風、起こる
六月に入り、空は雨までは降らないまでも、生ぬるい湿り気を帯びた空模様で、連日ぐずついた天気が続いている。
島崎 柊吾の最近の日課は、そんな夜でも仕事終わりに愛宕神社に寄ることで、見上げるような出世の階段を登っては主祭神の火産霊神をお参りしていた。
そんな事を日課にしていると他人が聞けば、「何か人知れず叶えたい願い事でもあるのか」と言われそうだが、柊吾が愛宕神社をお参りするのはそういった類のお参りではなく、あくまでも火産霊神の見舞いのためのお参りだった。
「人の子としての生活もあるでしょうに、毎夜、甲斐甲斐しい神使ですね。」
夜も更けて本来なら人気のない神社なはずなのに、不意に声をかけられる。声のした方を見れば、池の中程にある祠が薄青い光に包まれていて、同じ色合いの光を帯びた女性がふわりと姿を現して柊吾のすぐ傍に降り立った。
普通の人ならこんな不思議現象を見たら、幽霊だなんだと大騒ぎするのだろうが、柊吾は妹の島崎 加代子の七七日忌以降、こうした事態が日常的に起こるので、すっかり慣れっこになってしまった。
「お久しぶりでございます。罔象女神。」
柊吾が挨拶すれば、罔象女神と呼ばれた女性もにっこりとする。
「こちらこそ、ご無沙汰しておりました。火産霊神や須勢理毘売のご様子はいかがでいらっしゃいますか?」
「火産霊神はかなり回復し、加代子はようやく現世での住まいが決まって落ち着いてきたようです。」
目の前に現われた神は「罔象女神」という水神だ。彼女とここ愛宕神社で会ったのはひと月ほど前で、彼女と稀代の陰陽師である安倍 晴明、元大己貴命こと時任 雅の三重の結界でも、高皇産霊神に干渉されたことを受けて、現在の加代子は葦原中国に逃げ込む事になったのだ。
そのため、今の加代子には、その魂の父であるという素戔嗚尊は言わずもがな、兄である八嶋士奴美神と五十猛神まで引っ張り出して、雅、晴明と五人掛りで隠す事になったから驚きだった。
「その節は加代子や大己貴命の為に御尽力下さり、誠にありがとうございます。晴明から聞きましたが、あのように沢山の神を神域に招かれるのは、ご負担が掛かるのでしょう?」
それゆえ、別々の日に時間を置いて、加代子とから、同じようにして雅にも同様の呪を掛けたのだ。そちらも加代子の時と同様に神皇産霊神、大山祇神、罔象女神、火産霊神、少彦名命をお招きして、錚々たる面々での呪掛けになった。
「でも、まさか大己貴命を隠すのに神皇産霊神がお忍びとはいえ、いらっしゃるとは思いませんでした。」
やってきた神皇産霊神は柊吾を見つけると、元祖悪戯っ子の血が騒いだのか「熾久」と声を掛けてくるや否や、挨拶のハグをしてきた。
「こちらは貴方が神皇産霊神とまでお知り合いな事に驚きましたけれど? 」
罔象女神はそう言うと、少彦名命の母神である神皇産霊神は、「大己貴命贔屓な上、甚く新し物好きな方だから、熾久も気に入ったのでしょうか」と話した。
初対面の時は各々別々に会ったので、神皇産霊神と少彦名命に共通点を感じていなかったのだが、二人を一所に見れば、確かに顔立ちと言い、雰囲気といい、とてもよく似ている印象を受けた。
「初めてこちらを訪れた日、火産霊神の案内で午前中に東京大神宮で神皇産霊神にもご挨拶致しましたので面識があったのです。」
そして、どことなく火産霊神に雰囲気の似た天照大神や、加代子を狙っている高皇産霊神、金眼銀眼の天之御中主神にも拝謁したと話す。
「元は大己貴命に助けられた鼠に過ぎぬ自分が、こうして火産霊神にもお仕えするのも何かの因果。熾久の字名に恥じぬ働きができるよう、精進したいと思っています。」
すると、罔象女神もにこりとして「そうだったのですね」と話した。
「火産霊神の方もお陰様で少しの間ではありますが、床から出られるようになってきました。」
