1-1 幕明け
「――以上が四月一日から三日にかけての捕食者の動向です」
一人の少女が部屋の一室に鎮座する姿見に傅き赤塚晃成についての報告をしている。髪は雪のように純白で、碧い瞳はサファイアのようで清廉さを醸し出している。
「なるほど。由奈、お前が着任してからそう時間も経っておらぬというのに捕食者は随分暴れたようだ。ご苦労であった。して、捕食者の処分は決めたのか?」
姿見から聞こえる声。その姿見の中には一人の老祓魔師の姿がある。
遠見の術を応用した魔導具であり、物理的な距離を無視して意思疎通を可能とする。古き時代より連綿と受け継がれている技術ではあるが、IT技術の進んだ現在社会においては時代遅れの産物でしかない。
正直な話、ビデオ通話の方がどこでもできるようになった分便利なくらいだ。
由奈の報告を聞いていた老祓魔師――天崎雁紀は初めから報告の後半部分にしか興味がないといった口調で尋ねる。
報告の後半部分。
つまり、赤塚晃成を殺したのかどうか。その一点に尽きる。前半部分は赤塚晃成と対峙した正体不明の魔族についてだったが、すげなく話は切られた。
由奈に与えられた表向きの任務は捕食者である赤塚晃成の監視であるが、それは庇護者である天崎瀬那の目を盗むための建前に過ぎない。協会の方針は一貫して赤塚晃成を殺し暴食の聖具の回収するというものであるからだ。
だが、なぜ建前を使う必要があるのか。それは派遣した祓魔師全てを皆殺しにした天崎瀬那という祓魔師の機嫌を取るためだ。
天崎瀬那。
天崎雁紀の孫娘に当たる歴代最凶の祓魔師。そして、赤塚晃成を祓魔師から守るフィルターのような人物。
協会という一大組織が天崎瀬那たった一人の顔色を窺うのはおかしな話であるが、実際にあの化け物に出会った者ならその意味が嫌というほどわかる。
あれを怒らせてはならない。本気にさせてはならない。
由奈も遭遇し、向けられた殺意の重さと鋭さに吐きそうになっている。あれは凡人が刃向かっていいレベルの存在ではないと魂に刻まれるのだ。
故に由奈はこの任務のレベルの高さに打ち震えた。
なぜなら赤塚晃成を殺すということは、化け物、天崎瀬那を敵に回すことを意味する。
恐らくであるが、赤塚晃成、天崎瀬那の両名を殺すことが今回由奈に与えられた本当の任務だったのだろう。
その一見、行き詰まりのような現実を理解している由奈は雁紀の「捕食者を殺したのか」という問いに慎重に答える。ここで間違えれば由奈は殺されることになる。使えない駒に待っているのは捨てられる運命。それがおかしいと思えるほど由奈は日和っていない。
大事なのは赤塚晃成を殺す準備を整えている意思表示である。
「目下観察中でございます。今はまだ時期ではないかと」
「……そうか。ならば引き続き任務を続行せよ。次は良い報告を待っている」
熱の冷めたラーメンを捨てるように乱雑に切られる通信。
やはり雁紀にとっての最重要事項は赤塚晃成の死であり、それ以外はさほど興味はないようだった。
通信が確かに切れたのを確認し、由奈は課せられたプレッシャーの大きさのあまり大きく息を吐き
「そんなの出来る訳ないじゃない……」
そんな弱音を零すのだった。
× × ×
祓魔協会姫野宮支部――
その建物は森の中にひっそりと佇んでいる。市役所の人間ですら知らない秘密基地。巨大なサイコロのような四角い箱を二つ積み上げて出来たと思えなくもない面白味に欠けた外観である。
施設内は広く地下二階、地上二階建て。
その中でもとりわけ広い一室が支部長室である。祓魔協会トップ天崎雁紀の自室は権力と金に物を言わせた趣味の悪い調度品のゴミ捨て場のような部屋であるのに比べ、支部長室はソファや机といった必要最低限の物しかなくどこか空白さを感じさせる。
そんな一室にある二つの影。一つは長い茶髪を腰まで伸ばした女性であり、来客用のソファに腰を下ろし、報告書のような紙の束を眺めている。もう一つは襟足まで伸びた黒髪の少年で、女性の対面に座り、女性の口が開くのを待っているようだ。
二人の間に恋人のような甘い空気は流れておらず、神妙な空気が張り詰めている。
