4-3 悪食の捕食者
一日の汚れと疲れを落とすことのできる入浴の時間だけが碧波由奈の至福の時だ。
「んー、やっぱりお風呂は落ち着く……」
少し熱めのお湯が張ってある浴槽に身を沈め大きく伸びをする。凝り固まっていた肩の筋肉が解れていくのを感じながら顔の半分を湯船に沈めるのが由奈にとって日課だった。
ブクブクブク。
口から零れ零れた気泡が水面を浮かぶラバーダックに直撃し進路を変える。そして、先ほどまでいた赤塚晃成という監視対象のことを考え始めた。
赤塚晃成。
それは隣室に住む暴食の聖具の適応者である捕食者であり、黎原学園高等部に通う高校二年生。半年前、怠惰なる真祖リーラ・リーベを喰らい使い魔としたことで危険と認定された十七歳の同い年の少年。
彼が抱える問題は思いのほか深く由奈にとってわからないことだらけだった。人との接触を嫌うが、仲のいい人に対しては好意的に動く。そんな彼が何を思って真祖を使い魔にしたのかは不思議であるが、それはこの先の監視で明らかになるだろうか。
息苦しさを感じ顔を湯船から浮上させる。水面に映る自分の顔は眉間に皺が寄っていて全然可愛くない。せっかくの大好きなお風呂だというのにいつの間にか仕事のことを考えていたことに由奈は大きくため息をつく。
「ああ止め止め。長期的な任務になるんだから今ぐらいは仕事のことは忘れなくちゃ。メリハリが大事ってお母さんも言ってたし」
そう呟いて頬を叩き、最近また成長した胸のことを考え始めたその時。
外で監視させていた使い魔の気配が近づいてくる。それはつまり、赤塚晃成を見失ったことを意味する。突然起こった不測の事態に由奈は一瞬戸惑ったがすぐに冷静さを取り戻し浴槽を飛び出した。
「一体どうなってんのよ!」
脱衣所に置いてあった寝間着を乱雑に羽織り由奈は家から飛び出した。
× × ×
――気付けば事務所にいた。
もう何年も足を踏み入れていない瀬那さんの事務所。名はプウパア。
辺りを見渡すと散らかった部屋の中に瀬那さんとこの世にいないはずの咲がいた。
瀬那さんはいつも通り事務机に向かい、咲はお気に入りのソファに倒れている。俺は咲の近くのパイプ椅子に腰を下ろし、学校の宿題をしていた。
……。
どうやら夢を見ているらしい。
そのことに気付いた時、掌ほどの木箱を開けていた瀬那さんが口を開いた。
「晃成。急で悪いんだが、これを天理の奴に渡しておいてくれ。天理の奴がこれを必要としているようでね。急いで取り寄せたんだが、生憎私はこれから出かけなくてはならない。そこで、お前にはお使いを頼みたい。せっかくだし、咲奈と一緒に行って来てくれないか」
ニヤニヤとした笑みを浮かべながら提案する瀬那さん。その手には瓶の中に入った黒い何かが捕まれている。
その黒い何か。
それが俺の人生を変える物だとは当時は俺は知る由もない。
何も知らない俺は無邪気に答える。
「俺は別にいいですけど。あの瀬那さん。その黒い塊なんですけど何なんです?超重要な物って言ってましたけど変色したバナナにしか見えないんですけど」
「莫迦。そいつは暴食の聖具って言ってな。七つある聖具の中でも最も危険な代物だよ。なんでも――」
◇ ◇ ◇
深海に落ちた意識が浮上する。
徐々に景色を捉え始めた視界は変わらず廃工場。
しかも、右目から見える景色は赤。どうやら気絶する前、額か頭に怪我を負ったらしい。
気絶する前――
そう。あれはあのクソ野郎に止めを刺そうとした時だ。突如としてあいつの右脚に浮かぶ父親の顔が爆弾のように炸裂し、その破片が襲い俺は無様にも意識を失った。
あれはいったい何だったのだろう。爆発する脚。
考えるだけで気味が悪く、胸糞悪い。やはり、あれは理解してはいけない類の精神的化け物のようだ。
しかも気絶したということはつまりリラとの魔力供給が一時的に途切れたことを意味する。
案の定、一時間以内に再び実体化することはできそうにない。
しかしと俺は思う。
どうして俺は生きているのだろう。意識を失ってからどれくらい経ったのかはわからないが、気絶している間に殺されていてもおかしくない。いや、寧ろ殺してない方がおかしいくらいだ。
俺がもし奴の立場なら間違いなく殺している。
だが、現実として俺はこうして生きている。生きているということは見逃されたということだろうか。
