香箱と脱進機
雅から話を聞いていた加代子は、マンションの一室で冷めかけのコーヒーの入ったマグカップを、ダイニングテーブルの上に置いて、ため息と共に天井を仰いだ。
「わっかんない――ッ!!」
加代子が大仰にぼやくと、雅は苦笑して「簡単に解ける《呪》では敵にも破られてしまいますでしょう?」と話す。
「国常立尊の組んだ《呪》は、それはそれは見事な寄木細工のからくり箱のようなものですから。」
雅が「解き方を分かっている者でないと解けないようになっています」と言えば、加代子は膨れっ面をする。
「でも、私の力ってその見事な寄木細工のからくり箱の中にあるんでしょう?」
「ええ、時々、加代子さんが力を使いすぎないように隙間から絶妙に漏れ出るように細工されていますね。」
「なんで、そんな事されてあるの?」
「さあ? 加代子さんは規格外ですからね。」
そう言って笑うと雅は「コーヒーを淹れ直しましょうか?」と訊ねる。しかし、加代子は「猫舌だからこれでいい」と不貞腐れた表情のまま、冷めかけのコーヒーを改めて口にした。
「この《モトアケの図》だっけ? 天疎向津媛が歯車で、残りの二つが渦。だとしたら、この図は何かの設計図なのかな?」
「設計図?」
「うん、真ん中に歯車があるんでしょう? なら、他の物も何かの部品かなって思って。あ、でも、設計図と言うほど細かくもないから、概念図っていった方がいいのかな?」
その言葉に雅は「また突拍子もない事を思いつきますね」と目を丸くし、向かいの席に着くとモトアケの図と睨めっこをし始めた。
このモトアケの図が加代子の言うように何かの設計図ならば、今までの見方をガラリと変えなければならない。
「ひとつの仮説に過ぎませんが、加代子さんの言うように歯車と見立てるなら、香箱や脱進機の可能性がありますね。」
「なにそれ?」
「どちらも機械式時計の心臓部になっている部品です。」
雅は歯車を描くとその中にぐるぐると螺旋を描き、「香箱の中にはこのようにぜんまいが入っていて動力を蓄積します」と教えてくれる。
「脱進機はその力を使って、振り子を動かし、時を量ります。」
実際に必要な歯車の数などを考えれば「設計図」には程遠いが、「概念図」として見るなら考えられる。
「もしかして、余計な仕事を増やした?」
「仕事は増えましたが余計ではないですね。これは検証する価値のあるご意見ですよ?」
そう言って雅が微笑んでくれるから、加代子はようやく目を細めて笑った。
「それはそうと、何か食べない? 葦原中国に戻ってきたらお腹が減ってきちゃって」
「では、どこか食べにでも行きますか?」
「え、そんなにしょっちゅう外を出歩いてもいいの?」
「別に大丈夫ですよ? 一人でなければ、と但し書きは付きますが。」
「コンビニに一人で行くのは?」
「真向かいのコンビニでも一人はダメですよ。」
「雅ったら過保護。」
「過保護にしてても、連れ去られた事をお忘れですか?」
雅が指折り数えれば、加代子も「問題はそれなんだよね」とため息を吐く。
「あーあ、結局、雅の傍にいるのが安心って話になっちゃう。」
加代子が「喧嘩もおちおち出来ないよ」とぼやけば、「喧嘩なさりたいんですか?」と雅が笑う。
「今世は政絡みはないんで、貴女だけの私ですのに――。」
「うーん、でも、雅がもしも私みたいに何もかも忘れて、今の世に生まれ変わっていたら、きっと今頃《雲の上の存在》になっていたと思うよ?」
雅は無自覚なようだが、彼はそこにいるだけで《華》がある。街を歩いていても、彼をチラチラと見る視線を感じるし、うっかり口を聞いた日には大抵の人が魅了される。
それがもし彼の持つ神威による影響なら実はこうして雅に魅了されているのは、彼が好きなのではなくて、彼の神威のせいなのではと不安になる。
「いっそ雅が虫にでも生まれ変わればいいんだけど――。」
「なんてことを仰るんですか?」
雅は思わず失笑したが、加代子がいつになく沈んだ表情をしているのに気が付くと笑いを引っ込めた。
「そのように頼りなげな顔をしないでくださいよ――。」
雅は席を立つと加代子の傍に来て、後ろから抱き締めてくる。そして、加代子の肩口に顔を埋めるようにすると「加代子さんは気が付いてないだけですよ」と囁いた。
「貴女の愁眉を見れば、街行く男は立ち止まり、貴女の事を放っておけないとばかりに群がり始める。」
雅がひと睨みすれば、おおよその者は引き下がるものの、「お兄さんの柊吾も、淤加美神も苦労したでしょうね」と耳打ちする。
「そんな事、ないよ・・・・・・。」
「私がどれほど言葉を尽くしても、信じて下さらないかと思いますが、可能なら、私とて加代子さんを誰にも見せたくないですよ?」
「そんなに独占欲高かったっけ?」
「そうさせてるのは加代子さんだと言いたいんです。」
加代子の心は幾度も転生しているからか、須勢理毘売や琴子とは違って移ろ気で、自分の存在をその記憶から消してしまえば、簡単に他の者に心を移してしまう。
