3. 理沙子Ⅲ
理沙子と付き合い始めて初めの頃は順調に行っていた。
紹介から知り合った俺達は、二人で一緒にいる時間を増すごとに互いに興味を持って惹かれ合っていったと思う。
まだお互いよく知らないので探り合うような感じだったが、それは恋の始まりといった感じでとても楽しかった。その時は確かにお互いに同じ思いで同じ方向に向かって進んでいた。
だがある時から俺は進めなくなった。立ち止まって動けなくなった。俺の手を引っ張って先に進もうとしてくれている理沙子の手を俺は自ら離してしまった。
手を繋ぎ、抱きしめるようになり、やがてキスまでするようになる。俺にはここが限界だった。
最初は理沙子との距離が近くなるにつれ幸せを感じていた。胸は高鳴り心は温かくなっていく。
初めての彼女に裏切られたあの拭い難い嫌な記憶もどんどん薄れていく。
だが関係が深くなるにつれ、何処からともなくある感情が湧き起ってくる。そしてそれは関係が深まる程大きくなっていった。
―――これ以上深みに嵌って、……そこで裏切られたら……
はっきり言ってどうしようもない。その時にどれだけ辛い思いをするのかは俺が一番よく知っている。
それに……絶対に裏切ることなんてない、裏切りなんて想像すらできなかった初恋の彼女が裏切った。
ならたった半年の付き合いの理沙子がいつ裏切っても何ら不思議ではない。
結局は彼女という女の子に対する疑心暗鬼……これが俺にブレーキを掛けさせる。
しかし俺の想いとは裏腹に二人の付き合いはどんどん深みへと進んでいく。
理沙子はちょっと気性も激しく行動的な女の子だった。だから付き合い始めてキスまで行くのもそう時間を要さなかった。
それに気持ちが真っすぐな娘であるので愛情が深まっていく様子は見ていてよく分かった。
そして理沙子はどんどん関係を深めようとしていく。普通に考えれば当たり前の話。彼氏ができて関係が深まっていき、相手からの愛情も大きくなってきている。付き合っているカップルで言えば最も幸せを感じるときだと思う。
だがその頃、俺が感じ始めていたのは最終的な関係まで行き、彼女にどっぷり嵌ったところでもし裏切られたら…… そんな事が脳裏に浮かんでくる。今なら裏切られても諦めがつく……ここまでなら。
そうして俺は立ち止った。高校生なんだから身体の関係を結ぶのはまだ早い…そんな言い訳を自分にして。
でも理沙子はどんどん進めようとしてくる。興味本位ではなく愛情を深めるために先に進もうとしてくる。親がいないので家に遊びに来ないか、泊りで旅行に行きたい……彼女は積極的に前に出てくる。それだけ俺のことを想ってくれているのもよく分かった。
だが俺は彼女の期待に応えることができない。だから彼女の気持ちを知りながらはぐらかせて彼女を欺いた。そしてそれを繰り返していくうちにお互いの感情に齟齬が生まれる。
いっそ理沙子に過去のことを打ち明けようとも思ったが出来なかった。思い出すのも語るのも嫌だった。
やがて少しずつ理沙子の気持ちが離れていくのを感じるようになった。そして俺は思った。
―――俺は今のままでは誰とも付き合うことができない。もう終わりにしよう。
そして理沙子は俺を裏切り別の男へと向かった。理沙子は俺の気持ちに気付き、耐えきれず癒しを他の男に求めたんだろう。
俺自身もそれでいいと思った。最近の理沙子の様子を見ていれば誰か他の男がいるような感じが見受けられた。だからいつ別れ話をしてくるかと待っていたんだが…… 結局自ら言ってこないので俺が行動する羽目に。
俺は理沙子との付き合いから感じた。今の俺ではどうしようもないということを……。
心の奥に根付いている“裏切られる”という恐怖心…… それが結局は新たな裏切りを招いている最悪の負のスパイラル。
初恋の人の裏切り……これがトラウマになって俺の心をがっしりと縛っている。
それをしっかり清算しないとどうにもならない。理沙子との別れは始まりに過ぎない。本当にやるべきはこれからの事。
俺の心に纏わりつくあの忌まわしい記憶。心の奥に楔のように撃ち込まれた呪縛から解放されるために……。
―――俺はあの時の出来事から逃げるのはもうやめよう
裏切って尚且つ心の奥にトラウマをしっかり植え付けて下さった元彼女様である初恋の人か………
本当にいい仕事をしてくれる。あなたのお陰で未だに再起ができないよ。どうだ?……満足してるか?