「わっかんねえな、クソ」
そう呟き、とりあえず現状を確認しようと起き上がろうとして――
ようやく気付いた。
「ああクソ。そういうことか」
鎖怪人が俺を殺さなかった理由。
それは見逃された訳ではなく。ただ単純に俺も部品に選ばれたからということらしい。
つまり侑李を同じように身体中を鎖で簀巻きにされ乱雑に魔法陣の刻まれた地面に放り出されているのである。
◇
身体を揺すり脱出を試みても鎖は強く巻かれていて一ミリも動かない。ジャラジャラと不快な音が耳を撫でるだけである。この状態で抜け出せるのがゴリラか忍者くらいである。
ちくしょう。縄抜けの術、学んでおくんだった。
青竜刀に変形してした右腕は元の非力なものに戻っている。恐らく俺が気絶したことによりリラの実態を保つことが困難になったのが原因だろう。あの黒い青竜刀はリラの補助なくては形を保てないので、当然のことである。
念のためリラに呼びかけてみたが、やはり力のほとんどを使いきったらしく今夜再び実体化をすることは不可能らしい。
ますます打つ手がない。
他人に巻き付いている鎖を切るのはそう難しいことではないが、自分自身に巻き付いた鎖を自力で切ることはほぼ不可能に近い。
つまり、助けがこない限り絶対絶命という訳だ。
と、俺が自力での脱出を諦め始めた時、
「ア。起キダンダ。オハヨウ。最後ノ睡眠はドウダッタ」
闇の中からパタパタと足音を響かせながら現れる鎖怪人。爆発したはずの右脚は傷痕すらない別のものに変わっている。
たぶん、最初に訪れた広場に転がっていた脚をひっ付けたのだろう。
それ自体にはそれほど驚きはしないが。しかし、まあなんて最悪な質問をしやがる。
「おかげ様で最高の目覚めだよ、クソサイコパスが」
「ソレハ良ガッタ。これガラ貴方ハ、私ノ予備部品にナルんダカラ」
「予備部品?何だそれは」
「ソノママノ意味だヨ。私ノ手足ニハ消費期限がアルノ。ダカラ、ゾの時マデ腐らないヨウニ処理をスルノ」
にんまりと。フードから覗く口元がまるで子供が玩具を見つけたみたいに破顔した。
全く持って胸糞悪い話であったが。なるほど。なるほど。だいぶ読めてきたぞ。今、俺の真下にある魔法陣はどうやら防腐処理をするためのものらしい。
やってることは工場らしいが、勘弁して欲しいものである。
「ところで、今さらなんだが聞いてもいいか?」
「……ナニ?」
「お前の名前ってもしかして葛灘鉋だったりする?」
葛灘鉋。
ここで働いていた従業員であり、一年半前に火事で大火傷を負った少女。そして、父親と共に失踪したと言われている。
脚に取り込まれた顔を父親と言ったり、喉を焼かれているようなダミ声だったりと、こいつには色々と当てはまる。人間から魔族になったという事例はこれまでにも確認されているし、可能性としては充分にあり得るのだ。
静寂が落ちる。ほどなくして鎖怪人の口が開き
「ゾウダヨ。私の名前ハ葛灘鉋。こコで働いデいたケド、火事デ全部失グしチャタ」
そうあっさりと告白した。
「なあ。頼むから逃がしてくれねえ?」
「ダメ。ソレハ出来ない。貴方ハ私ニ負けタノダカラ、大人シク殺サレテ。ダッテ。ソレガ弱肉強食ダカラ。弱い者ガ強い者二殺サレルノハ自然の摂理デショウ?」
「自然の摂理ねえ。まあ、この世が弱肉強食なのは認めるけど」
「デショウ?デモ大丈夫。貴方ノオドモダチも直ぐにソッチニイグカラ。ヒトリジャナイ」
そう言った先には横たわる侑李の姿。
………………。
こいつ。ターゲットを俺に変えたのではなく、両方にしたという訳か。
なんて貪欲なのだろう。
アレを使ってでも今すぐぶっ殺してやりたいところだが生憎動くことはできない。このままでは殺されるのを待つばかりである。
その時。
俺に鼻に飛び込んで来る嗅ぎ覚えのある臭い。
すっかり存在を忘れていたのだが、そうか。まだあいつが残っていた。もしかするとどうにかなるかもしれない。
眼球だけを動かし臭いの元を探す……といたいた。火事で崩落した天井部分で蠢く影。幸いにも鎖怪人の奴は気付いてない。
それじゃあ、後は俺の意思をどう伝えるかだが……。
こつんと指先で床をノックする。
すると人差し指が闇の中に吸い込まれ、俺は指先で文字を刻む。後は上手く伝わることを祈るばかりだが。
「貴方、何ジデルノ」
やべえ。露骨すぎたのか怪しまれる俺。ピンチ!
