火の輪潜り
カフェを出た三人はその場で二手に別れた。柊吾は雅と加代子の様子をしばらく見送っていたが、二人が人影に紛れると大きく溜め息を吐いた。
加代子は高皇産霊神に逆らえず、高皇産霊神は雅を害せない。しかし、高皇産霊神の前に瓊瓊杵尊を置かれたら、雅は加代子を助け出せないリスクがある。
(そんな中、各地の龍穴の結界を弄るのか・・・・・・。)
しかも、時間制限もあるし、三界を跨いで敵方に追われている状態だ。柊吾は雅から預かった赤いミシン糸を上着のポケットに入れた。
真珠子を二人には近づけてはならない。
真珠子が三穂津姫だと知った加代子は動揺を隠せないようで、雅の昔の話を聞いても、しばらく落ち着かなそうにしていた。
「柊吾・・・・・・、いや、神使の熾久として命じます。それをそっと多紀理の元に戻してください。私と加代子さんが、今、彼女とこれ以上縁を深めるのは危険だ。」
「承知しました。」
「加代子さんも、今日は簡単に食事して帰りませんか?」
「うん、そうだね・・・・・・。」
憂い顔の加代子を見ると心弱くなっている様子に心配になる。
「先程もお話したみたいに、そう心配しなくても大丈夫ですよ。要は今までと同じように高皇産霊神に見つからねば良いのですから。」
そして、「それよりも加代子さんに必要なのは空惚ける図太さですね」とも笑う。
自分がもっと力を使えたら――。
そしたら、二人を助けられるだろうか?
(罔象女神の神域や火産霊神の神域なら時の流れは二分の一。有給休暇は確か二十日くらいあったはず・・・・・・。)
お盆の時期にうまく合わせて休みを取り、その辺りを聞こうと思っていたものの、神々にとっての三年は、ほぼ「今すぐ」と言ってるのに同義なのだと気が付き、自分がのんびりしていたような心地になってくる。
《熾久、何を焦っているのじゃ――?》
不意に、火産霊神のやや眠たげな声が頭に響いて、ビクリとする。
《熾久?》
(し、心臓が口から出るかと・・・・・・。)
《あ、ああ。すまぬの。目を覚ましたら、何やらお主の気が急いておいたようだから――。》
そして「念を使うのも疲れるゆえ、神域に来てたも」と呼ばれる。柊吾は「今は葦原中国にいるのです、急には無理ですよ」と頭の中で返す。
《確かに人目は避けた方が良いが・・・・・・。近くに人目を避けられるようなところはないのか?》
(裏路地とかならありますけど・・・・・・。)
《おお、丁度良い。人目がないのを確認したら、我が神域を思い浮かべよ。》
柊吾は疑問に思いながらも、火産霊神に言われたようにして裏路地に入り込む。
そして、辺りに人気がないのを確認して、愛宕神社の火産霊神の神域を思い浮かべると途端にエレベーターに乗った時のようなふわりとした感覚を味わった。
足元から細い炎が螺旋を描いて立ち上り、次の瞬間、火産霊神の社の庭に降り立つ。柊吾は何が起こったのか分からなくて、しばらく辺りをキョロキョロと見回していた。
「熾久、帰ってきたか。一発オーケーだったのう。」
水干姿の火産霊神が蜜柑色の髪を揺らして近付いてくる。
「どうした? 狐に摘まれたような顔をして?」
「いや、今、何が起こったんですか?」
「何って《火の輪潜り》だが?」
「火の輪潜り・・・・・・?」
「ああ、加代子なら《糸遊繋ぎ》、雅信なら《風巻き》。媒介はともあれ、いずれも《所移しの呪》じゃ。」
火産霊神の予定だと、あの裏路地に火産霊神が火の輪が生み出される予定で、そこを潜って入ってきてもらおうと思っていたらしい。
「だが、どうやら雅信の《風巻き》の力も半分使ってオリジナルを使って戻ってきたようじゃの。」
「オリジナル・・・・・・。」
「そうじゃ、我と大己貴命の神威をミックスしたんじゃな。って、お主、少彦名命にも神の使いにして貰ったか?」
「あ、はい・・・・・・。」
くりくりとした目でじっと見上げられて気を悪くしたかと思ったが、火産霊神は逆に「そうか、それは良かったのう」と嬉しそうにした。
「少彦名命の力は我とも大己貴命とも相性が良い。加護があるうちは両方を御せようが、それが無くなったら、うっかり同時発動させて、身体の方にしっぺ返しが来るのではと心配していたのじゃ。」
そして、くるりと向きを変えると邸の中へと柊吾の手を引く。
「ちんぷんかんぷんって顔しておるようだから、座学でもしようか?」
火産霊神に「そんなに長くは掛からない」と言われると、柊吾も「では、ありがたく受講します」と言ってその後について行く。
「それで何から説明すれば良いかの?」
「いくつか神威を見せていただきましたが、体系的に整理できるものならば、その辺りから。」
「つまり、最初からということだの・・・・・・。」
柊吾は感覚的な火産霊神がその辺りをちゃんと教えてくれるのか、ちょっと心配しながら邸の中に上がる。すると、火産霊神は「炬、煌」と社神の二人を呼んだ。
「加代子に続いて、生徒二号じゃ。」
「御神使い様に、神威の手解きを?」
「そちらは使えるようなんだが、タイケイテキに整理が必要らしくて。よく分からんから二人にお願いしたい。」
その言葉に炬は「承知しました」と微笑む。そして、煌に「大山祇神にもご伝達を」と話す。何だか話が大きくなりそうな気配に柊吾は苦笑いを浮かべた。
「さ、御神使い様はこちらへ。」
