2-1 とある噂
「逃げて、晃成」
懐かしい声。でもその声を再び聞くことは叶わない。
二年前の冬の夜。
彼女は自ら死を選んだのだから。
◇
起床を知らせる目覚ましが耳に張り付く。うざいと思いつつリピートする音を消し、見慣れた天井をしばらく呆然と眺める。
実に不可解ではあるが目を覚ますと自宅のベッドにいたのである。
いつ帰って来たのだろうか。全く思い出せない。確かさっきまでは夜の公園にいて……
「そうだ。俺はあの時、何かに襲われて――」
そのまま意識を失ったというところだろうか。いや、あの感覚は間違いなく一度死んでいるのだろう。鋭利な何かが俺の肉体を抉った痛みは実感として残っているのだから。
それに意識を失う直前に漂ってきたあの臭いは間違いなく魔族――亜人種のものだ。
つまり俺は亜人種に襲われて、一度殺されたことになる。だが、そうなると俺をここまで運んだのは誰なのでしょう。
諸々のことをリラに確認したかったが、今回に限ってあまり意味がなさそうなので止めておこう。第一、あれは昼間は眠っているので意思の疎通ができないし、それに俺の意識がないと実体を保つことができない使い魔に過ぎないのだ。
俺が死んだ後のことを知っている可能性はないに等しいだろう。
「となると、昨日の出来事は誰もわからないってことか……」
ため息をつく。わからないまま放置しておくのは、むず痒い気もするが他にどうしようもない。もしかするとあっさりわかるかもしれない。
そんな訳で状況の確認を諦めてスマホの電源を入れる。
浮かび上がる同一人物からの四件の着信履歴と五通のメール。
着信がきたのは夜中の三時。メールがきたのも三時。せっかち過ぎるだろ。つーか、普通の人は寝てる時間だわ。
電話とメールを送ってきたのは同一人物で、俺のよく知っている人で会いたくない人である。
名を天崎瀬那。姫野宮で万屋の事務所を構える女所長で掛け持ちしているバイトの雇用主。
万屋といってもいつもは碌な仕事がないため雑貨屋でアルバイトをしているが、特定の依頼が入るとこうして俺を呼び出してくる。給料は完全出来高制でちゃんと依頼を完遂できた場合のみ支払われるので正直、普通にあくせく雑貨屋で働いている方が割もいいし楽。なので、今回の着信は見なかったことにしよう。そうしよう。
念のためスマホの電源を切る。
ゆっくりと立ち上がり自室を出てリビングに向かう。いつもは誰もいない一人で過ごすには広いリビング。そのリビングに香ばしいパンと珈琲の匂いの残滓が漂っている。
机の上にはラップがかけられたプレートと少し遅くなるという書置きがある。今日も母は朝早くから仕事に向かっていた。看護師というのは存外かなりハードな仕事らしい。
今、俺はマンションの一室で母と二人暮らしをしている。あの大災害の時には既に離婚をしていてヒルズから去っていた母と。父と母が離婚したのは俺が小学校一年生の時だったから引き取られた当初、お互いにどう接したらいいかわからず気まずい空気が流れたのは記憶に新しい。
食パンをオーブントースターにぶち込んで珈琲メーカーから黒い液体をコップに注ぐ。ブラックで飲むには俺の舌は子供っぽ過ぎるのでミルクと砂糖を豪快に追加。
待っている退屈な時間を紛らわせるため席に着きテレビを点ける。
するといきなり物騒なニュースが流れ出す。しかも、知り合いの噂好きが喜びそうな類のオカルトよりの内容だ。
「犯人は鎖のようなもので切断かって……」
強面のニュースキャスターは淡々と語る。