初恋の人と別れてもう2年近くか…… 俺は裏切られたあの時から彼女と一度も口をきいていない。話も全く聞かなかった。
二度と顔も見ない、声も聞かないと誓ったが……どうやらそう言うわけにもいかないかもだな……。
自分が抱えている問題、口を噤んで一言も言葉を発しない理沙子を前にして俺はそのことを考えていた。俺の意識は目の前にいる理沙子ではなくもうそちらを向いていた。
そんなとき、理沙子はぼんやりと呟くように何かを話し始めた。一人で何かを回想でもしているかのように…。
「修二と付き合い始めて……最初は上手くいってるって思ってた。私が近付けば修二もそれに応えて近付いてくれる。二人は同じ気持ちなんだと思って凄く嬉しかった。だからもっと近付きたくなる。もっと愛して欲しくなる。……でも途中から修二は立ち止った。私はもっと先まで行きたいのに修二は全然前に進んでくれない……」
「初めは照れ屋さんなんだと思ってたけど……だんだんそうじゃないって気がしてきた。修二はこれ以上私を好きになってくれないんだって…。だから私は余計に焦った。もっと関係を深めないとって…。もっとこっちを向かせないとって……」
「でも、でもね……そうしたら余計に修二が遠くなったような気がして……。気が付いたら修二が近くに見えなくなっていた…」
「どうして? なんで? 修二は私の彼氏じゃないの? 私が望んでるのにどうして修二は逃げようとするの? 修二は私のものじゃないの? 他に好きな子でもいるの?…… もう何も分からなくなってきた…」
「そんなときに中学の時の友達だった彼とばったり会って… それから何回か話を聞いてもらってるうちに………」
理沙子の言っている事に身に覚えはある。そしてそれは単純な気持ちのすれ違いではなく確信的に俺が取った行動。理沙子とこれ以上関係が進まないように、でも理沙子には愛してると思わせるように……それが俺のとっていた態度。
理沙子の言葉を聞いていて自分が嫌になった。正直に理沙子に話して俺の方から別れることを言うべきだった。
そうすれば俺を裏切るという行動も理沙子はとらずに済んだ。理沙子は浮気して俺を裏切ったのだが、俺は自分に罪の意識を感じて理沙子を責める気など全く起こらない。
だが俺と理沙子の関係はもう続けることはできない。
「―――今の俺は誰かを心から好きになることはできないと思う。だからこんな俺は誰とも付き合うことができない。理沙子には本当に悪いことをしたと思ってる。だから……俺ではなくその彼の元へ行ってくれ。俺は恨んだり怒ったり悪口を言ったりはしない。理沙子もきっとその方が楽しく過ごせると思う……」
これが偽りのない本音だ。理沙子のことは本当に好きだった。そんな彼女の望みを叶えてやれないからこうなった。
曲がりなりにも一度は好きになった女の子…… 俺とではなくても、誰かとでいいから幸せにはなって欲しい。
理沙子が他の男とキスしてるのを見て何も思わなかった訳でもない。やはり心は痛む。でもそれは仕方がないことだとそれ以上に納得する自分がいた。理沙子は俺を裏切ったのかもしれないが、最初に裏切ったのは俺だ。
彼の元へ行ってくれ……
その言葉を聞いた理沙子は両手で頭を押さえ、じっと視線を床に向けたまま言った。
「―――わかんない。よく分かんない。私が好きなのは修二、これは嘘じゃない。でも慰めて貰って優しくしてくれた彼を悪い人とは思えない。感謝してるっていうか……情があるっていうか…。でもそこまで好きなのかって言われてもよく分からない… 自分自身がどう思っているのか……」
「……彼と一緒にいて……私は悪いことをしているっていうのはわかってた。でも優しくして貰えると嬉しくなる。だからそれに甘えたくなる。だから私は自分に言い聞かせていた。私を不安にさせた修二が悪いんだって……修二がちゃんとしてくれないからって… 修二のせいにしてた…… 自分の事だけ考えて……」
理沙子の話を聞いて、彼女の想いも複雑なのはわかった。確かに普通に誰かを好きになるのとは異なる。だがたとえそうであってもこれだけは変えられない。
「理沙子がその彼をどう思っているのかは俺は知らない。だがこれだけははっきりしている。俺達はもう終わりにしないといけない……」