運命の女神
「運命」は過去・現在・未来の三人の女神が握っている。そして、ケルト神話ではノルン、ギリシャ神話ではモイラ、ローマ神話ではパルカと呼ばれる。
「日本では?」
「日本においては、その《運命の女神》は宗像三女神のこと。そのうち、多紀理毘売命はその《過去》を司る、運命の糸を紡ぎ、手繰る神です。」
宗像三女神は天照大神と素戔嗚尊の誓約の際に生じた神で、多紀理毘売命は糸を紡ぐためのはずみ車、多岐都比売命は錘となり、市杵島姫命、別名、狭依毘売命は調べ糸となって、心の太柱近くの池のほとりで《厳の御魂》から《運命の糸》を紡ぐ。
「その糸車は《輪廻の輪》となり、紡がれた糸の長さや色を記したのが《運命の書》。死神の仕事は既にご存知かと思うので割愛しますが、その後の魂は、再び《輪廻の輪》の元に戻り、また別の糸として紡がれるのです。」
天照大神と素戔嗚尊の誓約の時に生まれた三柱の力は素戔嗚尊や大己貴命でも逃れられない。
「彼女たちの紡ぐ《運命の糸》は《見えざる赤い糸》とも呼ばれます。」
「見えないのに赤いの?」
加代子が不思議そうにすると、雅は「赤い糸は《証の糸》」と言い、そっと自分の首筋触ると苦しそうな表情になる。そして、喉元に薄らと赤い痕が出来た。
「そして、これが見えないのに《赤い糸》と呼ばれる由縁。」
加代子はそれを見ると顔色を悪くする。
「神々の誓約は破れば、《証の糸》がその魂を消します。」
「じゃあ・・・・・・。」
「ええ、加代子さんは高皇産霊神に見つかったら、逃げられません。」
柊吾が「どういう事です?」と訊ねれば「須勢理は高皇産霊神が大己貴命を消さぬようにと、真の名で高皇産霊神に逆らわぬ誓約をしているのですよ」と話す。
「だから、高皇産霊神は私を幽世に封じる事しか出来なかったし、こうして死神とする事で留め置く事しか出来なかった。」
誓約を破れば己の存在が消し飛んでしまう。しかし、須勢理毘売命の真の名はそれに匹敵するくらいに高皇産霊神にとっては欲しいものだったのだろう。
「雅は、誰と何の誓約をしているの?」
加代子が訊ねれば「皇孫である瓊瓊杵尊と、その子孫をいついつまでもお助けする約束です」という。
「高皇産霊神は私が天照大神に逆らえぬようにしたかったようですが、天照大神に害が及ばぬようにもしたかった。それゆえ、葦原中国に降ろした皇孫との結びをさせたのですよ。」
《事代主神》として。
任那の「事代主神」は出来は残念だが「大国主代行」が出来るだけの力を持った神を指す。一方、天津神の「事代主神」は言葉は同じだが、性質は違うと雅は話した。
「この場合の《事代主神》は《何かあった時の身代わり》の意。私は天孫に逆らえません。」
日本武尊が武力で国を平定して行き、都に戻ってくるように近付いてきた時、父親の景行天皇と異母兄の成務天皇は怯えた。それゆえ高皇産霊神は「都に戻る前に伊吹山の神を封じるように命ぜよ」と巫女に神降りして伝え、日本武尊に伝えた。
「日本武尊は純な男で、人に優しく、心根の良き男でした。」
そして「彼を《殺したくなど、なかった》という大己貴命の思いを思い出すだけで、このように首に痕がつく」という。
「基本、誓約が解けるには、誓約をした相手を消さねば解けません。」
雅の誓約が完全解除されるには皇孫の断絶ということになるが、長い時を経る中で雅はこの誓約を昔ほど嫌ではない話した。
「平和にあるのであれば、それはかつての私の思い描いた国と変わりありませんし、それにお守りするのは嫌ではないんですよ。今や私の末裔でもありますから。」
「はい?!」
「源 雅信の娘が藤原 道長と婚姻を結び、そこから皇族との縁が結ばれてますから。」
そう言って雅は笑って「世間って意外と狭いんですよね」と話した。
「しかし、多紀理毘売命の事は由々しき事態です。」
「そうなの?」
「ええ、彼女の別名は《三穂津姫》ですから。」
すると、柊吾は思わず「ガタンッ」とテーブルに手を付き、加代子は目を見開いた。
「三穂津・・・・・・姫・・・・・・って、あの?」
「ええ、あの《三穂津姫》です。」
国譲りの後、囚われの身の上となった大己貴命の元に降嫁したのが高皇産霊神の愛娘の三穂津姫だった。
