高空の玉
日が沈む――。
空は藍色から漆黒へと変わっていく。国常立尊は御帳台の白布の帷を僅かに開けて、茵に横たわる珠姫の様子を窺った。
それから、そっと傍に腰を下ろすと、温くなった手拭いを氷水の張った桶に浸し、固く搾ってから汗をかいた彼女の額の汗を拭う。
「ん・・・・・・?」
僅かに睫毛が震え、琥珀色の美しい瞳と目が薄く開かれる。国常立尊はその熱に浮かされたとろんとした瞳の様子に、胸が塞がる思いになって、鼻の奥もツンと傷んだ。
「国常・・・・・・立尊・・・・・・?」
「ああ、起こしてしまいましたね・・・・・・。」
掠れた声で力なく「これは、夢?」と訊ねてくる珠姫の様子に、国常立尊は「いいえ、夢でございませんよ」と答えた。
東屋で話した時とは違って、目の前の珠姫は今にも儚く消えてしまいそうな危うさがある。国常立尊は熱っぽい彼女の手を取ると、自分の頬に宛てがった。
「ほら、ここに、おりますでしょう?」
国常立尊の頬に触れ、琥珀色の目を見開き、数度、瞬きしたかと思うと、珠姫はとても嬉しそうな笑みに変わる。
「貴方にもう一度だけ、会いたかったの。」
「《もう一度だけ》など、つれない事を仰らないでください。貴女がお望み下されば、いつだって傍に参りますよ?」
しかし、珠姫はその言葉を聞くと悲しげに首を振った。
「貴方も気がついているのでしょう? 私の神威はもう殆ど残っていません。」
その多くの力は高皇産霊神に奪われてしまったと話す。
「彼は、私の神威の力の有用性に気付いたようなのです。」
そして、その力の持つ可能性も――。
「もし、この星に彼が《心の太柱》を立て、《輪廻の輪》を回し始めれば、この地は彼の思うままに操れてしまうでしょう。だから、貴方にお願いがあるの・・・・・・。」
「お願い・・・・・・?」
「ええ、私から神威を受け取って――。」
国常立尊はその言葉に絶句する。この状態の姫君から神威を奪えば、その存在すら消してしまいかねない。
「この星々を作った貴方なら、私の力を取り込んで、組み替え、制御することもできるでしょう・・・・・・?」
「気をしっかり持ってくださいませ。私は貴女を喰らうつもりなどございませぬ。」
しかし、潤んだ目で珠姫は「貴方にしか頼めないの、お願いよ」と懇願する。
「それを本心で仰せですか? 貴女は龍の君の愛でし方というのに。」
そして、国常立尊は「それに」と話すと頬に触れさせた手をずらし、そっと龍の珠姫の掌に口付ける。その表情は酷く傷つき、苦しげな表情であった。
「国常・・・・・・立尊・・・・・・?」
「こうして、もう一度、貴女に触れて分かりました。」
自分にとっても彼女は顎の珠で、かけがえのない存在だ。彼女が龍の君の愛でし姫と分かっていても、心はこの姫を恋うてしまう。
「貴女は龍の君の顎の珠。どうか御身を労わってくださいませ。」
国常立尊はこうして手に触れているだけで、彼女に心の内を見透かされてしまいそうで、「きっと何とかしますから、ね?」と言ってそっと彼女の手を元に戻した。
「また夕焼け空を見られるのでしょう? お元気になられた折には、現物をお見せしましょう。ですから、今はお休みなさいませ・・・・・・。」
そうして、国常立尊が龍の珠姫の御帳台から出たのが三日前。彼女はその後も夢うつつで寝たり覚めたりを繰り返していた。龍の君も気が気ではない様子で彼女の枕元で一日の大半を過ごしている。
一方、国常立尊は、朝、夕に珠姫を見舞う以外は、自室で何枚もの絵を描いていた。
「主様、お呼びでございますか――?」
「ああ、天狐。待っていたよ。」
この三日、龍の君を護るように言っていた天狐を、岩戸を守らせていた艶狐と入れ替えて、自分の元へ戻ってくるように命じたのだ。
「この夥しい数の絵はどうなさったのです――?」
「どう配すれば、彼の方の力を安定させられるか考えていた。」
大小様々な歯車の図が描き散らされてあり、ひとつでは安定しない歯車でも、複数の歯車を組み合わせて自転と公転をさせれば、真ん中の歯車は安定させられるのではないか。そう考えて幾つも幾つも絵を描いた。
「遊星歯車にするには、二つ以上の渦が必要となるし、周囲にもそれを支える輪が必要になる。」
ほぼ休まずに考えていたのだろう。国常立尊が酷く疲れた表情をしているから、天狐は「この片付けにお呼びになったのですか?」と苦笑した。
「いや、そのような些事はいいのだ。お前を呼んだのは、お前にしか頼み事があって呼んだのだよ。」
「頼み事ですか?」
「ああ。」
すると、天狐が白金の髪を揺らして「誓約までなさったのです。命をお出しになれば、我らは従いますよ」とにこりと答えるから、国常立尊は「地狐の事を言っているのか」と苦笑する。
