花無心にして蝶を招く
それからしばらく時は流れ、龍の君は神皇産霊神の元にいた。
瑠璃の星に旅立った国常立尊を天之御中主神の大宮に何とかして引き戻せないか。それがだめでもせめて高皇産霊神から護ってやれないか。
龍の珠姫は伴わず、単身で現れた龍の君の様子に神皇産霊神は「どういう風の吹き回しだ?」と訊ねた。
「別に何ということはない。」
「では、ここまでお茶でも飲みに来たというのか?」
龍の君の姿は私的な用事でふらりと立ち寄る時の姿ではなく、神議りの時と同じような漢服を着ていて、やや煩わしそうに長い袂を払うようにしている。
そんな龍の君の様子に神皇産霊神は「そのような格好までしてきて、どうしたのだ?」と客間の腰掛けへと誘導する。腰掛の骨組みは薄青い色の硝子で作られていた。
神皇産霊神の宮は天之御中主神の大宮の右翼に控えるように構えられていて、玻璃の宮と呼ばれている。
全体的に薄青い色の色調の宮になっていて、神皇産霊神曰く「嫌いではないが、綺麗すぎて落ち着かぬ」と言いながら過ごしている。
そのせいか、この宮は他と違って神皇産霊神が生み出した様々な小さき生き物達が、そこかしこを漂い、蠢いていた。
半透明に透けた海月だか烏賊だかのような精霊が宙を漂い、三葉虫やカブトガニのようなものが地を這っている。龍の君は辺りを見回して「お主の感性で造るとこうなるのか?」と眺めた。
「ああ、これは国常立尊に頼まれた副産物だよ。」
そして、くるくると指を動かすと海月を作ってみせた。
「国常立尊に頼まれた?」
「どうやって《神》を生むのか見せて欲しいと言い出してな。しかし、私とて《神》を生むのは主上の許した神事の時だけだ。」
それゆえ、神生みについては仕組みを説明するのに留めて、代わりに自ずと生まれた精霊に名と器を与えて契約する方法を教えたらしい。
「なるほど、それで副産物か。」
「ああ、あの子が《新たな神》を作るなら、面白いものが出来ただろうな。」
「その事だが神皇産霊神はどう見る――?」
「どう、とは?」
「高皇産霊神らのいう《新たな神》と《箱庭計画》。それと、それに対する国常立尊の予想のことだ。」
すると、神皇産霊神は「国常立尊の見立てはほぼ間違いないだろう」と答えた。
「私の《神生み》に限りが設けられているのは、もちろん私自身の力に限りがあるのもあるが、彼の言うところの技術的特異点を少しでも緩めるためにある。」
そして、神皇産霊神は「国常立尊自身が、ある意味、私にとって技術的特異点になり得る存在なんだが」と微笑み、「ああいう子が生まれてくると、双子星でも番星でもないが、贔屓したくなってしまう」とも話す。
「お主も龍の珠姫について、同じように庇護しているから分かるだろう?」
その言葉に龍の君がすっと目を細めると、神皇産霊神は「おや、同じにされて気に障ったか?」と訊ねてくる。龍の君は静かに首を横に振った。
彼女は双子星でも、番星でもない――。
それは覆りようのない事実だ。
「我とて龍の珠姫のことは愛しい。そして、幸せにあれと常に願っている。この気持ちを贔屓だというなら、確かに贔屓なのだろう。」
彼女の心は既に自分の元にはない――。
先日、それに気がついてから、自分が龍の珠姫を何よりも欲し、酷く執着している事に気が付いた。
「手放したくはない。だが、傷付いた顔も見たくない・・・・・・。」
龍の君が独り言ちると、神皇産霊神も頷いた。
「私もだよ。あんな風に湿気た顔をしたあの子は見たくもない。国常立尊と天常立尊も昔はとても仲が良く、よくその庭でじゃれあっていたのに・・・・・・。」
淋しそうに呟く神皇産霊神の様子に、龍の君は今更ながら二ヶ月もの間離宮に籠っていた事を申し訳なく思った。
「何とか国常立尊をこの地に呼び戻す方法はないものだろうか・・・・・・?」
龍の珠姫の事を思えば複雑な心境ではあったが、今後の事を鑑みても、神皇産霊神の事を鑑みても国常立尊をこちらに戻せるなら戻した方が良いだろうと思われる。