やがて、一通り読み終えた女性が顔を顰め口を開く。
「相変わらず文章書くの下手だね、お前は。で、回収した葛灘鉋の遺体から呪術的痕跡が検出されなかったってのは本当か?何かの間違いじゃないのか」
「……本当です。まず身体中から鎖が生えていましたが、それは生まれた時からそうだったとしか思えないほど自然なものでした。もちろんそんな人間がいるはずがないのは重々承知しているし、人間の姿が変わるとなればそれは呪いしかあり得ない」
少年は冷えた女性の瞳を真っ直ぐと見つめ事実を淡々と告げる。
「――確かにそうだな。姿を変える呪いはお伽噺でも定番だ。蛙に変えられた王子様、蝋燭に変えられた使用人とかが有名だが、そうか……。葛灘鉋の変態が人を人でない存在に変える呪いでないとすればいったい何なのか。……考えてみてもサッパリだな。それで、天理。今回の件、どう思う?これをやった犯人はあいつで間違いないか」
悩まし気に首を振り茶髪の女性――天崎瀬那は弟の天理に話を振る。振られた天理は一瞬、視線を落としたが再び瀬那の顔を見つめ直し口を開く。
「……葛灘鉋の変態の件もやはり道化師の仕業で間違いないと思います。それと仮説ですけど、変態は道化師の使う術式は新たなものではないかと」
「新たな術式ね。具体的にはどのようなものだ?」
「現段階では憶測の域を出ませんけど、人を進化させる類の術式ではないかと思います」
「進化?そいつはどういう意味だ?呪いによる変態と何が違う?」
瀬那は天理に問い質す。
そもそも呪術による人体の変態は元の身体に新たな機能を付け足すものである。例えば吸血鬼の呪いの代名詞である眷属化の呪いは夜目であったり、再生能力を付加させる。
それは人体の進化であると言えなくはないだろうか。
「全く違いますよ。呪術による変態は言わば足し算です。そうですね。例えばAという一般人がいたとしましょう。そのAが呪術による変態を遂げた場合それは付属品の分だけ性能が上がったAに過ぎません。
ですが、今回の道化師の新術式は違う。これは掛け算に近い。しかも、掛け値が膨大です。一に一を足すのが呪術ですが、一に百を掛けるのが新術式です。今思うと吸血鬼の眷属化は後者に近い気がしますが……。すみません。話が逸れましたね。つまり、呪術は進歩であり、新術式は進化であるということです。
とにかくこれが現状の推察です。まだ確証が持ててはいないんですけど」
「いや。それだけでもわかっているだけで前進だ。しかし、新術式ね。確かにそう考えれば葛灘鉋の例は説明できるか……。また何かわかったら報告書に纏めておいてくれ。それじゃあ、私は引き続き道化師を探すことにするよ。それが一番近道になりそうだし、あんまり悠長にしていると教会本部に勘付かれる。まあ、あの新しい監察官には何も晃成以外の情報がいかないようにしているから大丈夫だとは思うけど、急いで悪いものでもない。天理、それでいいね」
「はい。お願いします。
……ところで話は変わりますけど暴食の聖具は大丈夫ですか?」
問いかける天理。その質問に瀬那は呆れたように息を吐き答える。こいつはまたまどろっこしいことをするなと。
「ああ。何も問題はないよ。仮にも悪魔から造られた超常兵器だからね。おまけにあいつには引き継いだ真祖の権能もある。あの程度じゃ壊れやしない」
「そうですか。ならいいです」
一瞬。何か言いたげな表情をした瀬那であったが、言わなかったので呑み込んだようだ。
「他に訊きたいことはないか?」
「大丈夫ですよ」
「そうか。なら私は行くとするよ。ああ、そうだ。二、三日は事務所には帰らないから用がある時は携帯を鳴らしなさい」
ため息を吐く瀬那に天理は首を傾げる。
「わかりましたけど、どこかに出かけるんですか?」
「ん?ああ、いや古い知人からの頼みでね。胸糞悪いお仕事だよ」
吐き捨てるようにそう答え瀬那は支部長を後にした。
× × ×
右腕の悪魔が吼える。
喰わせろ、喰わせろ、喰わせろ、喰わせろ。
不快な声は壊れたラジオのようにリフレインする。脳に直接刻まれる空腹に喘ぐ慟哭。その慟哭は一生続く運命である。