「もう一度、貴女に消えられたり、私を忘れられたりしたなら、文字通り、鬼にも蛇にもなりましょう。」
雅に「あんな思いは勘弁してくださいね」と言われると、加代子は「つくづく須勢理の時とは立場が逆ね」と笑う。
「そうですね、少なくとも今の私には貴女を置いて旅に出ようなど、愚かな考えは毛頭ないですよ。そんな鳶に油揚げを攫われるような状態をどうしてできましょう?」
「え、私、油揚げなの?」
「ええ、油揚げです。」
そう言うと加代子がくすくすと笑って「やっぱり何か作って、家で食べよう?」と言う。
「油揚げの話なんかしてたら、油揚げの入ったお味噌汁、飲みたくなってきちゃったよ。足りない材料、近くのスーパーに買いに行こう?」
「それで良いんですか?」
「うん、雅の作る和食も食べてみたいし。」
料理をする雅の姿は、須勢理の自分も、琴子の自分も見たことのない「加代子だけの雅」なのを思い出して、ニコリとして言えば、「そんな風に煽てて、作らせる気、満々ですね?」とツッコミを貰う。
「あ、バレた?」
「なんなら懐石料理でも作ります?」
「え゛?」
「あ、いや、冗談ですよ・・・・・・? さすがに作りません。」
それを聞くと、加代子は「《作れません》ではなくて、《作りません》なんだ」と思いつつ、「もう何を言われても驚かないぞ」と雅を眺める。
そして「準備してくるね」と席を立ち、キッチンにマグカップを片付けに行く姿を眺めながら、雅も漠然とした不安を覚える。
《私ね、心が空っぽになるような、あんな感覚はもう嫌なんだよ――。》
今にも消えてしまいそうな不安そうな顔で言われた加代子の言葉がリフレインする。
恋も愛も憎しみも執着も、全てが無に覆い尽くされていく感覚は雅も黄泉の国で味わっている。
心が凍てつき何も動けなくなるような心地を思い出すと、それだけで胸苦しくなる。違うのは、加代子より少しばかり取り繕うのが上手いだけだ。
「お待たせ――。」
「では、行きましょうか。」
「うん」と頷いてにこやかに玄関に向かう加代子の後を追いながら、薄暗い感情を押し殺した。
愛なんて信じない――。
それが「移ろいやすいもの」だと、自分自身が一番分かっている。まして、それを信じたところで、自分の薄情さに気が付くのは目に見えている。
雅は革靴を履くと玄関の外で待つ加代子に続いて玄関のドアを出る。
「スーパーで何を買う?」
そう言って雅と腕を組んで「油揚げに合うのだと、豆腐、ネギ、わかめ、ああでも、主菜を決めなくちゃだね」と加代子が笑うから、雅は「魚の煮付けとかいかがですか?」と応える。
「お魚の煮付け、好きッ! 作って、作って。」
嬉しそうにする加代子の様子に「ちゃんと手伝ってくださいよ?」と言えば、加代子は楽しげに「はい、シェフ」と返事した。
雅は「誰がシェフですか」と言いながらも、その胸の奥から湧き起こる狂おしいまでの恋しさに目を細めた。
愛は移ろいやすいもの――。
そう分かっているのに、こうして加代子を恋うる気持ちは変わりなく、何度だって自分の心を縛り支配する。
《心変わりも出来ぬほどに惚れ直させれば解決です、とお伝えしているのです。》
自分に何度も惚れ直させているのは加代子の方で、愛など信じぬと思っているのに、彼女の一挙手一投足に魅了され続ける。
もし、天疎向津媛が《歯車》だとして、それから生み出された自分も《歯車》だろうと思いながらも、どうしても違和感を持つ。
国津神の中でも異質な「大己貴命」、祓戸大神の中でも異質な「気吹戸主神」。
加代子を「規格外」というなら、自分は「異質」そのものだ。
マンションを出て、路地を抜けると大通りに出る。駅前に向かいながら、加代子が食べてみたいメニューを色々話す。しかし、無反応な雅の様子に加代子は口を尖らせた。
「ちょっと、雅、聞いてる?」
我に返れば、心配そうに見つめてくる加代子がいて「平気?」と聞いてくる。。
「ああ、すみません、少し考え事をしてました。」
「もう・・・・・・。」
そう言うと口を尖らせて「今度は東京タワーやスカイツリーに行こうね、って何度も言ったのに」とむくれる。雅はそれを聞くと申し訳なさそうにした。
「ぼんやりしていて申し訳ありません。」
「別に謝って欲しい訳じゃないのよ?」
「でも、お気遣い下さったのでしょう?」
加代子は少しむくれていたのから直ると、「本当に大丈夫?」と気遣わしげにする。
「ええ、本当にちょっと考え事してたんですよ。」
「それならいいけど。前に、高いところに行けば息が付ける気がするって言ってたでしょう? だから・・・・・・。」
そう話している近くで、バサバサと物を落とす音がして思わず振り向く。そして、加代子もその目を見開いた。
「加代姉・・・・・・?」
思わず「真珠子」と呟いて、咄嗟に口を手で覆う。
「やっぱり加代姉なの?!」
真珠子が「どうなっているの?!」と叫びかけたところで、加代子はギュッと押さえつけられるような感覚を味わう。
雅は咄嗟に時を止めていた。