2 プロローグ 下
東京――
冬の街はイルミネーションで彩られ街ゆく人々の熱気で賑わっている。急いで家に帰るサラリーマン、恋人とのデートを楽しむ若者などその在り方は様々だ。
高層ビルが立ち並びその隙間を縫うように人は歩く。
そんな街の中心には地上六十階建ての一際目立つ超高層ビルが聳えたっている。高さにして二百メートルは優に超える都市の象徴とも言える建築物。
ビルは上場企業である天崎不動産の本社ビルであり、その最上階には代表取締役社長である天崎雁紀の自室がある。贅沢の限りを尽くした豪華な調度品はあるだけで来訪者を威圧する。まるで結界内のような重苦しい空気が張り詰めていた。
その広大な部屋の中央に一人の少女が座っている。
その顔からは幼さは消え、大人の綺麗さが頭角を現し始めていた。
雪のような白髪を一つに纏めたポニーテールはその可憐さをより一層際立たせている。
少女が身につけているは、地元の私立高校の制服。
部屋の最奥には先客が座っている。
巌のように厳しい顔の白髪交じりのご老体。名を天崎雁紀。通称、白蛇の雁紀。
天崎不動産のトップであると同時に祓魔協会のトップを務める老祓魔師である。
祓魔師としての実力は折り紙付きであり、名のある現役の祓魔師も認めている。あの爺を敵にしたら命がないということを。
そんな老人を前に少女は毅然とした様子で座っていたが、掌は緊張と恐怖の余り汗でぐっしょりと濡れ服の中も似たようなものだった。
一体どれだけの時間が経ったのだろう。その時、ネジ捲き時計が鳴り夜の十時を報せた。
そして――
「よく来てくれた。宗次の娘、碧波由奈」
最奥に座したまま雁紀翁が口を開いた。声は皺枯れておらず、威厳に満ち溢れている。始めて聞く声ではなかったが、かと言って慣れる類のものではない。
「お久しぶりでございます。雁紀様。貴方様の頼みであれば参らない訳がございません」
威圧感に押し潰されそうになる心を保ちながら少女は唇を震わせる。
「呵々。そうか。そう言ってくれるのはこちらとしても嬉しい限りだ。それで、由奈。お前は今何歳になった?」
「あと半年で十八になります」
臆していないかのように気丈に振る舞う。もしかすると声が裏返っていたかもしれないが、今の少女にはそんなこともわからない。
「十八……。そうか、その歳で既に第一に入隊したのか。流石はあいつの娘だ。しかし年月というものは早いものだな。儂が歳を取り老いぼれていくのも納得というものだ」
「お戯れを」
呵々大笑する雁紀翁に由奈はそう呟く。だが、当の本人は冗談ではなく本気でそう言っているようだった。
それは由奈を始めをする全祓魔師に対して悪い冗談に過ぎない。一体この老人はどれだけの力を持ち合わせているのだろうか。
「そう畏まるな、由奈。お前は友である宗次の娘だ。畏まる必要はない」
「しかしそういう訳には参りません。雁紀様は私たち祓魔師の頂点に立つお方。いくら父のご友人とは言えそのようなことは出来ません」
「――そうか。そのお堅さは父親譲りだな。わかった。ならば強制はせん」
「ありがとうございます」
頭を下げる由奈を見て雁紀翁はフッと含み笑いを零す。その笑みがどのような意味なのかはわからなかったが。
「ところで由奈よ。お前は暴食の聖具を知っているか」
「詳しくは存じ上げませんが、聖人が倒した七つの悪魔から造られたものの一つだということは存じております」
突然の質問に由奈は戸惑いながらもそう答えた。
「そうだ。暴食の聖具はその七つある聖具の一つ。我々、日本祓魔協会が管理を任されていた最凶と目されている呪具である」
暴食の聖具――
それは魔族に関わりを持つものなら誰もが一度は耳にしたことがある対魔族の絶対兵器。
魔力、呪力を問わず霊的エネルギーならば何でも吸収し適応者の力として再利用する能力を持つ。
一見、それほどまで凶悪には思えないが合計七つある聖具の中でも最も危険だとされている。
それはなぜか。
暴食の聖具は人間に対しても効力を発揮するからだ。厳密には人間に効力を発揮する聖具の中で性質が悪いと言うべきか。
なぜなら魔力とは生命エネルギーのことだからだ。要するに暴食の聖具は加減によっては容易に人を喰い殺すことができる。
正しく使えば頼りになる兵器だが、もし使用者を誤れば災害レベルの被害が出るのは愚か者でもわかるだろう。少なくとも暴食の聖具の適応者は今までそのようなテロ行為に走ったことは一度もないが、可能性の問題として祓魔協会は放置することはできない。
「しかし、暴食の聖具は二年前の大災害の折、失われたと聞きました」
由奈は自分が知っているありのままの事実を述べる。
二年前の大災害。
その大災害を引き起こした犯人を追い詰める秘密兵器として導入されたが失敗に終わり、暴食の聖具も破壊された――それが今の通説だ。
このことを知った海外の協会の人間は激しく抗議したが、最終的には大災害を引き起こした魔族が吸血鬼の真祖であったこともあり、寧ろあの程度の被害で収めることができたのはお手柄だったことになっている。