なぜならその空腹は永遠に刻まれた呪いであり、暴食の悪魔である証である。もしも、その満たされない空腹が消え去る時がくるとすれば、暴食の悪魔としての本懐を遂げたことを意味する。
故に右腕の悪魔は咆哮を止めない。
自身を蝕む空腹を消し去るために――
◇
三月五日。月曜日。時刻は七時半。
久々に見た嫌なイメージのせいで不本意なことに早起きをしてしまった。普通ならここで二度寝をする場面であるが、幸か不幸か寝覚めはとてもいい方なので観念して起きることにした。まあ、何にせよ学校には行かないといけないわけだし、本来ならこれが正しいことである。
朝食を取るためにリビングに向かうと、珍しいことに母がまだ食パンなんぞを食べていた。しかもまだ寝間着。今日は休みなのだろうか。
「おはよう。まだ家にいるなんて珍しい。今日、休みだっけ?」
挨拶をしつつ自分の分の食パンをトースターにぶち込み、冷蔵庫から冷えた牛乳を取り出してコップに注ぐ。すると、母は視線をテレビに固定したまま口を開く。
「おはよー。休みじゃないよ。今日は遅番だから家出るのは夕方からなの」
眠た気な声。眠たいのならもう少し寝ていればいいと思うが、やらなければならないことが溜まっているのだろうから、何も言わないでおく。
「ふーん。じゃあ、帰ってくるのは明日の朝?」
適当に相槌を打ちつつ朝食の準備を続ける。
「そうだね。朝の六時くらいかなー」
「了解。それじゃあ、いつも通り家事はやっとくよ」
「ありがとう。それじゃあ、お願いね」
会話終了。
以降、俺は台所で食パンが焼き上がるのを待ちながらテレビを眺めることにする。ついていたのはニュース番組。内容は姫野宮市で起こった鎖怪人によって引き起こされた連続殺人事件。
七原地区で高校二年生だった化野珠理と会社員の男性が殺されたのを皮切りに合計三人……いや、警察にも発見されなかった遺体も含めると九人の犠牲者を出した二日前に終わった事件である。
とはいえ、世間的にはまだ始まったばかりの事件であるので報道は加熱する一方。
まあ、証拠は瀬那さんが全て始末したので、このままいくと事件は迷宮入り。ニュースから消え去るのも時間の問題である。
と、トースターがチンと鳴ったので、いい感じに焼けた食パンを取り出して席に着く。
机の上に置いてあったマーガリンを塗りたくり、口に運ぶ。個人的にはバターの方がいいのだが、少々お高いのでそこは我慢するしかない。
食べ慣れた食パンを数口運んだ時
「本当、物騒な話よねー。犯人の情報も全くないしどうなっているのかしら」
ぼやく母。その表情は少し硬い。二年前の大災害以降、人が亡くなることに敏感に反応するようになった。曰く、あの日を境にニュースから流れてくる事件は現実に近い非現実から現実となったのだそうだ。
母の中でいったいどんな心の変化があったのかはわからないが、傷を負ったのは明白である。何せ元夫と娘を失ったのだから。
「おーい。聞いてる?」
「ん?あ、ああ。ニュースになっていないんならどうもなっていないんじゃない?」
「えー何それ。職務怠慢じゃない」
再び怪訝な声をあげる。確かに母の言っていることは最もなのだが、警察の方々が正体不明の犯人の行方に困っているのはわかりきっているので同意し辛いものがあるのもまた事実。
なので、適当にお茶を濁しながら食パンを口に放り込み、学校へ向かう準備をするべくそそくさと自室に戻ったのだった。
七時五十分。
制服に着替え玄関へ向かうと
「いってらっしゃーい」
そんなあまり聞くことのない声が聞こえてきたので慣れないなと思う。
「行ってきます」
挨拶を返し玄関を潜る。
と。潜った扉の隣に佇む白髪の少女に気付く。こいつはまだ監視とやらを止めてくれないらしい。まあ、まだ五日しか経ってないし仕方ないことなのかもしれないけど。鬱陶しい限りである。
「おはようございます。赤塚君。今日は早いんですね」
「まあな。偶々目が覚めたからな」
「そうですか。なら行きましょうか」
そんな感じで通いなれた通学路を歩き始めた。