「ええ。地狐が泣きながら戻ってきた時には何事かと思いましたよ。」
薄緑の勾玉は国常立尊の《気》に染まり、地狐は「龍の君と珠姫に何かあれば、主様が消えてしまう」と袖で涙を拭いながら天狐の元へ戻ってきた。
「よもや、我らを脅すのに御身を質となさるとは。端で聞いていた龍の君は《そこまでの酔狂ぶりは真似出来ぬ》とお笑いでしたが。」
だからこそ、艶狐と代わると話しても「酔狂者の主に仕えるのは大変だな」と快く送り出してくれたのだが、書き散らした紙に埋もれるようにしている主の姿を見ると、天狐は「やはり側仕えの者は誰かしら必要ですね」と笑った。
「我らは主様しか知りませぬが、他の神々は御身を質にするような事はしないようですね。」
「ああ、そうだろう。それにこんな風に《頼みごと》もしない。」
くすくすと笑う国常立尊の様子は、三日前とは違い、どこか緊張感に満ちている。天狐は「何かご覚悟なさったのですか?」と訊ねた。
「ああ、先手に打って出る。」
「先手? 一体、何をなさるおつもりですか?」
「兄者と双子星としての繋がりを断つ。」
すると、天狐は器用に片眉を上げ「兄上と和解なさる道を絶たれるのですか?」と訊ねた。
「ああ、此度の件で、覆水は盆に返らないと思い知らされた。兄者と私の道は、もう、交わることはあるまい。それほどまでに兄者との道は離れてしまった。」
野狐が報告した偵察の結果は、地狐がもたらした情報よりも、もっと深刻なものだった。天常立尊の星は、無理に周りの星を吸い寄せているという。
「兄上の星はそこまで重さがありますまい。一体、どうやってそのようなことを・・・・・・。」
「《滑車》だろう。奴らは瑠璃の宮の姫の持つ神威を奪い、少ない力で大きな力を得られることに気がついてしまった。」
瑠璃の宮の姫の力は星ひとつとしてはどうということはない力だが、渦の力と共にあるとその力は千差万別に力を発する。
「このまま繋がっていれば、やがてこの星系は兄者の星系に引きずり込まれる。」
そうなる前に繋がりを絶たねば、待っている未来は暗いものだ。
「それに姫君の力は使いようによっては、龍の君の《渦の力》を再現出来る。それを使って、奴らはこの瑠璃の星のような星を新たに作るつもりだ。」
「そんな横暴な事が罷り通るのですか?」
「ああ、すでに姫君の力を奪ったようだし、星の欠片を集めているなら、すぐにでも動き出せよう。」
「危うきは御身がこの星にないと気が付かれた時と、真正面から抗争になった時でいらっしゃいますね?」
前者はいくつかの《呪》でそれらしくする方法があるが、後者は多勢に無勢、下手をすれば国常立尊自身が囚われる可能性がある。
「ああ、その通りだ。そうなったら我らの完敗だ。」
それゆえ、秘密裡に双子星としての繋がりを断ち、可能なら姫君の神威を奪い返してくる必要がある。
「承知しました。この天狐、御身を守る為ならば、いずこへも付いて参りましょう。」
「そんなに簡単に決めても良いのか?」
「この星も、この名も、この姿も、全ては御身あってこそ生まれいでたもの。その神が求めるのです。何を迷う事がありましょう?」
「そう言ってくれると心強い。」
国常立尊はニコリとすると、天狐に「これを渡しておこう」と、手のひらより少し直径の大きい銅鏡を渡す。
「これは鏡にございますか?」
「ああ、御神使いとしての鏡だ。それにその鏡は任意の時空と繋がるように《呪》を施した。私が消えぬうちは、どこからでもこの邸の庭の水鏡の元に戻れよう。」
虚像の世界によって異なる時空を繋ぎ、鏡渡りという御業が出来るのだという。
「斯様な事は神々の世界では一般的なのですか?」
「まさか。それもこの三日で組み上げた考えて作り上げた《呪》だ。迅速に事に当たるには、移動時間は短い方が良い。」
しかも聞けば野狐に頼んで、向こう側にも同じような鏡を二つ、忍ばせてきたらしい。
「先に結び目を緩めておき騒ぎを起こした最中に、そのまま敵の懐に忍び込む。姫君の神威を奪い、再び騒ぎを起こして、結び目に戻り、繋ぎを切ったらこの庭に戻る。」
ここまでやって、四半時かもう少しで片付けたいと言うから驚きだ。
「それで、私には何をさせたいのですか?」
「出来るだけ派手に霹靂を起こして、敵の陽動と撹乱をして欲しい。危うくなったら、先に水鏡に戻っても良い。その時は向こうに設置した鏡を回収しながら、こちらへ戻る。」
国常立尊は「《呪》を考えていたら三日も経ってしまった」と苦々しげに言うと、「では、行こう」と庭に向かう。
外には真珠のような美しい満月と、それの映りこんだ池。国常立尊が《呪》を唱えると、水面の月は一段と白く輝き、渦を描き始める。
国常立尊が躊躇なく、その月へと歩んでいくから、天狐も跳躍し白金の狐の姿になると、池の月の中へと身を投じた。