紫霞白玉(しかはくぎょく)
加代子がこの状態を味わうのは、これで三回目だ。
真珠子が取り落とした手芸用品があたりに散らばり、転がっていた色とりどりのミシン糸が動きを止めた。
「あまり長くは持ちません。どこかに隠れて誤魔化すか、彼女をこちら側に引き込むか、どちらか選んでください。」
雅は苦しいのか、険しい表情で告げる。
「隠れるって言ったって・・・・・・。」
「建物の中でもいいですし、引き込むなら彼女の時間をこちらに合わせます。」
そう話す雅の表情は苦しそうで、脂汗を掻き始めている。「大丈夫ですよ。ただ、ここは葦原中国ですから時の進みが早くて、余計に力を使うだけ」と苦しそうにする。
「分かった。あそこのカフェにでも隠れておく。真珠子まで巻き込めないよ。」
「分かりました。では、急いで。それとお兄さんか少彦名命を呼んでください。」
「分かった・・・・・・。」
そうして加代子の姿がカフェのドアの向こうに消えたのを確認すると解呪する。途端に真珠子が大声で騒いだ。
「どうなっているの?! ・・・・・・って、あれ?」
真珠子は目の前に居たはずの加代子の姿が不意に消えて、キョロキョロと辺りを見回す。そして、雅に詰め寄ってきた。
「ちょっと、さっき、貴方と一緒にいた人は?!」
「なんの事ですか?」
雅が白を切ろうとしたところで「ちょっと酷い顔色・・・・・・」と驚かれる。
「大丈夫ですか? 救急車でもお呼びしますか。」
「お気遣いなく・・・・・・。」
「そうは言うけど・・・・・・。」
真珠子の指摘通り、雅は立っているのもやっとで、この加代子に雰囲気の似た《真珠子》をやり過ごそうと必死だった。しかし、逆に注目を集めてしまって、人垣が出来てくる。
「すみませんが、新手のナンパなら、御免蒙ります」
「なッ?! ん、いや、そう見えるかな・・・・・・?」
真珠子は加代子みたいにくるくると表情を変えて、「とにかく聞きたいことがあるから、待って!」と袖を引く。
雅はその「これは少しばかり手こずりそうだな」と思いながら、嫌な顔を表に出して「なぜ、見ず知らずの人を待たねばならないのでしょう?」と訊ねた。
「怪しがられてるのは、十二分に分かっているけど、そこで少し休んだ方がいい。貴方は大丈夫だと言い張りそうだけど、貴方に何かあったら、悲しむ人が絶対にいるから。」
そう真剣な顔で真珠子に言われると、不思議と雅は逆らえなくて、「分かりました、待ちましょう」と答える。
「じゃあ、荷物、拾ってくる。勝手に居なくなったらダメなんだからね。」
そう言うと転がったミシン糸を拾い始め、何種類かの布の入った袋を手にする。
(似てる・・・・・・。)
血の繋がりのせいなのか、真珠子を見ていると加代子といるような錯覚を起こす。
「お待たせ。」
痴話喧嘩と見なしたのか、立ち止まっていた人垣は崩れ、少し気恥しそうにする真珠子が「あそこのコンビニ、イートインになっているから」と連れ込まれる。
「ここに座ってて。立ってるのもやっとなんでしょう? 水、買ってきます。」
そして、真珠子は雅の隣の席に荷物を置くと、店のカウンターへと向かっていく。雅は手をぐーぱーと開いたり閉じたりした。
(肉体を持つと、ここまで制限されるのか・・・・・・。)
ほんの僅かに時を操っただけなのに、轟と戦った時に広範囲に時を止めた時と同じように疲労感に襲われる。
直ぐに眠るほどではないものの、あまり無理は出来そうにない。少彦名命か柊吾にこちらからも連絡をしたいが、恐らく連絡すれば許容量オーバーでそれこそ救急車ものになりかねない。
(今は大人しくしているしかないか・・・・・・。)
加代子の様子が気にかかるが、大通りを挟んで向かい側のカフェの様子はよく見えず、不甲斐なさに情けなくなってくる。
「大丈夫ですか?」
戻ってきた真珠子は荷物を避けるようにして座り、きりりとペットボトルの蓋を開けると、緩く締め直してからミネラルウォーターを差し出した。
「これ、どうぞ。」
「ありがとうございます。」
冷たい水を飲み下せば、身体に染み渡る心地がして「ほう」と息を吐いた。
「助かりました――。」