「見た目こそ天常立尊と同じように見えるが、彼奴は主上の傍に置くのが良いように思える。」
神皇産霊神が片眉を上げると、龍の君は「彼奴はこちらにも暇乞いの挨拶に来た」と話した。
「あの子に会ったのか――?」
「ああ、会った。天常立尊と同じ容貌はしていても別人だ。忌避する理由がない。」
気性の荒い龍の君が簡単に割り切るようには見えず、神皇産霊神は「龍の珠姫の口添えがあったのだな」とすぐに見破ったが、「そういう事にしておこう」と微笑んで納得した。
「だが、あの子を呼び戻すのはやめた方がいい。あの子にこの大宮は窮屈過ぎる。」
「だが・・・・・・。」
「言いたいことも分かる。だが、呼び戻すとしても、それは《今》ではない。あの子を助けたいのなら、このまま瑠璃の星に行かせておやり。」
「なぜ、そなたは手放せる・・・・・・?」
神皇産霊神はその問いに悲しげな表情に変わった。
「手放したいわけじゃない。けれども、それ以外に高皇産霊神や天常立尊から助けられる気がしなかったのだ。」
神皇産霊神は席を立つと、天之御中主神の大宮を挟んで反対側に建つ高皇産霊神の翠玉の宮を眺めみた。
「高皇産霊神とは共に生まれ、彼の事は何でも分かっていると思っていたのに、近頃、とんと分からない。」
どこで道を違えたのか、高皇産霊神とはこんなに近くにありながら、大きな隔たりを感じるようになってしまった。
「天常立尊と国常立尊は幼い頃、よくこの庭で遊んでいた。あの頃は兄を慕って、国常立尊が付いて回る・・・・・・。あんなに仲の良い兄弟だったのに、どうしてこんな風になってしまったのか・・・・・・。」
部屋と庭を隔つ玻璃の壁に手を付き、その冷たく固い感触に、神皇産霊神は切ない気持ちになる。
「国常立尊はいつか再び分かり合える日も来るだろうと話していたが、私は嫌な予感がしてならなくてな・・・・・・。」
何かあらば必ず助けに行こう――。
胸騒ぎにも似た感情を押し殺して、暇乞いをしに来た国常立尊にはそれだけ告げたが、今もふとした瞬間に不安が溢れてくる。
「神皇産霊神、お主、何を知っている?」
龍の君の問いに神皇産霊神は首を横に振りながら「ただ高皇産霊神は国常立尊の秘めている力に気付いたのかもしれない」とだけ呟いた。
「秘めている力・・・・・・?」
「ああ、あの子は《磁力》を操れる。」
その言葉に龍の君はガタリと音を立て、腰を浮かす。
「磁力を操れる、だと・・・・・・?」
他にも磁力を持つ星は数多ある。しかし、それを操れるとなれば話は別だ。
「新たな動力を得るつもりか・・・・・・。」
神皇産霊神は頷き「おそらくその心づもりであろう」と話す。
「高皇産霊神は新しい神を生み出す話に私とお主を排した。しかし、それで新たな神が結べるとは思えない。」
天常立尊の話したような神を生むならば、渦の力に変わる動力と、それを精密に制御する力がいる。龍の君はその話を聞くと龍の珠姫の身を案じ、それからサッと顔色を変えた。
それはあまりに唐突に――。
プツリと龍吟の琴の糸が切れた感覚がして、龍の珠姫に渡していた琴軋から彼女の恐怖と苦しみが伝わってくる。
兄様、救けて――。
悲痛の叫びに神皇産霊神の宮にいる事も忘れて、部屋を飛び出していく。挨拶も何も無く、急に部屋を出ていった龍の君の様子に呆気にとられていた神皇産霊神も我に返って後を追う。
そして、天之御中主神の大宮の、神議りの広間に龍の君の気配を見つけると、急いで空間転移した。
◇
「これは・・・・・・。」
神議りの広間は、穢れの気配がして顔を顰める。鼻の奥を突き刺すような臭気が立ち込めていた。神皇産霊神が口元を抑えて、何とか臭気の原因を探ると龍の君が屈み、何かを抱えて呻いている姿を見つけた。
近くには糸の切れた龍吟の琴があり、龍の君が抱き締めているのが、彼の寵愛する珠姫だと気が付く。
