1-2 平凡だけど愛おしい日常
「げ」
遅刻して教室に入ると数学の授業中で教壇には担任である諒子ちゃんの姿があった。おかしい。二限目は日本史のはず。これは大きな誤算だ。本来ならこんなフレッシュなお姉さんではなく定年間近のおじいさんが担当する遅刻してもうるさく言われないラッキーな時間なのに。時間割変更とか聞いてない。
「何が、げよ」
不満げに鼻を鳴らす諒子ちゃん。
フルネームは皆白諒子。教師歴七年目の二十九歳。ちなみに彼氏はいるらしい。
今日の服装は無地のシャツに薄い黄色のカーディガンを羽織り、スカートは灰色のフレアスカート。うん、胸がない以外は今日も完璧だ。
「いえ何でもありません」
言って席に着く。俺の席は運動場側の一番後ろの左端。夢のポジション。しかも隣の席は誰もいない。机だけが置かれている。
「――何で遅れ……まあ、いいか。晃成君。昼休み職員室に来るように。それじゃあ皆は教科書百二十ページを開いて練習問題二を解いてー」
そんな風に諒子ちゃんは視線を切り授業に戻っていく。席に着き教科書も出さずに窓の外を眺める。今更数学をやっても何にもならないし、時間の無駄だ。一応偏差値はそれなりに高いうちの高校だが、やはり例外はどこにでも存在する。
自慢じゃないけどそれが俺。おかげで、クラスメイトからはいつも白い目で見られている。周りが部活や塾に励んでいる中、俺と言えばバイトばかりしているのだ。そりゃ、真面目にやっている身からすれば俺みたいな奴は正直邪魔で仕方ないのだろう。
まあ、俺が嫌われている理由は他にもあるんだが。それに関しては否定できない事実なので弁明するつもりはないしする必要もない。彼らと仲良くするつもりは微塵もないのだから。
「おーい。晃成君」
ふと名前を呼ばれたので反射的に声のした方へ顔を向けると、眼前に般若の顔をした諒子ちゃんが憮然とした様子で立ち尽くしていた。
こえーよ。俺が一体何をしたと言うのか。何もしてないだろう。
「――なんです」
「なんですじゃない。随分と余裕じゃない。教科書も出さないで。期末試験も期待していいみたいね」
随分と怒っているらしく諒子ちゃんは言葉の端々には棘がある。どうやらカルシウム不足らしい。炒り子を食べましょう。それか牛乳。
「まあ、それなりには」
嘘である。全くの大嘘。因数分解もわかりません。
「ふーん、そう。じゃあ晃成君。こうしましょう。君がもし次の期末テストで平均的以下だったら二度と遅刻はしないこと。いいわね」
「――え」
おいおい。そんな点数久しく採った覚えないぞ。
「い、い、わ、ね!」
「は……い」
鬼気迫る迫力に圧倒され返事をしてしまう。
あー、何だかすこぶる面倒なことになっている気がする。クソったれ。
退屈な数学の授業も残り十分となった十時四十分。外を眺めていると怒られるので意味不明の数列が並んだ黒板を眺めていると突然、大きな音をたてて扉が開いた。
それは誰も予期していなかったようで、全員が一斉に音のした教卓側の扉を見ていて俺もつられて顔が向いた。
「あ――」
「すみません。遅れました」
そこにいたのは通学路で不良に絡まれていた白髪の少女。そう。俺が見捨てた少女である。見た限り怪我はしていないから無事あの馬鹿三人組を退けられたらしい。そのこと事体は予想の範疇だったが――
しかし、ここまでは予想できなかった。まさか同じクラスだったなんて。しかしあんな目立つ髪色の奴をこれまで知らなかったなんてことがあるのだろうか。
「えーと。貴方は確か碧波さんだっけ。転校生の」
あ、転校生だった。
「はい。そうです。今日はいきなり遅刻してすみませんでした」
「ふう。まあいいわ。それじゃあ碧波さん。早速で悪いけど自己紹介をお願いしてもいいかしら。皆も顔を上げてー」
