4. 理沙子Ⅳ
俺の言葉を聞いて理沙子は真剣に何かを考え込んでいた。やがて険しい表情でじっと床を見つめていた彼女はその視線を俺の方へ向け、はっきりとした口調で話し始める。
「―――ねえ、修二……お願い、聞いて欲しい。 私は修二を裏切った。修二も私を欺いていた。二人ともダメだった。だったら二人で悪いところを治してもう一度やり直したい。私がしたことは謝る。私はもうあの彼とは会わない、…もう二度と、絶対に。約束する……もう二度と修二を裏切らないって…。そして私は修二の心が癒されるのを待つ。いくら時間がかかってもいいから。もう焦ったりしない…その訳も理解できたんだから。 だからお願い……もう一度やり直そうよ……次は絶対に修二のことを幸せにするから…」
涙で濡れた顔だが力のこもった眼を俺に向けて理沙子は言う。彼女の真剣な表情からは確かに何かを決意したように感じられた。理沙子の口から出た俺のことを幸せにするという言葉を聞いて正直嬉しかった。
自分の幸せではなく俺の幸せを考えてくれようとしている理沙子は、さっきまでとは異なり何かに気付いてくれたのかもしれない。
だけど俺達はまず反省しないと…。一度一人になり、冷静に考えてどうすべきであったのか答えを出さないと…。
そうしないとまた同じ失敗を繰り返すことになってしまう。
特に俺は自分自身の心の弱さを……あの呪縛を何とかしないとどうにもならない。
だけど……理沙子、こんな俺に未だに愛情を持ってくれていてありがとう。その気持ちだけで十分だ。
俺がもっと普通だったら… 普通の彼氏だったら… 二人で幸せになれたかも…なのにな。
「俺は理沙子の気持ちを知りながらそれを欺いた。そして理沙子は俺を裏切った。二人とも互いを騙した。こんな俺達には恋人を続ける資格なんてないよ。俺達に必要なのは別れるという罰を受け入れることだけだ……」
「―――修二…」
理沙子の悲しくて切ない思いを伝える可愛い瞳は、俺の顔をしっかりと捉えて離さない。だから俺も理沙子の瞳に語り掛けた。
………終わりがないと次がはじまらないよ…。
一度終わりにするが、しっかり反省できればもう一度始めることもできる……。
そんな想いが伝わったのか暫くすると理沙子の表情は変化した。
弱弱しくなっていた表情には力が戻り、何かが吹っ切れたように元気を取り戻してうっすらと微笑んでいる。
「―――そうだね。……自分が招いたことだもんね。確かにそれにしっかり答えを出さないと……自分の責任をはっきりさせないと……」
そう言ってから理沙子は涙に濡れた顔を俺に向けて真剣な表情でしっかりと俺を見据えて言った。
「修二……本当にごめんなさい。どんな理由があっても恋人を裏切る様な事は許されないよね…。私は自らこの恋を終わらせちゃった。私がしたことは修二を裏切り傷つけたこと…。それをよく考える。これからどうすべきなのかも……」
「だから約束して。ちゃんと答えを出せて責任を果たせたらもう一度話したい。彼氏彼女でもなく、友達でもない関係でいい。ただもう一度だけ話したい……お願い」
何かを決意したような理沙子の表情……それを見た俺は少し安心できた。彼女はこれから真剣に自分と向き合うつもりだ。
「―――いいよ、そうしよう…」
「俺も自分のことが原因で理沙子を傷つけた。だから理沙子に謝りたい。 本当にごめん……」
これで一つの恋は終わった。
俺と理沙子による恋物語はバッドエンドの結末を迎えてここに終了した。
だがまだ俺達には後始末という作業が残っている。自分達のしてきたことにきちんと整理をつけて向き合って、そして変わっていかねば俺にも理沙子にも明るい先は見えない。
俺の抱えている問題は大きくて根が深い。
理沙子と付き合う時、俺はもう立ち直ることができていると自信を持っていた。これから新しい彼女である理沙子と仲良くなっていき、もう一度幸せな時間を取り戻すんだと…。
そして期待通りに理沙子は俺のことを愛してくれたのに思ってもいなかった心の傷が足を引っ張った。俺は結局、あの時の出来事に対して答えを出せていない。俺はただ全てを忘れようとしただけだった。
よく考えればそれで解決する筈もない。
“忘れる”と対になる言葉は“思い出す”なのだから。
忘れることができても何らかの衝撃で思い出すということも起こる。
