96. 移ろい往くもの…Ⅳ
「んじゃ、練習問題でもやって今日は終わりにすっか…」
「はーい…」
ちょっと気怠い感じで返事をした美月。だが、すぐさま問題に取り組むと、さらさらとノートの上に鉛筆を滑らせながら軽快に問題を解き始めた。
………もう、10月か。
家庭教師を始めたのは7月。あれからもう3か月が経過したのだが、時の流れは日を追うごとにその速さを増していくように感じる。本命である俺達の高校受験まではあと半年。だが、滑り止めである私立の高校受験までは残すところ3か月しかない。
まだ半年もある… もう半年しかない…
どのように捉えようとも残された時間に変わりはない。だが、暦が進むごとに後者の想いが強くなる。
―――本当に大丈夫なのか?
それを考えることが多くなった。考えたところで意味など無いのに。
美月の意思は何があっても変わることなど無い。だから可能性など気にせずに、今はただひたすら前に向かって突っ走る以外にない。……そんなの、端から分かっていたことなんだが。
でも不思議だ。
可能性が限りなく低かった7月の頃は、今よりも不安を覚えることなど無かった。だが、順調に成績が上がり、可能性が視野に映ってくるほどに、妙な不安が心の中で大きく育っていくのを感じてしまう。
………ま、やるしかないな。
グダグダ考えてもしょうがない。成績だって確実に上昇してるんだし。それに、美月だって俺の予想以上に頑張っている。はっきり言って、この状態を維持できれば合格を掴み取ることだって十分に可能だろう。
「できた!」
「どれどれ……」
さっきまで流暢に鉛筆を走らせていた美月は書くのをピタリと止めると、自信ありといった表情で俺に採点を求めてきた。俺は美月の解答を正解と照らし合わせながら、誤ったところが無いかなどをじっくりチェックする。
「よっし、全部あってる」
「わぁ~い!」
全問正解を知った美月は大喜び。いつものように椅子をくるりと回転させ、傍に立つ俺の腰元に思いっきり抱き着く。
「えへへへ……」
「はいはいよく頑張りました…」
俺のお腹にぐりぐりと擦り付けてくる美月の頭を優しく撫でてやる。
これにて本日分終了。あとはもう2、3分間ただひたすらに美月を甘えさせてあげるだけ。はっきり言ってこれは最早ルーティーン。よう分からんが、いつの間にかこれが当たり前になった。
だがまあ、これで美月のフラストレーションが軽減されるなら安いもん。それに、素直に甘えてくる美月は兄心をとってもくすぐる。ってか、お兄ちゃん萌えちゃう。
などと喜んでいる場合じゃないか。
「そう言えば美月、どうだったんだ? この前の模擬テストの結果は?」
「うふふ… はい、これ…」
「どれどれ…」
美月から渡されたテスト結果に目を通す。
総合点から見ると、実力的にはようやく合格圏内に入ってきたといった感じだ。だが、美月の場合はそれじゃダメ。内申点が低い分、もっとテストでの点数を上げなければならない。
「う~ん… これからも努力が必要だな」
「大丈夫。分かってるから…」
少し悲観的な俺の感想に対しても、美月は自信に満ちた明るい笑顔を俺に見せつける。
―――まあ、これなら大丈夫か。
ただひたすらに、前に向かって進もうとする美月の意欲を見て、俺は何処か安心できたような気がした。
「そう言えばさ、どうだ? 渡したノートはちゃんと使ってるか?」
「うん、勿論」