姫野宮市七原の住宅街にある路地裏で二つの遺体が発見された。遺体は三十代~四十代の男性と姫野宮西高校の女生徒。男性は右脚、女生徒は頭部が切り離されていて現場は血の海だったそうだ。第一発見者は近所に住む男性。勤務前にジョギングをしていた際、異臭を感じ路地裏を覗き込んで発見した。そして、遺体の発見された路地裏には鎖を擦ったような跡が残っていた。警察はこの二人の身元確認を急ぐと共に殺人事件として調査本部を設置し事件の真相究明を進めるという――
気が付けば顔を顰めていた。多分、七原が思いのほか近所だったのと、昨夜リラと交わした良くないものが蠢いているという話を思い出したからだろう。確か、近い内に人を殺すだったか。
リラの言った通り人が一夜の内に二人も死んでいる。
とはいえ、現状では人間でもできそうな犯行なので何とも言えないが。
もしも仮にこの犯人が魔族であるのならば、関わることがあるかもしれないが、人間であるのなら犯人逮捕は警察の管轄だ。
まあ、右脚と頭部が無くなってのは少々気になるところではある。
しかしニュースはそんなことにはそれ以上触れもせず、画面が移り変わった。アイドルの恋愛発覚って……。心の底からどうでもいい。そんな心境を見透かすようにオーブントースターがチンと鳴る。
俺はどうでもいいニュースを聞き流しながら朝食を胃に流し込んだ。
◇
八時過ぎ。学ランに着替えて家を出ると大家さんに捕まった。なんでも一年近く空き部屋だった一室に人が入ったらしい。正直、まともに相手をすると普通に遅刻するので適当に相槌を打ち足早にマンションを去った。
◇
俺の住むマンションから高校のある鬼南町までは徒歩だと二十分ちょっと。自転車なら十分も掛からないが、ぶっ壊されてから新しい自転車は買えていない。
多少不便ではあるが、その生活も明日で終わる。というのも昨日は給料の振り込み日だったのだ。これで明日にでも新しい自転車が買えるという訳だ。
そんなことを想いながら葉が全て落ちて枯れ木のようになった木々が並び立つ歩道を歩く。田んぼと家ばかりの錆びれた風景。おまけに今日は曇っているので全体的に薄暗く退廃的に見える。
徒歩通学の奴は田舎じゃ珍しいためほとんどの生徒が自転車で駆けていく。まあ、交通機関が発達してないんで自転車がないとどこにもいけないのだけどね。
途中、昨日リラと立ち寄った公園の横を通る。名前は姫野宮公園。そのまま過ぎて全然面白くない。そして、その公園も通り過ぎ、目的の高校が見え始めた頃。
「あー。先輩じゃないですか!待って下さーい!」
背後から唐突に電車並みにけたたましい声が響いた。その声はひどく聞き慣れた声で、おまけに俺の事を先輩と呼ぶのは一人しかいないからこの声の主は噂好きで決まり。朝から遭遇するなんて何て日だ。
自分の不幸を呪いつつ振り返るとやはりそこには自転車のペダルを脚が取れる勢いで漕ぐ侑李の姿。
それから五秒もかからず俺の横に来て自転車から降りる。
おはようございますと清々しい挨拶をする長い黒髪を一つに纏めた平凡な顔の少女の名は燎里侑李。黎原学園中等部に通う二個下の後輩。
中学一年の夏までは同じヒルズ民だったけれど家庭の事情で引っ越した少女。噂好き(オカルト方面の)で、確か中等部のオカルト同好会に所属していたはず。この街はそんな彼女にとってさしずめ宝の山だろう。少なくとも姫野宮はそう言った噂はそこら辺に転がっている。やれ鬼火を見たとか、顔のない女が歩いてたとかとか。
まあ、大概が魔族の仕業なのだけど。魔族の存在を知らないこいつにとっては一大ニュースであり、最大の娯楽である。
しかし、こいつとこんな時間に出会うなんて珍しい。俺以上のサボり魔さんのくせにこんな健全な時間に通学するとは。
明日辺りで地球は滅びるのだろうか。
「おはよう。お前がこんな時間に通学するとは珍しいな」
「――アハハ。確かに自分でも思いますけど、今朝のニュースを見て二度寝は諦めました。あ、先輩は観ました?今朝のニュース」