「いや。何にもしてねえよ?いやいや、マジで」
「………ソウ。デモもうドッチデモいいヤ。貴方とノお喋りハモウオジマイ」
どうやら潮時らしい。奴さん、おしゃべりに飽きたらしく俺を保存する気満々だ。手が伸びる。そろそろ最後の言葉として堪りに堪った鬱憤をぶちまけることにしましょうか。大きく息を吸いそして――
「そうか。そいつは残念だ。そういえば、今思い出したんだがお前。右腕が欲しいんだったよな。だったらお望み通りくれてやるよ」
「エ゛?」
銃声が廃工場に木霊する。撃ち出された銃弾は鎖ごと俺の右腕を吹き飛ばし――
瞬間。
無数に蠢く黒い何かが鎖怪人に襲い掛かった。
× × ×
由奈が廃工場に到着したのは晃成が鎖怪人と遭遇してから実に三十分後のことであった。
昼間に来ていたので方向音痴である彼女でも何とか辿り着くことができた。
廃工場に着いた由奈は昼間に来た時と同様に中に這入り、裏口から侵入しようとして濃密な呪力を感じ、侵入経路を変更した。
そして。
簀巻きにされている晃成を発見し、どうしようかと様子をみていると
「我が主様が叫ぶのと同時に主様の右腕を吹き飛ばせ」
そんな声が響いた。
何を言っているのか理解できず困惑する由奈であったが、
「そういえば、お前。右腕が欲しいんだったよな。だったらお望み通りくれてやるよ」
ヤケクソ気味に。その声と連動して引き金を引いた。
× × ×
「ア゛、エ、イタイ、イタイイタイィィィィ!!!!ナンデ、食ベラレテルの……!!!!」
絶叫が上がる。
黒い何かが全身に纏わりついた鎖怪人は苦しみから逃れるためにのたうち回る。
◇ ◇ ◇
「あの瀬那さん。その黒い塊なんですけど何なんです?超重要な物って言ってましたけど変色したバナナにしか見えないんですけど」
「莫迦。そいつは暴食の聖具って言ってな。七つある聖具の中でも最も危険な代物だよ。なんでも、そいつは暴食の悪魔、ベルゼブブの残骸らしい」
「ベルゼブブ?何ですそれ」
「お前、知らないのか。これだから晃成は……。ベルゼブブってのはそうだね、わかりやすく言うと喰うことに魅せられた卑しい蠅の王様だな」
◇ ◇ ◇
魔蠅が喰らう。淀んだ呪力を貪り腹に収めていく。それは弱ったバッタに群がる蟻を連想させる凄惨な光景だ。
こいつらは喰うことに囚われた哀れな悪魔だ。どれだけ喰っても満たされることはない。際限なく食事を求める永遠の飢餓を背負わされている。それがどれだけ不味い餌であっても悪食は止まることはない。
「止メ。お願いジマス。ワダジの力ヲダべナイで!ワダジはタダ元に戻りだカッタダケナノ!!!!!!」
みるみるうちにやせ細っていくチェーン。
既に一回りほど小さくなっている。これではバッタになるのも時間の問題だ。
「イヤ!死ニタクナイ。ジニタクナイヨ!!助ゲテヨォォ!!!!ォ父さん!!!!」
二度目の懇願。その声はもうどこにもいない父親を呼んでいる。
一度目はあんな状態になったにも関わらず娘を想う父親によって助けられた。そこで俺を殺しておけば良かったのに殺さなかったこいつの詰めの甘さが招いた失態だ。
その失態に俺がわざわざ付き合う義理はどこにもない。が、最後に一つ言いたいことが出来たので蠅に命令して、食事を止めさせる。
ついでに喋りやすいように顔に張り付いた蠅共をどかす。
「ア――――バ――――」
…………。
必死にもがいたせいか、深くまで被っていたフードは脱げていた。現れた顔。それは葛灘鉋、もとい鎖怪人のものではなく、ニュースで見た顔写真と一致する。
化野珠理。
殺されて、顔を奪われた少女がそこにいる。
何て言ったらいいのだろう。
ここまでくると言葉が出てこないどころか、寧ろ哀れに思えてくる。ここまでするのかと。いったい何がこいつをここまで踏み外させたのだろう。