彼女を受け入れねば、掃討作戦をとられ、一族郎党、消されてしまう危険性を孕む。しかし、逆に受け入れれば須勢理毘売命を正妻の座から引き摺り下ろし、彼女を窮地に追い込む事になる。
そして、その一瞬の躊躇こそ、須勢理毘売命に高皇産霊神と誓約を結ばせる結果に繋がってしまった。
「しかし、先んじて彼女が三穂津姫と分かっていれば、誓約の力を逆手に取ることができるかもしれません。」
「誓約の力を逆手に取る?」
「ええ、多紀理毘売命は《証の糸》の操り手です。誓約の糸は皇孫や高皇産霊神が操るのではなく、彼女が操っているんです。」
その言葉に柊吾は「それは一体?」と訊ねてくる。雅はいく筋か汗をかいたグラスを手に取ると、アイスコーヒーを口にする。そして、遠い過去の話を始めた。
◇
今から一千年ほど前。時は後に村上天皇と呼ばれる帝の御世。多くの者が内裏に参内するのに対して、雅こと、源 雅信は朱雀大路の西、三条の南に広がる朱雀院に密やかに向かっていた。
朱雀院は前の帝が太上天皇として住まう邸宅ながら、宇多の帝の計らいで仙洞御所としても使えるように、作りは内裏のそれに似ていて、仁寿殿などは内裏のものとほぼ同じ形で設えてある。
御車所で牛車を降りると西の対の一室に通される。普段なら臨時の除目も近いこのタイミングだ、いくら侍従として帝に様子を見てきて欲しいと言われても、仕事の忙しさを考えれば先方が喪中である事や、方違えを理由にして断る事も出来たのだろう。
ましてや師輔の娘腹の子が男か、女かで、殿上人のみならず、下々のものまで浮ついて賭け事をする程で、昨夜の宴でも義父の元方が主催だというのに、師輔が行ったという双六の話をしてくる輩までいて、元方の娘との間に男の子が生まれたばかりの雅信も酷く居心地の悪い思いをしたばかりだった。
生まれた子が男の子とあって、「女の子であったなら」と思わなかったと言えば嘘になるが、元方の娘の子が立太子すれば、血縁として近くなるから働きによっては栄華を極めるかもしれない。
しかし、それは皮算用でしかなく、師輔の子が立太子した時の事も考えて、内裏では振る舞わねばならない。しかも、昇殿を昨年許されたばかりの兼家が、父の師輔の権力を笠に着て、顔を合わせる度に当て擦ってくるから煩わしくて笑顔が張り付いていたのだろう、今上に「院の元にお見舞いに行っておくれ」と勅命を賜ってしまった。
朱雀院は八町に広がる広々としたところながら、今、いらっしゃるのは院自身と病がちな女御がもう一人、それから、生まれたばかりの姫宮が一人だけだから、妙にひっそりとしていた。
二月には前の藤壺の御方が亡くなり、四月には前の梅壺の方も病に倒れ、つい一週間前には朱雀院の宜陽殿の一部が焼け落ちたと聞かされては、お見舞いしないわけにもいかない。
やがて衣擦れの音がしてきたから、頭を垂れる。院付きの女房が頃合いを見計らって「ようこそおいで下さいました」と声を掛けてくる。雅信は静かに「本日は畏れ多くも今上より勅を賜り、こちらをお届けに参りました」と口上した。
それから、雅信は今上から託された火事のお見舞いの他、残された姫宮を案じる内容が書かれた封書を読み上げる。
「何と勿体なきお言葉、有難く、また、かたじけのう存じます。」
御簾の内には三十路に届いたばかりの薄幸そうな男が墨染の衣を身に纏って座っていて、傍に侍る女房達も、鈍色の衣を纏っていた。
「此度の火の禍で、亡き藤壺の方の縁の品も、いくつか喪われてしまったと聞き及んでおりました。」
琴子や彬久を喪った事件から、もうすぐ五年。この邸の雰囲気は琴子を喪った直後の邸のようで、やけに心がざわついた。
「私にも幼くして母を亡くした子がおりますゆえ・・・・・・。」
琴子との間の子は、右近が面倒を見てくれたおかげで、内々で袴着の儀をし、次の春から殿上童として手伝いを始める事が決まっている。同性の息子だって、今に至るまでだって紆余曲折あったのだから、身寄りのない姫宮だと行く末が気がかりだろう。
「その事で院よりお願いしたき事があるそうです。」
