世界樹と大蛇
世界樹の根元には、大きな大きな蛇が棲むという。その考えは不思議と一地域だけでなく、世界各国に伝わっていて、洪水神話と同じように多くの国で語り継がれている。
「世界樹」はユグドラシル、セフィロトの樹、セイバの樹として、「世界蛇」はニーズヘッグまたはヨルムンガンド、誘惑の蛇、ククルカンとして、何千キロも離れている地球の裏側でも同じ話が伝わっているのだ。
「この大蛇は・・・・・・、大己貴命と関わりがありますか?」
柊吾の問いに炬が首を傾げたところで、「邪魔をするぞ」と声が掛かり、すらりと障子が開く。炬は大山祇神の姿を認めると、深く一礼をした。
「まだ、天地開闢の話まで話は進んでいないようだな。」
「はい、しかし、基本的なところは既にご存知のようです。」
「そうなのか?」
大山祇神に問われて、柊吾は「少し気になることがあり、天地開闢のあたりは少彦名命に聞きました」と話す。
「モトアケの図の呪もご存知です。」
「ほう? だとしたら、逆に話が進んでいそうだな。神威の話もしたのか?」
「はい。呪との違いをお話ししました。今は心の太柱の話をしていたところにございます。」
「そうか、では、続きはこちらで致そう。炬は持ち場へ戻るが良い。」
「よろしいのですか?」
「火産霊神は騒動の種だからな。野放しにするのは良くない。」
大山祇神の言葉に思わず柊吾も深く頷くと、炬はくすりと笑い「お言葉に甘えます」と一礼して出ていく。大山祇神は柊吾に向かい合うようにして腰を下ろした。
「さて、少彦名命と晴明から話を聞いているようだが、何をどこまで知っている?」
そこで、柊吾は少彦名命や晴明から国常立尊と天地開闢に纏わる話、それとは別に雅に会いもう一人の妹が多紀理毘売命であると分かった話をした。
「しかし、断片的に話を聞きすぎてしまいまして、肝心の流れが掴みきれておりません。それゆえ、大枠の部分を掴みたいと思ったのです。」
「なるほど、それで《体系的に話を聞きたい》と言う話に繋がるのだな。」
「はい。自分の前世の記憶だけではおぼつかなくて、この機会にきちんと整理したいと思ったのです。」
すると、大山祇神は「お主を神使に受け入れたのは、炬や煌にとってはよかったやもしれぬ。」と話す。
「人の子を神使に迎えると言い出した時は、またひと騒動起こすつもりかと思ったが、火産霊神に献身的な様子と言い、この世界に対する向学心の高い様子と言い、人の身として生まれていることが不思議なほどだ。」
柊吾はやけに軟化した態度の大山祇神に面を食らったが、大山祇神に「お主には負担をかけてしまうが、引き続きよろしく頼む」と言われれば、何だか擽ったい心地になって「そのようにお褒め頂き、滅相もない事にございます」と頭を垂れた。
「そう謙遜するでない。今とて、一、二、三・・・・・・四? お主、先日より神使の契約をさらに増やしたか?」
「はい。少彦名命と結びました。」
「そうか・・・・・・。ちなみに今、契約を交わしている神々の本質は分かるか?」
「はい、国常立尊は重の神、大己貴命は風の神、火産霊神は火の神、少彦名命は酒の神でございます。」
「うむ、基本は押えているな。」
大山祇神は一枚の紙を広げて「天地開闢の話を聞いたのなら、《とこ》の事も聞いたか?」と訊ねる。
「はい、《十九》で一桁のフィボナッチ数の総和だと聞きました。」
「そうだ。《とこ》は《ひふみいつや》の和であり、《尢》になる。」
《尢》は《尤》の古い漢字であり、意味は「非常に優れている者」の事らしい。
「《とこ》を知っているなら、《はた》も聞いたか?」
「晴明が正四面体であり、錐であると言っていました。」
「そうだ。そして、同時に《无》となる。」