さて。想定外のことはあったが、本題だ。スッキリすることはないだろうが、言いたいことを言ってしまおう。
「なあ、お前。都合が良すぎねえ?」
「ナ、ニガ」
「何って。そりゃ散々人を殺しておいて自分は悪くないって、なんだそりゃ。ふざけるなよ、勘違い野郎。お前は充分、イカレてる。悪くない訳がない。自分のために他人の人生を踏みにじるのを正当化してんじゃねえ。そんな言い訳をする奴は弱者以外の何者でもねえ。いや、弱者以下のクソだ」
「違ウ。違ウ。違ウ!!!!私は強い!!!!強イカラ正ジい!本当なラお前なンカニ負ケナイ!!!!」
「だからお前はダメなんだ。お前は弱い。しかもどうしようもないほど弱い。認めろよ。確かにこの世はどうしようもなく弱肉強食だが、それでもこの世界は優しさで出来ている。一人では何もできないのが人間だ。一人じゃ子孫を残すこともできない弱者だ。いいか、本当に強い奴はな誰かのために行動できる奴のことを言うんだよ。なのにどうだ。お前は自分のことばっかりじゃねえか。はっきり言ってお前よりもお前の父親の方が正真正銘の強者だったよ」
溜まっていた苛立ちをぶちまける。
強くなったとか抜かしていたが、その強さは俺以下のハリボテだ。そんなもので勘違いしていたとか正直アホ臭い。
弱者は弱者らしく分を弁えて自分の範囲を守っていれば良かったんだ。
まあ、終わった後に言ってもどうしようもない。
失われた命は戻らないのだ。
「違ウ……ワタジは、私ハ強イ………!!優ジサなンテイラナイ!!」
呻く弱者。その声は最後まで自分のことを想ってくれた父親すら否定した。
もうこいつに言う言葉はないし、声も聞きたくない。
さて。今度こそ本当に幕引きだ。
「もういいよ。うるさいから大人しく俺に喰われてろ」
「ア」
絶望に染まる。
以降、鎖怪人の顔は蠅に覆われて見えなくなる。
お預けをくらっていた魔蠅は物凄い勢いで鎖怪人の霊力を貪る貪る。
こいつが喰いきれなかったことは今までないから、容易に食べ干すだろう。
上がる喚声。
だが、それも徐々にしぼんでいき闇に溶けていく。
しばらくの間、殺虫剤をぶっ掛けられたゴキブリのようにガサガサと蠢いていたが、やがて動かなくなった。
「本当、最後まで胸糞悪い」
◇
音の消えた廃工場。
化け物がちゃんと死んだのを見届けてから俺は地面にぶっ倒れた。
うーん。血が圧倒的に足りていない。なんてったって俺の右腕は絶賛出血中である。少しずつ傷は塞がりつつあるが、一刻も早くあの大喰らい共に戻って来てもらわないと出血多量で死んでしまう。
「大丈夫ですか!赤塚君!!」
静かになった廃工場に響く碧波の声。遺憾ではあるが今回のMVPである。
「おお!さっきは助かった、碧波」
「いえ。それは別にいいのですが、本当に大丈夫なんですか?右腕吹き飛んだままですよ!?というか、どうしてこうなったんです?強い人に任せるって言ってませんでした!?」
「ん。まあそうだな……。詳しいことはちゃんと話すよ。でもその前にちょっと手を貸してくんねえ?片腕じゃあの馬鹿を運べねえんだわ」
「……わかりました。ちゃんと話してくださいよ」
「助かる」
さて。馬鹿を運ぶ人手も確保したことだし、帰ることにしよう。
本当ならもう蠅共が腕に擬態するまで待ちたい所だが、ここはどうしようもなく居心地が悪い。出来うるならさっさと立ち去りたいのだ。
よたよたと立ち上がる。
貧血で頭がクラクラするが、まああと少しの辛抱だ。
最後に干からびてベーコンのようになった鎖怪人を流し見て、俺は来た道を戻っていった。
読んで頂きありがとうございます!
あと二話で第一章『悪食の捕食者』完結でございます。
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