そして、するすると衣擦れをさせて去っていく。やがて二人だけになると、院は「煩わしいな」と言って、御簾を押し退けて出てくると、雅信のすぐ近くに腰を下ろす。人相見に「容貌美に過ぎたり」と言われた院は、在位の時に比べると面窶れし、鈍色の衣をしどけなく羽織っている様は、絵物語か何かから出てきたかのように見えた。
「人払いをしてある。そう堅くなるな。」
「しかしながら・・・・・・。」
「構わぬ。今は母を亡くした子を持つ同じ父として、また、一世源氏となったそちの意見を聞きたいと思ったのだ。」
亡き前の藤壺の御方は先の天皇の皇女で、生まれた姫宮の後ろ盾がない。かと言って、このまま自分の手元に置いておくには前の梅壺の御方も自分自身も体調が芳しくないという。
「このままでは姫宮を一人取り残してしまいかねないからな。」
「そのように御心弱くならないでくださいませ。」
しかし、院は首を横に降り「近頃、胃の腑の下の辺りに痼があり、侍医にも見てもらった結果、あまり良い顔をされなかった」という。
「先ごろ、今上より内親王宣下の時期を聞かれたが、このまま内親王の位を受けるべきか、それとも、内親王の位を辞退し源の名を与えてもらい降嫁させるべきか考えていた。」
身寄りがなく、後ろ盾もない内親王など、それこそ、藤原氏の政治道具にされかねない。
「忠平が生きていたなら、それでも良かったのかもしれないが、今は忠平もいない。」
そんな折り、風の便りに雅信の元にも男の子が産まれたことを聞き、源氏を名乗らせて降嫁させてはどうかと思い至ったのだと話した。
「私よりも源中納言の方がその辺りの世渡りはお上手ではないかと思いますが・・・・・・?」
「いいや、あれは師輔に寄りすぎている。そちも元方側に寄っているとはいえ、次の左近衛中将と目されている朝忠とも誼を結んでいると聞いた。それゆえ、そちに聞きたいのだ。」
庭は水無月のたまの陽射しに照らされて、草木は青々とし、しかし、少し湿り気を帯びたぬるい風が入ってくる。
院の愛娘を息子に縁付けさせれば、今より更に天孫と縁が強くなる。そうなれば、次の春宮が師輔の孫だろうと元方の孫だろうと、その次の代になった時、娘が生まれれば入内させることも叶おう。
と、その時だった――。
不意にちりちりと喉元が傷む事に気がつく。そして、ゆらりと揺れる糸が自分の首筋から別のところへ伸びている事に気がついた。
(蜘蛛の糸・・・・・・?)
それにしては目を凝らしても見ても、その先に蜘蛛の姿は見えない。一方、院も耳を澄まして「おや、姫が泣いているようだ」と微笑んだ。
「お主もすぐには答えを出せまい。今日は姫宮の泣き顔でも見て行け。」
そして、院は立ち上がり、しばらくして愛らしい姫宮を連れて戻ってくる。雅信はその面差しを見るなり、ズキリと頭が傷んで顔を顰めた。
断片的に三穂津姫の姿が頭を過ぎる。
運命の繰り糸を持ったニコリともしない姫。彼女が笑ったのは唯一、自分が幽世に送られた時だった。
雅信は小さい姫宮に繋がった細糸が院の首にも繋がっていて、「この姫宮を自分の息子の正妻に」と思うと、その糸が引かれて首の辺りがちりちりと傷む事に気がつく。
そして、彼女が三穂津姫だと確信すると、雅信は「この方は内親王となさった方がよろしいでしょう。」きっぱりと言い切った。
途端に姫宮の小さな手は開かれ、はらりと細い糸が離れる。そして、その時、誓約の糸は契約相手の天孫ではなく、多紀理毘売命によって締められているのだと改めて知ったのだ。
「では、元方か、師輔かに後ろ盾になってもらうべきか・・・・・・。」
「いいえ、それよりは、今上に後ろ盾になってもらうのが良いでしょう。」
「今上に?」
「はい。女御としてではなく、内親王として庇護してもらうのが望ましいかと存じます。」
そして、一世源氏がいかに苦労を強いられるか、ましてや女君で後ろ盾のない状態はいっそう憂き目にあう可能性を伝える。
「幸い、今上には女御も更衣も数多いらっしゃいますし、この先も御子が多くお生まれになりましょう。このように愛らしい姫宮であれば、その御子の内のいずれかと縁づけられるのがよろしいかと存じます。」
院は「そうか」と微笑み、雅信の答えに満足そうな表情をする。一方、雅信は姫宮が誓約の糸から手を離した事にほっとしていた。