龍吟じて、雲を呼ぶ
琴の音が聞こえる――。
素戔嗚尊が目を覚ますと、すぐ傍に加代子がいて、静かに琴を奏でていた。
根の堅洲国は初秋の頃となり、風も幾分涼しくなってきている。
「来たのなら、起こせば良いものを――。」
素戔嗚尊が言えば、加代子は琴を爪弾く手を止めた。
「柳舟にあまりお休みでないとお聞きしました。今の状態では無理からぬことですから、少しでもお休み頂きたくて・・・・・・。」
須勢理毘売の頃と同じように変わらず自分を気遣う加代子の様子に、素戔嗚尊はふっと笑みを漏らした。
「ああ、心地よい琴の音であった。だいぶ勘を取り戻したのではないか?」
「そうでしょうか? 覚束無いところも、まだまだあるように思いますが。」
加代子の言葉に「琴に執心なのは今も昔も変わらぬな」と笑う。
「お主がここにいるということは、大己貴命と喧嘩でもしたのか?」
「いいえ。少彦名命と龍穴を見に行くのにあたって、一旦、こちらに身を寄せているように言われたのです。」
「では、こちらに居られて一刻かもう少しというところか。」
「はい、忙しなくて申し訳ございません。」
もう一度、柊吾に来てもらう心づもりだったのだが、あいにく捕まらなくなってしまったので、加代子だけ根の堅洲国に戻ってきたのだ。
「構わぬ。相手は高皇産霊神だ。一人でいる方が危うかろう。」
どうやら事の次第は素戔嗚尊の耳にも入っており、かなり気を揉ませていたらしい。
「あの・・・・・・、私はあまり思い出せていないのですが、高皇産霊神は素戔嗚尊でも、警戒なさるような方なのですか?」
「ああ、そうだな。あやつは《善きこと》であれば何をしても良いと思っている節があるからな。」
その表情はいつになく厳しい。しかし、加代子はそれの何が問題なのかが分からなくて首を傾げた。
「《善きこと》なのに警戒が必要?」
「ああ、そうだ。《善きこと》は時に傲慢となる。先の葦原中国の大戦の時に、《八紘一宇》と叫ばれた事は知っているか?」
「《八紘一宇》ですか?」
「そうだ。天の下において、全ての人は違いはなく、平等なのだから、ひとつの家と為し、仲良く暮らして行けるようにしようと謳われた言葉だ。それは言葉の意味だけなら《善きこと》に聞こえるが、あやつはそれを武力を持って制することの大義名分としたのだよ。」
現に高天原でも、そうした考えが故に多くの国が制圧され多くの国津神が沈黙した。
「《善きこと》は誰にとっての《善きこと》なのかで変わる。」
そういうと素戔嗚尊は「八岐大蛇を目覚めさせぬために、須勢理を犠牲にせよと言う高皇産霊神は万人にとっては善きことを言う者かもしれぬが、我にとっては悪しき者だ」と言う。
「高皇産霊神は恐ろしき古の神。ゆめゆめ一人で近づくでない。」
その声は厳しく有無を言わせないもので、加代子はこくりと頷いた。
「ともあれ、無事な様子を見て、少し安堵した。もう少し琴の音を聞かせておくれ。」
「ですが・・・・・・。」
「なんでも良い。手遊びに聞かせよ。」
そう言われると加代子はおずおずと、確か、小学生の時の音楽の授業で習った「もみじ」をアレンジして弾いてみた。
「聞かぬ曲だな。何の曲だ?」
「《もみじ》という唱歌のアレンジです。ちょうど庭の紅葉が美しいでしょう?」
すると素戔嗚尊はククッと喉を鳴らし「今のお主では《龍吟の琴》もただの楽器だな」と笑う。
「龍吟の琴?」
「ああ、その《天詔琴》のもうひとつの呼び名だ。龍吟じて雲を呼ぶが如く、その音、八雲を生じ、八重垣を作る。」
「妻籠みに八重垣作るその八重垣を、の?」
「ああ、そうだ。龍吟の琴は霊威を篭めれば、邪を祓い、辺りを言祝ぐ琴だ。龍の珠姫の遺物で十種の御宝の一つだからな。」
「そんな事が出来る琴なんですか?」
加代子がキョトンとした顔をすると、素戔嗚尊はその首元から翡翠色の琴軋を取り出して、「少し場所を変わってみなさい」と言って琴を引き寄せた。
「それは、おもうさまの琴軋?」
「いいや、これはこの琴と対になる琴軋だ。」
そういうと素戔嗚尊は翡翠色の琴軋で龍吟の琴に触れる。
一掻き、また、一掻き。
素戔嗚尊が菅搔きする度に、辺りに清涼な気が広がり、清められていく感覚がする。
加代子は目を丸くして驚いた。
その様子に素戔嗚尊は手を止めて「今のはほんの僅かに霊威を乗せたに過ぎぬ」と話す。
「この琴は、古より伝わる霊威を増幅する楽器なのだ。」
「昔の私も同じような事が・・・・・・?」
「いいや、それを教える前に、大己貴命にこの琴ごと攫わられてしまったからな。」