「そう、それなら良かった――。」
どうしたわけか火産霊神は「雅信は意地でも加護する」と言って聞かず、理由を聞いても「プライドの問題じゃ」と言うだけで詳しくは教えてくれなかった。
しかし、ようやく起き上がれるようになったばかりの火産霊神が、雅を加護するにはやはり神威が回復しきれていなかったようで、また一週間ほど伏せっていたのだ。
見兼ねた雅が自分に護り石を持たせて火産霊神の力を使うのを抑制したり、少彦名命が薬酒をお裾分けしてくれたりしたおかげで何とか持ち直したが、今日は「なんでこうなるのだ」と不貞腐れていた。
「少彦名命にもどうぞよろしくお伝えくださいませ。」
柊吾が言えば「その背の君のことで相談があって」と困り顔をする。
「少彦名命に何かございましたか?」
「ひどく不貞腐れているの。」
聞けば火産霊神を助けた日を最後に、雅にも加代子にも連絡が付いていないらしい。
「《その癖、呪の解き方を調べておいてくれとか言って、あいつは頼めば俺が何でもやると思ってるんだ》とかなんとか・・・・・・。」
「ああ、そっちもですか・・・・・・。」
「大己貴命に葦原中国に付いていくのを反対されて拗ねているだけだとは分かってはいるのだけれど。」
憂い顔で「ほんに困ったこと」とぼやく罔象女神が、井戸端会議をする母親かなにかのようで柊吾は思わず笑みが漏れた。
「どこかの国の神様は《汝の敵を愛せ》とまで言っているのに。」
それを聞くと、柊吾も「なるほど確かに《右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ》という神に比べると、この国の神は民草を救う救世主にはなり得ないな」と思う。
むしろ右の頬を打ったなら子々孫々末代まで祟るタイプの、やけに人間くさい神々だ。そして、民草はそれを知っているからこそ、崇め奉ってきたのだとも思える。
地震、雷、火事、親父――。
それ以外にも噴火や台風、竜巻、地滑り。
数多の災害に見舞われる中で、大きく揺れる地面、押し寄せる津波、氾濫する川、雲間に射し込む日差し、長い年月を経た巨木に神を見出すのも道理だと思う。
「今、伝わる神話は俄には信じられぬ話ばかりですが、闇雲に《隣人を愛せ》という神よりは、個人的には《末代まで祟る》という神の話の方が信じられます。」
こうして古事記や日本書紀に出てくる神様と会う機会が増えたので、教養のためと思って、改めて「日本神話」に関わる本を読んでみると荒唐無稽な内容も多く「なんでそうなった?」とツッコミを入れながら読んだ。そして、思ったのは「実に人間くさい神様だな」という印象だ。
日本の創世神話はキリスト教や仏教のような「教え」ではなく、どちらかといえばギリシャ神話やケルト神話のように自然を畏れた結果のようで、神は喜怒哀楽、気紛れに神同士で戦い、まぐわい、生きている。
特に記憶を取り戻した柊吾にとって、大己貴命と須勢理毘売命の課題婚のくだりは懐かしく、国譲りの話は胸苦しさを思い出すほど悲しかった。
「お伺いしていた天疎向津媛についても調べてみましたが、今世には殆ど伝わっておりませんでした。僅かばかり伝わっていても、天照大神を崇めるように上手く書き換えられている。」
「ええ、賢木を撞いた高皇産霊神には、都合の悪い事実でしたから、民の目が天照大神にいくようにしたのでしょう。」
「そうでしたか・・・・・・。」
「何か気になるところが?」
「ええ、晴明殿が霊力の高い娘を神籬としたと教えてくれましたが、天疎向津媛が天照大神と別ならば、その霊力の高さだけで選ばれたとは思えないのです。」
「そうですね、あのように惨いことを高皇産霊神が行ったのには理由があります。」
「何か、ご存知なのですか?」