恭子から貰った受験勉強用のノート。俺はそれを夏休み中に美月に渡しておいた。渡す前にパラパラとノートの中身を俺は確認してみたのだが… はっきり言って、さすが恭子としか言いようのない出来のもの。客観的に見てもまとめ方などが素晴らしく、非常に分かりやすいものだった。
「でも、あのノートなんだけどさ、はっきり言って凄いって思う。私が使っていた参考書よりも分かりやすいし要点がまとまっているというか…」
「あはは… そっか」
「ほんと、あれ貰ってからすっごく勉強が捗ってるよ。マジで感謝してる」
「なら良かった。お前が凄く感謝してたって持ち主にも伝えておくよ」
………やはりというか、恭子には感謝の言葉しかない。
喜んでいる美月の顔を見て、俺はただ素直にそう感じるばかりであった。
「そう言えばさ、修二……」
「ん? なに?」
美月の喜ぶ姿を微笑ましく見ていた俺に、何となくって感じで話し掛けてきた美月。
「あのノートの持ち主って…『高科恭子』さんって人なの?」
そう言うと、ちょっと不思議そうな顔を俺に向けてくる。
「ああそうだよ。 でも、何で分かったんだ?」
「だって… どれかのノートに名前が書いてあったから」
「なるほど。 確かにそのノートを使ってたのは恭子だよ」
「………恭子? 呼び捨てって… そんなに仲の良い人なの?」
「あはは… まあ、あれだ。小中高がずっと同じで古い顔馴染みだからな」
「ふぅ~ん。 でも、前はそんな事何も言ってなかったよね? 同じクラスの知り合いの女の子だって…」
「確かにそうだが…… 別にいいじゃん。それにノートは役に立ってるんだし」
「まあ、それはそうだけど……」
「恭子は昔から頭が良くってね、それに今でもクラスで一番の成績なんだよ。だから美月の事を一度相談してみたんだけどね、そしたら直ぐにそのノートを持ってきてくれたって訳なんだ」
「そっか… でも、凄い人なんだね」
「ああ確かに。俺なんて足元にも及ばないよ…」
ノートの出所が恭子だと知った美月。最初は少しだけ怪訝な感じで色々と質問してきたのだが、俺の答えに納得したのか最後にはしきりと感心している様子だった。 だが、美月はふと何かに気付いた感じで再び俺に訊ねてくる。
「ねえ修二… だったらさ、お兄ぃもその『高科』さんって人を知ってるの?」
「そりゃあ当然。ってか、仁志とはかなり仲の良い友達だよ」
「へぇ~え… 全然知らなかった」
俺の言葉に、美月はこれといった関心も示さず、ただ普通に聞き流すだけだった。
………あれ?
物凄い違和感。 おかしい…ってか、これはもはや異常事態。
美月を揶揄うつもりで『かなり仲の良い』って表現を使ったのに、美月は全くと言っていいほど嫉妬と怒りの反応を示さない。以前であれば、仁志と親しい女子の噂を訊こうもんなら軽く発狂してたのに。筋金入りのブラコン娘にしては反応がかなり薄すぎるって感じ。
「あのさ、美月……」
「なに?」
「お前は気にならないのか、『恭子』が? もしかしたら仁志の彼女になっちゃうとか?」
「別に」
すっげー。秒で答えやがった。 こんなの今までなら考えられん。
やはり好きな男が出来るとこーなっちまうのか? あれだけ「お兄ちゃんラブ」だった美月が…。
「美月… 冗談抜きでさ、仁志に彼女が出来たらどー思う?」
「どうって…… 別にいいんじゃないかな。お兄ぃだってもう高校2年生なんだし。それにさ、超イケメンなのに彼女がいないのって、やっぱおかしいでしょ?」
「………???」
なにこの手のひら返し? こっわ~。 これが女ってやつなの?