《无》は《無》と同じ意味で《零》に等しい。柊吾はその話を聞いて、加代子に呼び出される直前、「この話には続きがあるのです」と話していた内容はこれかもしれないと思い至った。
「《二十》で《零》に戻る? それは、二十進法ということですか?」
「いや、それとは少し違う。《はた》はあくまで《二十》の呼び名だ。その意味は《果たて》から来ている。」
「果たて・・・・・・?」
大山祇神は「心の太柱」を指差し、「この中には幽世とも常世とも呼ばれるもうひとつ世界がある」と話す。
「そして、こちらの世と幽世を八条日矛の呪で塞ぎ、籠目の呪で隔つ一方、桔梗の呪で蓮の台に通ずと言われている。」
そう言うと大山祇神は八芒星、六芒星、五芒星を描き出す。
「そして、蛇は古くは《カガチ》と言う。もっと言えばそれは《彼が霊》であり、名を呼ぶのさえ畏れ多い神のこと。」
吐く息は毒気を含み、毒気に当たったものは幻覚を見る事になり、やがて狂うようにして至る所から血を流し死ぬ。大山祇神はS字を描くようにして八芒星、六芒星、五芒星の間を縫う線を描き、先に矢印を描くようにして蛇の頭を描いた。
「そして世界樹の袂の蛇は《大峠》になると、こうして各々の呪を解き、結び直すと言われている。そして、先程の問いだが、この大蛇は大己貴命が出づる前に素戔嗚尊に一度退治された。」
そう言われると柊吾はキョトンとし、それから「それも、そうですね」と苦笑いを浮かべる。
「ということは、時系列的に有り得ないですね・・・・・・。」
「いや、そうは言いきれない。」
「どういう事です?」
「お主の言葉は《言霊》になる。」
「と、言いますと?」
「《比々羅木》は《常世の木》。そして、幽世を幽世たらしめる《封じの木》と申したであろう?」
柊吾は大山祇神の気迫に押されて口篭る。
「根の堅洲国にある幽世に通じる岩戸の辺りには、不可侵の目印となる柊が撞いてあり、常とは異なり横に這っている。」
「横に這う柊?」
「そうだ。何人も幽世に入らぬように施された神籬だ。そして、その先には先程、申した大蛇がいるとされる。柊の垣根より先はその毒気に満ちている、と。」
生きとし生けるものを一瞬で殺すと言われている毒は、未だに三界で畏れられ、近付く者はいない。
「だが、そこより戻ってきた者もいる。」
「大己貴命と少彦名命ですね?」
「ああ、そうだ。そして、もう一人、伊邪那岐命。彼こそが、その始めの男だった。」
そう言うと、大山祇神は伊邪那岐命の話を初めた。
遥かなる昔。大山祇神の知る父、伊邪那岐命はとても純な男だった。
妻の伊邪那美命を愛し、生まれた子を愛し、そして、音楽や歌を愛する「陽の気の塊のような方であった」そうだ。
「神皇産霊神から天地開闢の話を聞いても、我らも神皇産霊神や高皇産霊神らと同じように生じたものと思っていたし、よもや父や母が高皇産霊神によって造られた存在だとは、そう言われたとしても、とても信じる事は出来なかった。」
しかし、その認識が崩れ、神皇産霊神が言っていた事が真実だと悟ったのは、火産霊神の前身である「加具土命」の誕生と死の瞬間だったという。
「父は母の死を大いに嘆いた。しかし、すぐには加具土命を殺そうとはなさらなかったし、むしろ母を亡くした残された子と不憫に思って、私に《兄として弟を助けよ》と仰っていたくらいだった。」
それが変わったのは、弔問に高皇産霊神が降り立った翌日だった。
◇
あの瞬間は何千年経った今でも忘れられない。
涙で目を赤くした伊邪那岐命は虚ろな表情で、自分があやしていた加具土命を乱暴に掴み上げると、火がついたように泣き声を上げた加具土命の首を十拳剣で跳ね飛ばした。
まるで野球のボールが飛んでいくかのように無力な赤子の首は飛び、十拳剣の切っ先から跳ねた赤い血は自分の頬に付き、滴る血から砂金のような輝きが溢れ出ていた。
背後で兄弟姉妹達の叫び声が聞こえる。