柊吾は「もしご存知なら、そちらにお邪魔してもう少し詳しいお話をお聞かせ頂けませんか?」と訊ねる。
「加代子の近況を少彦名命へのご報告するのも兼ねて。」
「熾久は大己貴命達の居場所を知っているの?」
「いえ、そこまでは。ただ、何故か、大己貴命の持つスマートフォンが、高天原のものなのに加代子のそれと繋がるんですよ。」
それゆえ、加代子には柊吾名義のプリペイド携帯を持たせ、柊吾が加代子の遺品となっていたスマホを持っているだと言う。
「試して見たところ、こちらから掛けるには加代子でないとダメなようですが、あちらから掛けて下さる分には私でも受けられるようでしたので。」
それに場所までは聞いていないが、加代子から何通かメールが来ていて、連絡もつく。
「明日の予定は問題ないのですか?」
「ええ、明日から代休も利用して三連休ですのでその間なら差し支えありません。」
実家暮らしとはいえ、週末は家にいる方が稀になってきている。
「そう。では、いらっしゃい――。」
罔象女神は祠の方に振り返り、手をかざせば、水の輪が生まれて、向こう側には春の陽だまりの景色が見えてくる。
その中に足を踏み入れるのは二回目で、暗いところから明るいところに出た柊吾は目を細めた。
ひらひらとモンシロチョウが飛んで、花に戯れている景色はのどやかで、これが晴明によって作られた景色とは信じられない。
一緒にいらっしゃると思った輪は、罔象女神が通り抜けてくる前に閉じてしまい、それに先日と違って、邸の中にも人影は無い。
(無断で邸に上がるのも悪いな・・・・・・。)
柊吾はそう思ってしばらく辺りを見回していれば、何処からか「おや、熾久殿でしたか」と晴明の声が聞こえてきた。
しかし、邸の中に晴明の人影はなく、モンシロチョウが面白がるように柊吾の前へ飛んでくる。
「お邪魔しています、晴明殿。そちらは式ですか?」
「いかにも。博雅よりはこれで毎度驚くので、つい悪戯を。少々お待ちください。」
モンシロチョウは花びらに変わり、風に乗って消える。
(本当、不思議の国だよな・・・・・・。)
自分はさながらそこに迷い込んでいるアリスのようなものかと思いつつ、苦笑していると奥から「いらっしゃいませ」と晴明が出迎えてくれた。
「先程まで罔象女神とお話させていただいていたのですが、輪をくぐったら一人でして。」
「罔象女神は北のお部屋にお戻りでいらっしゃいます。それゆえ私がお迎えした次第。」
洋装姿の晴明に、階を案内されると邸に上がってくるように促された。
「今日も少彦名命に呼ばれたのですか?」
「いいえ、今日は私からお願いして参ったのです。天疎向津媛の事をもう少し詳しくお伺いしたくて。」
「天疎向津媛のことを?」
「ええ、罔象女神がご存知な様子でしたので――。」
晴明は「それは私もお伺いしたいお話ですね」と話すと懐から紙人形を取り出して、ふっと息を吹きかけた。紙人形は歳の頃は十余りの童子に変じる。
「棗よ、罔象女神に私も同席しても差し支えないか、お伺いを立てて来ておくれ。」
晴明が命じるとみずらを結った水干姿の童子は「承知しました」と告げて去っていく。柊吾はゆらゆらと髪を靡かせて去っていく棗という式に火産霊神の姿を重ねて目で追った。
「いかがしましたか?」
「いえ、童子は水干姿なのだなあと思いまして。」
「ええ、あれらは作った当時のままですからね。」
晴明は「今、作れば、洋装かもしれないですが、やはり使い慣れた式になってしまいまして」と笑う。
「私のこの姿も見慣れぬのではありませんか?」
「ええ、実のところを言えば。昔は狩衣姿でいらっしゃいましたでしょう?」
「そうおっしゃる熾久殿もかつての直垂姿ではありますまい?」
柊吾はくすくすと笑みを漏らす晴明のあとについて簀子を進んだ。