そして「この琴に纏わる話をしておかねばと思いながら、随分と時が流れた事だ」と苦笑する。
「いい機会だ。この琴の逸話を話しておこう。」
素戔嗚尊は琴を奏でながら、加代子に龍吟の琴の逸話を話し始めた。
◇
遠い昔。まだ天地開闢よりも前の頃。龍の君の元には幼い龍の珠姫が身を寄せていて、大切に庇護されていたのだという。
素戔嗚尊曰く、龍の君にとっての龍の珠姫は、自分にとっての須勢理毘売命のようなもので、溺愛されていたのだという。
自らの気に当てられて龍の珠姫が苦しむ事がないように、龍の君は大蛇の肩巾と龍吟の琴を始めとして十種の御宝を生み出して、「力なき幼い姫神が自ら身を守れるように」と彼女に神宝を与えたのだという。
「よくお聞き。この琴を奏れば、龍吟じて、雲を生ず。一掻きすれば邪を祓い、二掻きすれば魔を祓う。」
「もっと鳴らすとどうなるの?」
「三掻きすれば八雲を生じ、四掻きすれば我が力を貸し与う。」
「兄様の力を貸し与う? まさか《渦》の力?」
「まさか、《氷》の力の方だ。《渦》の力を下手に使えば、辺り一体何も無くなるぞ?」
幼い龍の珠姫は、龍の君の膝に乗り「ああ、それなら良かった」と無邪気に笑う。龍の君は幼い姫神の榛摺色の髪を撫でながら「これはお前を守るためのものだ、大事にしろよ」と話した。
「あともう一つ。その肩巾や琴でも対抗できぬような、何か恐ろしい事が起きたなら、迷わずこの琴の糸を切るんだ。」
「琴の糸を?」
「ああ。そうすればどんなに離れていようと、我に伝わる。必ず、お前の元に駆けつけよう。」
「でも、こんなに大きいもの、いつも持ち運びは出来ないけど?」
「そういうと思って小さくなるようにしてある。無くすなよ。」
そう言って翡翠色の琴軋を龍吟の琴に翳すと、龍吟の琴はしゅるりと糸が解けるようにして琴軋の中に吸い込まれてしまった。
「凄い、今のはどうやるの?」
目を丸くする彼女の様子に目を細め「続きは部屋に戻ってからな」と言うと、翡翠色の琴軋を首飾りにして珠姫の首に掛けてやる。
そして、幼い姫神を担ぐと龍の君は瑠璃の離宮へと歩み出す。幼い龍の珠姫は貰ったばかりの肩巾を頭からベールのようにかけ、貰ったばかりの琴軋を握りしめた。
そんな龍の君が寵愛する幼子、《龍の珠姫》は別天津神の中では異端な存在であった。
他の星は多くの星、例えば、龍の君や国常立尊がそうであったように、自らを護るだけの力を何かしら持っていた。ある者は渦の力、ある者は磁力、ある者は張力といった具合だ。
しかし、龍の珠姫にはそれがなかった。
彼女の御力は滑車であり、歯車であったから、それ単体では用をなさず、彼女を別天津神とする事を反対する者もいた。
その筆頭が高皇産霊神だ。
高皇産霊神は天之御中主神の傍に侍る龍の君と龍の珠姫を快く思っていなかった。
彼には片方は制御不能な馬鹿力、もう片方は無能なお飾りに見えていたのかもしれない。
それでも天之御中主神がその金眼銀眼を開き、龍の君と龍の珠姫を別天津神として認めれば高皇産霊神とはいえ受け容れざるを得ず、表立っては沈黙せざるを得なかった。
そして、時は過ぎ、龍の珠姫が美しく成長した頃、今度は別の意味で騒動が起こった。
「兄様、神議りには行かなくていいのですか?」
龍の君の袂を引くようにして、龍の珠姫が訊ねれば「あんな下世話な輩のいるところには行く気が失せた」と吐き捨てるように言う。
二柱で別天津神と捉えられて幾年も経つというのに、龍の珠姫が年頃の娘に成長すると「龍の君の双子星や番星でもないのに、瑠璃の離宮に囲い込むのは如何なものか」と言い出した。
確かに双子星でも番星でもない姫星をこうして手放せないでいるのは、自分の執着ゆえだ。
しかし、彼女を誰かに差し出す気も起きなくて「主上の御心にのみ従う」としてこの瑠璃の離宮に籠って早二月。
再三の呼び出しにも応じないでいたら、とうとう神皇産霊神が「頼むから一度だけ出て欲しい」とやって来てしまった。
「全くどうして奴らは静かに過ごさせてくれないのだろうか・・・・・・。」
星が足らぬと言われれば、他の龍を食らってでも大きくしてきたこの銀河で、今度は管理する神が足りぬと騒ぎ立てられている。
「主上のお望みならば致し方もあるまいが、このような事に、あの方はその御眼を開かれることはない。ならば、この離宮に居て過ごしていても、そうとやかく言われる筋合いもあるまいに。」
「しかし、いつまでも籠っている訳にも参りませんでしょう?」