「アイドルの恋愛発覚か?あれ、死ぬほどどうでもいいよな」
「違いますよ!鎖怪人のニュースです!後、死ぬほどどうでもいいは言い過ぎです。そのアイドルだって炎上して知名度を上げようと必死なんですよ」
興奮して口を開く侑李。わざわざ炎上しないと知ってもらえないとか俺以上に辛辣だ。しかし、こいつは一貫してぶれないな。いったい鎖怪人の何がここまでそうさせるのだろう。
「で、鎖怪人がどうしたって。あんなのメディアの憶測だろ」
「あれ。知らないんですか先輩」
「知らないって何を」
「そりゃあ、鎖怪人の塒を見た人がいるってことですよ。ニュースじゃ流れなかったですけど、その時の映像と写真もありますよ―っと。ほら」
そう言って紫色の蛙のキャラのカバーを嵌めた趣味の悪いスマホを見せてくる。俺はそれを受け取って映像を再生。画面はクリアだが、辺りは闇に沈んでいてはっきりと見えない。背後にぼんやりと浮かぶのはたぶん工場だろうか。心なしか天井が抜けているように見える。
しかし、工場なんて姫野宮だけでも腐るほどあるのでこれだけじゃどこだがさっぱりわからない。
六秒間、闇が流れた後ジャラジャラというまさしく鎖を引き摺るような音が流れる。その工場から出てきたように見えた。そして、そのまま画面の外に消えていき、そこで映像が終わる。
うーん。確かに鎖怪人……というより鎖を引き摺る音は入ってたな。でも、こんなのうろついてたら従業員の誰かが気付きそうなものだが。そこら辺はどうなっているのだろう。
とりあえず画像の方も確認してみたけど、動画と同じでほとんど闇で詳しくは見れなかったのでスマホを侑李に返す。
「どうですか。これ。世紀の大発見ですよ」
興奮気味にずいずいと食いついてくる噂に憑りつかれたアホ女。激しくうざい。
「確かに映ってるな。でもこれ、はっきりと見えねえぞ。もっとクリアなのはないのか?」
「うーん。残念ながら今の所ないですねー。実際、鎖怪人の噂が立ち始めたのが二週間ほど前なんですよね。これ撮った人は確か偶然通りかかった通行人ですし」
「ふーん。この人もよく撮ろうなんて考えたな。見るからにヤバそうなのに。俺だったら逃げ出してる」
これが現代人の性なのか。SNSが発達したせいでおもしろいと思ったものを何でも撮ろうとするのはあまりいいことだとは思えない。
「そうですか?私でもこのくらいはしますけど」
「危ないから止めとけって。てか、この動画どこで拾ったんだ?」
「あー確か、心霊系の掲示板にいけばどこでも見られたはずです」
まじか。これネットに流れてんのか……。後でもっかい確認しておくか。
「りょーかい。ちなみに誰がこれを撮ったのはわからないよな?」
「ええ残念なことに。でも先輩。朗報です。実はですね、この動画を撮った人の知人の方に今日会うことになってまして。もし上手くいけばその時のお話を伺うことが出来るかもしれないんです」
……こいつなんて手際の良さだ。将来は記者にでもなってるかもしれない。
あ、そういやこいつの父親が記者だったな。
そう考えると可能性としては充分ありえるのか。
「そうか。じゃあ、上手くいけば話聞かせてくれ」
「ええ。期待してて下さい」
ぺったんこな胸を叩いて宣言する侑李さん。見てるこっちが切ない。
「ところで、先輩。私とお付き合いしてくれる気になりました?」
んん?急に話の方向が百八十度変わる侑李さん。
相変わらず直感だけで生きてやがる。
「なんない。中学生には興味ない」
というかお前はまず論外。かわいい後輩以外には見れません。
「ぬぬぬ。今度はそう来ましたか。わかりました。高校生になってから出直してきますから!!」
大声で叫ぶ侑李に適当な返事をしながら学校前の坂を上る。そして、俺たちは校門で別れた。