自分で納得のいく解釈を得て何らかの形で結論をだすことができないといつまでも幽霊のように付き纏われる。
俺には中学の時に初めて恋人と呼べる女の子ができた。
初恋の人と付き合うことができた。大好きだった。幸せだった。その娘しか見ていなかった。
―――そして俺はその最愛の彼女が他の男と求めあうようにキスしているところを見た。
そこで俺の初恋は終わった。最悪の形で…。
彼女は俺に向かって“大好き”と言っていた。“愛している”とも言っていた。
―――全て嘘だった…… 俺を騙すための偽りの言葉だった……そう感じた。
その真実が何よりも心に突き刺さった。俺が信じていたものは全て幻。俺を納得させるための嘘。
偽りの愛の言葉……それに気づいた時に思い知った。これほど人間の心を抉るものは無い。
彼女が言っていた愛の言葉が全て偽りだと悟った時、俺の心は砕け散った。
それ以来、俺は以前のように誰かを無条件に愛することが出来なくなったんだろう…。
理沙子と付き合ってそれを思い知らされた。前に進みたいと思うのにどうしても心を閉ざしてしまう。もう一度あれだけ愛してまた裏切られたら……今度こそ立ち直れなくなる。それがどうしようもなく怖い。
俺は初恋の人に裏切られた。そしてその事実から逃れるために俺は自分の中に閉じこもった。彼女の言い訳も全く訊かなかった。どんな事情があったのかも全く考えなかった。自分のことも全く振り返らなかった。
ただひたすら貝のように殻の中に閉じこもり全てを忘れようとした。彼女の存在もろとも…。
だがそれでは何も解決しなかったことを思い知らされた。未だに蟠りが消えていない。
あの出来事に何らかの答えを見つけることができれば俺は変われるのかもしれないと思う。
もう逃げていても仕方がない。正面から向き合ってみるしかない。何を今更って感じだけど…。
ただ今の俺は不思議な感覚に囚われている。
初恋の人に裏切られたときは何も考えられなかった。そしてありとあらゆる歪んだ感情が湧き起った。怒り、憎しみ、恨み、それらの憎悪の念が俺の心の中を満たしていった。
だが、全く同じ裏切りを理沙子から受けたのに理沙子に対してはそのような感情が全く起こってこない。ただ感じることは寂しさや悲しさ、それに理沙子に対する罪悪感のみ…。
何故こうも違うのか…… それは分かっている。
理沙子の裏切りは俺が招いたことであり、その責任は俺にあると思える。だから理沙子を責める気にはなれない。そう納得できるから負の感情がわいてこない。はっきり言って理沙子の裏切りを許す許さないという権利は俺には無い。
だが初恋の人の裏切りはそうじゃない。俺に責任があるなど到底思えない。だから何一つ納得できない。だから絶対に許せない。おそらくこの先も許すことなどありえないと思う。
多分この納得がいかない部分が負の感情を生み出し、それが原因で女の子全てを穿った目で見てしまっているのかもしれない。頭がいかれてるのは初恋のその女だけ、他の女の子はそうじゃない、……明確にその区別をつけられれば良い。
そんなことをぼんやりと考えていると、俺の胸元に温かくて柔らかいものが滑り込んできた。理沙子が胸元に頭を押し付け、背中に手をまわして俺を抱きしめている。
「ごめん、……最後に少しだけ ほんのちょっとだけ…」
小さな声で囁くようにそう言った理沙子の肩は少し震えていた。本当はもうそういうことをすべきではないことは分かっている。
だけどダメだと分かっていても身体はそれに抗おうとする。たとえ半年の付き合いといえど何の思い入れも無いわけではない。俺は震えている理沙子をしっかりと抱きしめた。
今まで付き合ってくれた感謝の気持ちを込めて理沙子を精一杯抱きしめた。
それから長い時間、二人はただ抱きしめ合っていた。何も言わず、何も語らず……。
「―――ありがとう…… もう大丈夫……」
やがて理沙子はそう言って俺の胸元から離れた。涙を手で拭っているが、顔には少し微笑みを浮かべている。
「最後に修二の想いを貰った。修二を裏切ったのに…… こんな私なのに修二は想いをくれた。だからもう十分。私は修二が望むようにする。修二に言われたことをよく考えて一人で頑張ってみる………」
それから暫くして理沙子は帰っていった。
悲しみに沈む表情ではなく、何かに向かうようなしっかりした表情で微笑みながら……。