通された部屋は先日の大山祇神の部屋と同じような図の掛かった部屋で、真ん中に文机が置かれている。墨と半紙が似合いそうな部屋ながら、机の上にはノートとペンが置かれていて、「こちらの方が使いやすいと、加代子様が仰せでしたが、他の筆記具がよろしいでしょうか?」と訊ねられる。
「いや、こちらの方が助かります。」
「承知しました。しかし、火産霊神に体系的に教えて欲しいと望むとは、御神使い様は果敢でいらっしゃいますね。」
「自分でも言ってから、少彦名命に聞けばよかったと思いました。」
柊吾が肩を竦めてそう言うと、炬は「それは賢明な判断だわ」と笑う。
「私からお伝え出来るのは、基礎の部分。神威とは何で、何が出来るのかです。更に進んだ《属性》による違いや、《神使》として出来ることについても説明は致しますが、細かいところは大山祇神に確認いただくか、少彦名命に聞いていただい方がよろしいかと。」
そして「何せ、主様だと《ぶんとやって、えいってやる》といった具合なので」と苦笑いする。
どうも出来る人にやり方を聞くと、説明がぞんざいになってしまう例のような話らしい。
炬は「それはそれで愛らしいお姿なのですが、習う方には上手く伝わらず、むくれてしまうものですから」と笑った。
「それゆえ、大山祇神にお願いをしに煌を遣わせたのです。」
「火産霊神らしい、お話ですね。」
ふふっと笑う炬は柊吾に文机の前に座るように誘導すると、「では、始めましょうか」と掛け軸の一枚を広げて鴨居に引っ掛ける。そこには晴明に見せてもらった《モトアケの図》が描かれていた。
「モトアケの図・・・・・・。」
「あら、この図についてはご存じ?」
「ええ、奇しくも先程まで晴明に見せてもらっていたものです。《モトアケの図》ですね。」
「では、話が早いかもしれないですね。」
アウワの神は渦の神、トホカミヱヒタメは内なる八ツ星、アイフヘモヲスシは外なる八ツ星。国常立尊の作ったこの星は《モトアケの図》から成り立っている。
「トホカミヱヒタメは国常立尊の八狐の御力。アイフヘモヲスシは天疎向津媛から生じた祓戸大神の御力と言われています。」
八狐の力は雷、震、空、爆、氷、水、風、火。祓戸大神の力は濁流、流転、流離、風化。
「そして、更に外の輪が御神使いなど、眷属に与えられる力です。」
内に行くほど威力は強く、御し難く、外に行くほど使える範囲が広い。
「別天津神はこのアウワの神とはまた異なる《力》を使う方。例えば、神皇産霊神の《潮》の力がその一つです。」
「その図の通りなら《神》にも使える範囲が別れるということですか?」
「ああ、やはり話が早い。ええ、おっしゃる通りです。」
天津神や国津神など《神》と呼ばれる者は「トホカミヱヒタメ、アイフヘモヲスシの力を媒介なしに使える者」と話す。
「では、社神の貴女もお使いになれるのですか?」
すると、炬や煌は《社神》だが、それは《式神》の一種だと話す。
「《式神》は式符を媒介にしますが、我らは社を媒介に存在しています。それゆえ、我ら《社神》は社の近くでは力を行使できますが、他では使えませぬ。」
それから、天神地祇とそれら以外の神についても説明される。
「つまり、付喪神とかもその身を媒介にしているので、天神地祇とは違うのですね。ちなみに先程、話に出た《国常立尊の八狐》はどの神に当たるのですか?」
柊吾が訊ねると炬は「彼らは独立の《神》ではなく、元は国常立尊から生じており、彼の神の《力》そのものの存在です」と話す。
「そしてその《力》も、心の太柱とそれに纏わる機構を維持するために使われています。」
「心の太柱とそれに纏わる機構――?」
柊吾が不思議そうにすると、炬はゴソゴソと漁って掛け軸を一つ手に取ると持ってきて広げる。そこには真ん中に大樹が描かれていて、高天原、夜の食国、葦原中国、根の堅洲国、黄泉の国と書かれた楕円が書かれていて層になっている。
そして、真ん中の木の周りには泉があって、水車なのか、滑車なのか、綱で水を汲み上げて心の太柱に与える仕組みになっていて、その水は上から下へと再び泉へと流れ注いでいる。
「世界樹・・・・・・?」
柊吾の口から自然と零れた言葉に、炬は「ええそうです」と答えた。
「ここはエネルギーの中枢。言わば原子炉のようになっているところ。」
「そして、何もかもを《無》に返すところ、ですね?」
「ええ、お聞き及びでしたか?」
「幾ばくか・・・・・・。ですが、このような姿だとは想像していませんでした。」
泉の中に《心の太柱》と呼ばれた大樹が立っており、その根元は三股に別れて、ひとつにはア、真ん中のものにはウ、更にもうひとつにはワと書かれいる。また、泉の中に大蛇が描かれ、水に潜み、まるでアウワの神を守っているかのようだ。
「この大蛇は?」
「心の太柱の力で生きる大蛇。《佐太大神》です。」
心の太柱の根に住まい、アウワの神を守る大蛇は古くから生きているが、従うのはアウワの神のみであり、御せるのは《大蛇の肩巾》と呼ばれる薄布のみだという。
「そして、この大蛇が目を覚まし、心の太柱を登る時、この神は《八岐大蛇》と変じます。」
黒鋼のような鱗に、赤酸漿のような瞳の大蛇。
炬の言葉に柊吾の脳裏に思い浮かんだのは、太古の昔、大己貴命が幽世に封印される少し前、少彦名命が須勢理を隠した時の姿だった。