しかし、伊邪那岐命の一番近くにいた大山祇神は、悲鳴を上げたら自分も殺される心地がして、声も立てられずに立ち尽くしていた。
目の前の父は虚ろな表情のまま、十拳剣をさらに振るい、加具土命の身体はさらに細かに刻まれていく。
泣こうとした表情のまま転がった頭は床に落ち、先程まで自分の指先を掴んでいた手はそれとは離れたところに力なく落ちている。
「伊邪那岐命よ、その辺で良い――。」
返り血をべったりと浴びても、虚ろな表情の父の背後からやってきたのは、口元を抑え穢らわしい物を見るような表情の高皇産霊神だった。
「その状態ならばお主とて黄泉にも降りれよう。疾く行き、伊邪那美命の身体を取って参れ。」
その言葉に伊邪那岐命は跪き、最敬礼をとる。それと共に立ち尽くす大山祇神が露わになって、大山祇神は高皇産霊神と目が合った。
「ああ、大山祇神が加具土命のお守り役になっていたのだったな。」
この凄惨な状況を見ても、淡々としている高皇産霊神の様子に返事が出来ずにいると、高皇産霊神は「怖いのか?」と訊ねてくる。
「何、お前は怖がる必要はない。お前に害をなすつもりはない故、安心するが良い。」
そして、伊邪那岐命の足元に落ちていた加具土命の胸元を拾い上げると、切り口から指を入れると、オレンジ色の鉱石を抜き取る。大山祇神は目の前の出来事に呆気に取られていた。
「な・・・・・・何をなさっているのですか・・・・・・?」
やっとの思いで大山祇神が訊ねれば、高皇産霊神は薄ら笑いをし「失敗作の《核》を再利用しようと思ってな」と話す。
「再利用・・・・・・?」
「ああ、そうだ。本来なら伊邪那美命を回収したかったが、伊邪那岐命が土葬してしまうとは思わなかった。伊邪那岐命も改良の余地があるな。」
その言葉に大山祇神はわなわなと怒りに肩を震わせ「父上に何をするつもりだ?」と声を荒らげれば、高皇産霊神はクッと喉を鳴らして笑った。
「伊邪那岐命に興味はない。」
「旧式のもの――?」
「何だ、お前は神皇産霊神から聞いておらぬのか? うぬらは我らの紛い物だ。」
そう言いながら、高皇産霊神は「少し欠けてしまったな」と言いながら、加具土命の《核》を懐にしまう。
「天津神は別天津神には刃向かえぬ。」
心は怒りにうち震えるのに、高皇産霊神の言うように身体が全く言う事を効かない。それでも大山祇神が高皇産霊神を睨みあげれば、高皇産霊神はやれやれと言った風に「やはり《心》を与えるのではなかったな」と大山祇神の視界を手のひらで遮った。
「それで、どうなったのです――?」
「分からぬ。ただ、同じような状態を見ていた他の兄弟姉妹は、その時に高皇産霊神がいた事すら覚えておらず、ただ父が乱心した記憶に置き換えられていた。」
そこから先の伊邪那岐命の行動はおおよそ日本書紀や古事記の伝える通りで、違ったのは二つ。
一つは伊邪那岐命が《龍吟の琴》を黄泉の国に持ち込んだ事と、そして、もう一つは《八岐大蛇》が目覚めた事だった。
「伊邪那岐命が覗いてはならぬと言われたものは伊邪那美命自身ではない。伊邪那美命のいた《幽世》だ。その封を開けてしまった伊邪那岐命は大蛇にとっては許せぬ咎人であった。」
「では、伊邪那岐命はその大蛇に?」
「いや、伊邪那岐命は《禊》された。」
禊の語源を遡れば《身削ぎ》になる。伊邪那美命を回収できなかった高皇産霊神は役立たずの伊邪那岐命を解体する事にした。
「他のものは伊邪那岐命は三貴神をお産みになって、幽宮に籠られたと思っているが、その実、幽宮は空っぽだ。それもそのはず伊邪那岐命は三貴神に作り替えられた。そして、この事を知っているのは、私と神皇産霊神、そして、その事に気が付き、自ら呪縛から逃れた素戔嗚尊だけだ。」
素戔嗚尊は伊邪那岐命に放逐されたのでも、天照大神と戦ったのでもない。素戔嗚尊は高皇産霊神と戦ったのだ。