あれだけ仁志に彼女が出来ることに反対しといてさ、いきなり「いいんじゃない?」かって? 確かにブラコンをようやく卒業できたから良かったとは思うが、この変わり身の早さを見てると背筋に冷たいものを感じちゃう。
「そっか… やっぱ好きな男が出来ると、兄なんてそんなもんなんだな…」
何だか妙に悲しくなった。分かっていたこととはいえ、美月とこうやって兄妹みたいにしていられるのも間もなく終了なんだろう。
「美月…」
「ん? なに?」
「好きな男との恋愛… 頑張れよ」
「うん! 多分大丈夫だとは思うから」
「そうなんだ。良かったな…」
「クスッ… まあね」
そう言って屈託のない笑顔を俺に向ける美月。
それを見てやはり寂しさを禁じ得ないが、温かく見守ってやりたいという想いも湧き起こってくる。……さてさて、美月もいよいよ兄離れ。ちょうど良い機会だし、俺も自分の恋なんぞを真面目に考えるか…。
「だが、今はとにかく受験勉強を頑張れ。無事合格出来たら恋愛の相談にも乗ってやるからさ…」
「それは分かってる。 その時がきたら絶対修二に相談するからね…」
「よしよし。美月はおりこうさんだな…」
再び俺に抱き着いてきた美月の頭を俺はそう言いながら撫でてやった。
上機嫌な顔をしながら子供の様に甘えてくる美月だが、ふと冷静に見たその容貌は昔と比べて大きく異なる。切れ長の目にピンと張った鼻筋、それに血色の良い薄い唇。もはやどこからどう見ても子供ではない。今や美月は蝶野さんにも劣ることのない美少女になっている。
「そんじゃ、俺はそろそろ仁志の部屋に戻るわ」
部屋の時計を見れば既に午後の9時を過ぎていた。今日は泊りという事もあり遅くまでやっていたのだが、流石にそろそろ美月の部屋からお暇することに。
「うん。今日もありがとう、修二」
「じゃあな…」
「うん」
「おやすみ…」
「おやすみ…修二」
「美月…」
「なに?」
「………できればこの腕を放してほしいんですけど」
「………やだ」
結局それから30分程度、俺は甘えん坊美月に付き合わされることに…。
―◇―◇―◇―
「おう、遅かったな」
美月からようやく解放され、やっとの思いで仁志の部屋に戻ってくると、相変わらずの無表情でそう言いやがった仁志。
………ったく、こいつは。
受験も迫ってきてるっていうのに、最近では放置プレイが一層進んできていやがる。
「仁志… お前ももうちょっとぐらい美月の面倒を見てやったらどうだ?」
マジでそう思う。こーいう時こそ信頼されてる兄の出番ってもんだろーが。
「ははは… まあそう言うな。俺も美月のためにそうしてるんだから…」
「はあ?」
愉快にしている仁志を見て、俺は意味も分からずただイラっとした。
「俺は美月の意思を尊重してる。だからこれでいいんだよ」
「なに言ってんの?」
「まあいいじゃないか…」
仁志は勝手に何かを納得しているかのようにそう言うが……
ほんと、よー分からん。俺を信頼している事だけは理解できるのだが。
―――さて、そんな事より。
俺は前から読みかけていた漫画本を取りに行き、ベッドにもたれながらパラパラとその本を読み始める。仁志は先程からやっていたゲームの続きをやりはじめ、部屋には沈黙の時が流れ始める。
暫くして、
「仁志」
「なんだ?」
互いに視線を交わすことも無く、相手の発する言葉だけが部屋の中に響く。
「お前… 恭子のこと―――好きなんだろ?」
「ああ、そうだ」
分かり切った答えが返ってきた。だが、頭では理解できていても、妙に鼓動が早くなってしまう。
「いつからだ?」
「さあな。………もしかしたら、初めて会ったあの日からかもしれん」
「そっか。 ならさ、もう一つだけ訊かせてくれ」
「なんだ?」
「どうして俺に塩を送った? 仲直りさせるなんて、お前には何のメリットもないだろ?」
「修二…」
「なんだよ?」
「もし逆の立場だったら、お前はどうした?」
「―――悪かった。訊いた俺が馬鹿だったよ」
「ははは…」
仁志は全く動じる様子を見せず答えていく。そして、俺の方へ向き直ると、真剣な眼差しをしながら話し始めた。
「高科の心はあの時のまま止まっていた。そんな状態で、俺が何を言っても意味など無い。だから俺は高科の時を動かそうとした。動かない限り、はっきり言って俺に可能性は無いからな…」
「………そうか」
「まあ、はっきり言ってお前に勝てるとは思わんがな。ただ、初めて本気で好きになった想いはどうしても伝えたい。それがお前達にとって邪魔になるってことが分かっていても…」
「なぁ仁志…」
「なんだ?」
「そんなの気にすんな。俺はお前に恭子をとられても一切文句は言わん」
「ふふふ… そうか」
「だがな、俺だって黙って恭子を渡すつもりなんかねーぞ」
「分かってるよ…」
「美月の受験が終わってから… それでいいか?」
「ああ。俺もそのつもりだ」
これで宣戦布告は終了。
たった今、俺の親友は最大のライバルとなった。