「わかりました」
そう言うと白髪の転校生は教壇の前まで進む。
「碧波由奈です。親の仕事の都合で東京から引っ越して来ました。よろしくお願いします」
そう言ってぺこりと頭を下げる転校生。極めて完結な内容だった。しかし、あんなのが東京から引っ越してくるということはどうやらあいつが猪上麗華の後任ということらしい。
結局、猪上麗華はここでリタイアという訳か。残念だが、仕方ない。現実として受け入れることにしよう。
「はい。ありがとう。それじゃあ、碧波さんの席は晃成君の隣ね」
「晃成……」
「そうよ。あそこに肘をついて座っている子よ」
そう言って俺の方へ誘導する。
んー。これはマズくないか。絶対、いちゃもん付けられるよな……。
けれど、何もできなくてそのまま視線がかち合い、そして――
「あぁぁあああああああああああああああ。さっきの人でなし!」
白髪の少女の叫びが教室内に木霊した。瞬間、俺のクラス内ヒエラルキーが更にどん底に堕ちていったのを実感した。
ああ、クソ。平穏ってのはこうも簡単に崩れ去るものだと身を持って体験したはずなのに今更、これまでの学生生活の平穏を思い出していた。
◇
二限目が終わった後の休み時間。
することもないので、机に突っ伏していると頭を小突かれる。うざかったが、相手にするのも面倒なのでそのまま寝たふりを続行することにする。しかし、小突くのを一向に止める気配はなく、むしろ徐々に加える力を強めてきやがる。
マジでうぜぇ。
仕方なく顔を上げる。すると白髪の少女は「おっ、やっと起きた」と呟いた。
「何だよ」
太々しく問う。すると少女はムッと顔を顰めた。
「何だよじゃないですよ。どうして今朝助けを求める私を無視したんです?」
どうやらまだ今朝、助けなかったことを怒っているらしい。結果的に何とかなったんだから別にいいじゃねーかと思うが口に出すのはマズそうだ。うーん、なんて答えるのが正解なのか……。しばらく迷って最終的に行き着いた答えはしらばっくれることだった。
「あーお前が何を言ってるのか。さっぱりわからん。人違いじゃないのか」
「な……しらばっくれつもりですか!?」
わなわなと震える転校生。怒ってるなあ。火に油を注いだっぽいが、誰が消火してくれないものか。自分で起こした火消しですら他力本願。我ながら良い根性してる。
「いや、本当に知らないんだって」
「そんなこと――」
「無駄だよ、碧波さん」
白髪の転校生、碧波が感情に任せ声を荒げるのと同時に誰かの声が被った。その声の主は俺のことを特に嫌っている人物だった。
「――無駄ってどういうことですか」
突如、乱入してきた声の主に碧波は戸惑いを声を漏らす。一方、声の主――二咲楓は眼鏡越しに俺のことをナイフのように鋭い目つきで睨みつける。
まっとうに生きてりゃここまで人に恨まれることはまずないだろう。
「それはそいつが人殺しだからよ。そんな奴が人助けなんて真逆のことするわけないじゃない」
そして二咲楓は続けて言う。
「ねえ。人殺し。あんたいつになったら私たちの前から消えてくれるの。死んでくれるの。どうして……。ねえどうしてクズのあんたじゃなくてお姉ちゃんが死ななくちゃいけないのよ!!!!」
慟哭が胸を打つ。鐘の音を真横で聞いているみたいにクラクラする。本当。どうしてなのだろう。その答を知りたいのは俺の方なのに。けれど、それを知る機会はもう永遠に失われていて――
チャイムが鳴る。
その音を聞いて興奮していた二咲をクラスメイトが席まで連れていった。転校生は突然の出来事に困惑を隠せないようだった。
まあ、突然こんなの見せつけられて混乱しない方が無理ってものだろう。俺は静かに瞳を閉じた。