龍の珠姫が琥珀色の目を伏せがちにして、「兄様が少しばかり譲歩してくだされば、私も外にお散歩に行けますのに」と口を尖らせていうから、龍の君は目を細めると「そんな事を言っても行く気はないぞ」と話す。
「私はあのようにお前を悪く言われるのが許せぬのだ。彼奴らが改心せぬ限り、我は行かぬ。」
「では、分かりました。私が主様の名代として神議りに参加致しましょう。」
その発言に龍の君は頭が痛そうな表情をすると、「どうして、そうなる?」とため息混じりに話した。
「私とて、兄様を悪く言われるのは嫌なのです。それに陰で揶揄するものがいるとして、面と向かって言うほど度胸のある者もおりますまい?」
「何を言い出すかと思えば、そのような戯言を。」
「戯言ではございませぬ。それにこのままでは神皇産霊神がお困りになりますでしょう? 私めが心配なら、兄様は、ただ神議りにご同席なさればよろしいのです。」
そう言ってころころと笑う彼女をいつまでも見ていられると思っていた。
あの時までは――。
天常立尊に「星殺しの神」と面と向かって言われた日からしばらくして、国常立尊が瑠璃の星へと神去りすることを決めた。
国常立尊については「星殺しの神」と言い放った天常立尊の双子星の片割れという認識だったが、彼が神去りするのにあたり、わざわざ瑠璃の離宮まで足を運んできたと聞き、龍の珠姫のお願いもあって面会を許した。
漆黒の髪に漆黒の瞳。
国常立尊は人懐っこそうな雰囲気の青年で、天常立尊の非礼のお詫びと共に、箱庭の星に守るために神去りすると聞かされる。
「神去りして何とする?」
「そうですね、ひとまずは高皇産霊神と兄神への牽制でしょうか。」
箱庭の星には手出し無用――。
それを知らしめるために神去りすると話す。そして、龍の珠姫と視線を交わした後、意を決した表情に代わり、「あちらが攻め入り、守りきれぬと判じた時は自ら箱庭の星を壊す心積りにございます」と話すと深く頭を垂れた。
「龍の君には、その際にお力添えをお願いしたくて、こうしてお伺いしました。」
「それはそなたの自害の《介錯》を頼みに来た、という事か?」
「ええ。仰る通りです。」
横で聞いていた龍の珠姫が顔色を悪くして、口許を押さえる。国常立尊の固く握られた拳を見れば、彼が相応の覚悟でここに来ているのも分かる。
「考えておこう――。」
龍の君が回答を保留にし、国常立尊が「それでも結構です。ありがとうございます」と挨拶をして立ち去ったあと、龍の珠姫はその琥珀色の瞳を潤ませて、今にも泣き崩れてしまいそうに見えた。
「彼奴は高皇産霊神の派閥の者と思っていたが、天常立尊などとは考えが違うのだな。」
「ええ、彼の方は彼らとは違います。きちんと兄様の力をご存知です。ですから、お会いいただいたのに、まさかあのような事をおっしゃるなんて・・・・・・。」
龍の珠姫の言葉に、龍の君も国常立尊の思慮深さや、一本、筋の通った考えをする様子に「こういう男こそ主上の傍にいて欲しい」とか「もっと早くに会って話したかった」と思う。
あの男を失うのは、惜しい――。
龍の君はそう口にして、自分が存外、国常立尊に肩入れしている事実に驚いた。
「神皇産霊神にも働きかけて、主上にお願いすれば引き止められるやもしれぬ。」
「いいえ、兄様。あの方は決められたら、我らが引き止めたとて瑠璃の星に向かわれるでしょう。そういう方ですもの。」
龍の珠姫は今まで見たことのない憂いの表情になる。龍の君はその今にも泣き出してしまいそうな表情に戸惑った。
彼女の心はここにはない――。
その心はとうに国常立尊に囚われていて、自分が背中を押せば、彼女はきっと国常立尊の所へ行ってしまう。龍の君はそんな予感に胸の内が酷くざらつくような感覚を覚えて眉根を寄せた。
「兄様――?」
心配そうに見つめてくる龍の珠姫は、もういつもの彼女と変わりない。それでもその琥珀色の瞳に憂いの色を見た後だと、龍の君は問わずにはいられなかった。
「国常立尊と共に行きたいのか?」
そう言えば、龍の珠姫は傷付いたような表情になり「いいえ、私の居場所は兄様の隣です」と答える。
龍の君はその答えを酷いと詰れば良いのか、それとも、こうして自分といる事を選んでくれたと喜べば良いのか分からなくなって、後ろからそっと抱き寄せた。
恋うる気持ちは「悪」ではない。
それなのに、こうしてしっかりと抱き締めれば抱き締めるほど脆く思えてくる。
双子星ではない――。
そして、番い星でもない――。
抱き締めていた細い肩が小刻みに震えている事に気がつくと、龍の君は腕を解く。それから「少し頭を冷やしてくる」と自室に籠った。