「それなら、良かった。」
雅が素直にお礼を言えば、真珠子はにこりとする。本当に自分のことを心配していたのだろう。
「さっきは大声を出してごめんなさい。ちょっと信じられない事があって、つい。」
「信じられない事・・・・・・。」
「ええ、気を悪くしないで欲しいんだけど、一瞬、貴方が・・・・・・。その、いなくなった姉といた気がして・・・・・・。」
それから、真珠子は言い澱み「《島崎 加代子》と、お知り合いだったりしませんか」と訊ねてくる。
「先程、《加代姉》と仰っていた方ですか?」
「ええ、そう! 貴方が謝っていた人・・・・・・。」
「謝っていた人? ああ、それは電話の相手のことですか?」
「電話・・・・・・?」
雅は「ええ、ハンズフリーで話していたので」とポケットからインカムを取り出して置くと、真珠子が固まる。
「目立たないタイプなんで、独り言を言っているように見えるのが玉に瑕なんですが、便利なんですよ。待ち合わせの店を探していて、ぼんやりしていたら、話している相手に返事が遅れた事を指摘されまして。それで謝っていたんです。」
途端に真珠子の表情には落胆の色が見え「そうですよね」と納得する。
「こんな所にいるはずがないのに・・・・・・。白昼夢でも見たのかもしれません・・・・・・。」
こんな所に死んだ姉がいるわけがない。霊安室で対面した加代子は冷たく蝋人形のようだったし、焼却場で遺骨も拾った。
(生きてるわけがない――。)
そう分かっているのに、七七日忌で兄を介して見た加代子の姿が目に焼き付いてしまっていて、真珠子は街の中に無意識に加代子を探ってしまったのだろうと思った。
「お会いになりたい方なのですか?」
浮かない表情に変わった真珠子に雅が訊ねる。
「ええ、とても会いたい。もう一度、会えるものなら・・・・・・。」
雅はその切実な声色を聞くと、加代子に言われているような心地になって、酷く胸の内がざわめく。
「島崎 加代子さんですね。もし、お会いする事があればお伝えしておきますよ。」
雅が辛うじてそう答えれば、真珠子は「ううん、いいんです」と答える。それから荷物を漁ると「これ、どうぞ」と、美術館の前売り券のペアチケットを渡してくる。
「呼び止めてしまってごめんなさい。こんなのじゃ、お詫びにもならないんですけど。」
「いえ、具合を悪くしていたところ介抱下さった方にいただくわけには。ペアチケットのようですし、誰かを誘われる予定だったのでしょう?」
すると、真珠子は「ええ、先程話した姉と、行くつもりだったんです」と話す。
「結局、渡せず仕舞いで。でも、かと言って、一人で行く気にもなれなかったんで、丁度いいんです。何だか曰く付きなものをお渡しする感じで申し訳ないんですが、良かったら使っちゃってください。」
それから逃げ去るように真珠子は荷物を抱えて去っていく。と、ちょうど、柊吾から連絡が入った。雅は真珠子の姿が見送ったあと、電話に出る。
《もしもし――、雅?》
聞きなれた加代子の声なのに、真珠子の切実な声を聞いた直後だからか返事が遅れる。
「加代子さん――。」
なぜこんなにも感傷的になるのだろう。雅がそれでも「お兄さんと落ち合えましたか?」と訊ねると、加代子は「今、向かいの席にいるよ」と答えた。
《真珠子は帰った?》
「ええ、つい先程。」
《そう・・・・・・。雅は今、どの辺り?》
「道を渡って反対のコンビニです。」
《え、そうなの?》
「ええ。なので、今からそちらに向かいますね。」
雅は「だから、そちらにいてください」と言って電話を切るとその場を立ち上がる。途端にカランと音を立てて、紅色のミシン糸が一巻、床に落ちた。
運命の赤い糸――。
見えざるその糸が真珠子に繋がっているのを感じる。
(不味いな、加代子さん並に縁深い方のようだ・・・・・・。)
しかし、一度目は誤魔化せたとしても、きっと二度目は誤魔化せないだろう。加代子の願いでこちら側に彼女は引き込まなかったが、いずれ引き込まざるを得なくなる予感がしてくる。
雅は床に落ちたミシン糸を拾い上げて、ポケットに入れると、加代子の元に向かうため外に出た。