も、優しさを振り切って投げ出した家族の笑顔も、優しい人を何度も裏切り砂をかけて生きてきた。その心残りが積もり積もって積乱雲。いっそ稲妻でもプラズマでも貫いて黒焦げにして、ひと思いに殺してくれたらどんなにラクだろう。

 安月給で生活もままならないのに仕事の覚えが悪くて怒られてしまうのも、家に帰ったら帰ったで上手くいかないまま過ごすのも、耐え難かっただけなんだ。今頃、アイツはダメだったとか、あの人はサイテーだとか、そんな話でもしててくれ。言われることは慣れてるし、それぐらいで済むなら安いもんだ

 だから、もうこの黒い雲をどけてくれ。お願いだから、過ぎ去ったことをいつまでも背負ってないで逃げるなら逃げるでなるべく遠くまで逃げ切ってくれ……

 黒い雲をどけてくれ!

 この雲の中から逃がしてくれ、誰か助けてくれ!!


つづく

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