その身は酷い有様で、必死に抵抗して逃げ出してきたのだろう、衣は破れ、髪は乱れ、あちこち傷だらけだった。手首、足首にはきつく縛られたあとが残っている。
「何が起こった・・・・・・?」
「神威を奪われたようだ。」
龍の珠姫に触らぬよう怒声を押し殺してはいるものの、龍の君は怒りに任せて今にも暴走しそうに見える。
神皇産霊神は辺りに被害が出ぬように結界を張ると、「どれ」と龍の珠姫の手を握り、「一二三・・・・・・」と唱える。しかし、多くの神威を奪われた彼女は、多くの星がそうなるように自らの熱にその身を喰われ始めていた。
彼女はもたない――。
神皇産霊神は沈痛な面持ちになると、怒りに打ち震えている龍の君に向かって、ゆっくりと首を横に振る。そして、彼女の神威がこれ以上失われぬよう大蛇の肩巾で彼女の身を包んだ。
「産霊し直したのではないのか・・・・・・。」
「ああ、産霊し直した。し直したが・・・・・・、手遅れだ・・・・・・。神威を奪われすぎている。」
二人の話に意識を取り戻したのだろう、龍の珠姫は薄らと目を開ける。そして、龍の君の姿を認めると苦しそうな息遣いながら薄く微笑んだ。
「兄・・・・・・様・・・・・・。」
龍の珠姫は「本当に来てくれた」と囁く。
「琴の糸を切れば、必ず駆けつけると言っただろう?」
龍の珠姫が僅かに手を伸ばすと、龍の君は急いでその手を取り「どうした?」と訊ねた。
「最期に・・・・・・、兄様に会えて・・・・・・良かった・・・・・・。」
「最期などと、そのように心弱き事を申すな。主上なら何か手立てをご存知かもしれぬ・・・・・・。」
しかし、龍の珠姫は首を横に振ると「主上がたかが星一つのために手を貸せぬことをご存知でしょう?」と龍の君の頬に触れた。
天之御中主神が誰かに肩入れすることはない。彼の神はただ「承認」するか「否認」するか、その裁定を下すだけの神だ。
龍の珠姫は神皇産霊神に「この身はどれくらい保つのでしょうか?」と訊ねる。神皇産霊神は「分からない。だが、そう長くはない」と話す。その言葉に「そう」と呟き「救って下さりありがとうございます」と話した。
「兄様、泣いていらっしゃるのですか・・・・・・?」
「何故、そなたはそのように受け容れる? もっと貪欲になれば良いのにッ!」
生きてくれ――。
そう願い、いつものように自らの渦の力を分けたくても、必要な歯車の欠けた彼女では、負担にしかならない。
「貪欲に・・・・・・?」
「ああ、何でも構わぬ。望みがあるなら申してみよ。」
すると、龍の珠姫は「それなら、もう一度、国常立尊の見せてくれた星々を見てみたかった」と言い、激しく咳き込んだ。
龍の君が「苦しいのか?」と抱え直したが、龍の珠姫は熱に浮かされているのか独り言を言うかのように「とても綺麗なのよ」と話しを続ける。
紺碧の星、空色の星、萱色の輪のある星、大きな赤斑の渦巻くマーブル模様の星。
瑠璃色の星の内から見る美しい夕焼けと煌めく海。
暗い闇に浮かぶ白い真珠のような月と、砂子のような星たち。
「ああ、あの星から見た景色を・・・・・・、兄様にも・・・・・・、見せて・・・・・・あげたかった・・・・・・。」
そう消え入りそうな声で話し、そのまま気を失った龍の珠姫の様子に、龍の君は何を思い立ったのか「主上に挨拶をして、そのまま、国常立尊の星へ向かう」と言い出した。
「お主、消えかけの星ひとつのために、神去りするつもりか?」
神皇産霊神の問いかけに、龍の君は「今更ながら、分かったのだ」と呟く。
「これは《摂理》だ――。」
花は種の保存のために無心に咲いていて、蝶もただ蜜を飲みたいがために無心で飛んでいるだけで、あれこれしてやろうと気を揉んでも上手くいかない。
丁度、蝶が来た時に花開くように、全ての事は自然とあるべき姿をとる。
「この子はあの男を求めている。ならばすべき事は一つだ。」
そう言うと、大事そうに龍の珠姫を抱えて、天之御中主神の奥宮に向かっていく。神皇産霊神はそれを見送ることしか出来なかった。