しかし、部屋の最奥に座す雁紀翁は厳かな顔つきのまま首を横に振る。
「それは誤りだ。確かにそういった情報が流れているのは事実だが、実際は異なる。今現在も暴食の聖具は存在している。所在地も把握している」
「――」
その微妙な言い回しに由奈は何て答えればいいかわからず黙りこくってしまう。それにもし雁紀翁の言い分が真実ならばどうして隠蔽しているのかがわからない。
曲がりなりにも大組織である協会が信用に関わるような失態をわざわざ偽造する理由が不明である。だが、雁紀翁は気にすることなく続ける。
「重ねて聞くが由奈よ。捕食者を知っているか」
「暴食の聖具の適応者である、ということしか」
「いや、それが真っ当な祓魔師の知識だ。暴食の聖具の存在とその力の強大さは知っていてもその能力を知っているものは極僅かだ。知っているのはせいぜい儂と由奈、お前の父親を含む幹部連中、そして猪上麗華くらいだ」
突如、会話に現れた今現在、意識不明の重体である姉弟子に由奈は驚きを隠せない。
「なぜ、れい姉が……」
「その答えはお前を呼んだ理由になる。では、そろそろ本題に入るとしよう」
「……はい」
「いい返事だ。まずはこれを見てくれ」
その言葉と共に白い蛇が赤いカーペットの上を身をくねらせながらやって来て、そして一枚の写真となった。
写っていたのは学ランを着た眠たそうな目の少年。だが、その学ランはボロボロな上、少年の顔は傷だらけで流血している。
「これは?」
「名前を赤塚晃成。歳はお前と同じで今年十八になる。黎原学園高等部に通う高校生。少し前まで猪上麗華が監視官として付いていた人物だ」
「監視ですか……どうしてそんなこと」
話が見えず由奈は困惑したまま尋ねる。
「そいつが二年前の大災害の折、捕食者として覚醒したからだ」
「この男が、ですか……?見たことがございませんが、どこの支部の者でしょうか?」
「否。二年前の大災害のただ一人の生き残り。祓魔協会と何の関わりもない一般人だ」
「ならばこの男は祓魔師ではないのですか!?」
信じられないといった様子で呟く由奈。なぜなら、祓魔協会が管理している聖具が協会関係者以外の手に渡っているという事実と、その男が今も生きているという現実が受け入れられなかったからだ。
祓魔協会は協会外の人間に危険な聖具が渡っていることをオチオチ見逃すような甘い組織ではない。危険な可能性があると判断すれば容赦なく殺す、そういう組織だ。
「そうだ。祓魔術など微塵も使えない。だが吸血鬼の真祖を使い魔として使役している、がな」
「な……」
驚きの余り由奈は絶句する。
捕食者として覚醒しただけでなく、吸血鬼の真祖を使い魔にしている人間など聞いたこともない。
霊的エネルギーを喰らうこともできる捕食者と<魔族の王>と目される吸血鬼の真祖を使い魔にしているなど――
想像するだけで恐ろしい。
「なぜ……そのような人物を生かしているのでしょうか。生かして置くのは余りにも危険過ぎるかと」
「確かにその通りだ。無論、我々も二度捕食者の抹殺を試みている。だが、その二度とも失敗終わっている。一度目は十人、二度目は二十人だったが派遣した祓魔師の悉くは返り討ちに遭った。以来、我々は抹殺ではなく監視に切り替える他なかったのだ」
「そんなことって……」
突飛な事実に由奈は戸惑う。捕食者の恐ろしさは相当なものだとは認識していたが、ここまでとは思っていなかった。
「祓魔師を容易に葬るとは、それほどまでに捕食者というのは桁違いな存在なのでしょうか」
「――厳密には捕食者ではなく、庇護者の方が厄介だがな」
ここにきて初めて歯切りが悪くなる雁紀翁。恐らく何かあるのだろうが由奈にはわからなかったが。
そして再び口を開き続く。
「そういえば、猪上はお前は姉弟子だったな」
「はい。血は繋がっていませんが姉のように慕っています」
「ならばどうしてその姉弟子が意識不明の重体に陥ったか知りたくはないか?」
「――それはどういう意味でしょうか。麗華は任務中に真祖に襲われ負傷したと聞いていますが」
雁紀翁の言っていることに怪訝な態度になる由奈。だが、ここまで来れば雁紀翁がいったい何を言いたいのか。それが薄々理解できてしまう。少し前とは違う嫌な汗が背中を伝う。
「もしも。お前の尊敬する姉弟子が真祖などではなく捕食者にやられたとすればどうする?」
「どうすると言われましても」
そんなこと今すぐにはわからない。
「復讐したいと思わないか?」
「復讐……ですか」
唐突な問いかけ。その答はやはりわからない。なぜならその問いは現実味が無さ過ぎるから。言葉だけでは由奈の心は動かない。だが――
「もしその事が事実だとするならば然るべき対応を取らせてもらいます」
仮にその赤塚晃成が本当に猪上麗華に重症を負わせたというのなら由奈は実力行使も辞さない。むしろ、好んで暴力に訴えるだろう。
「そうか。ならば実際に見て判断してくるがいい。これより碧波由奈、お前を監察官に任命する。任務内容は捕食者赤塚晃成の監視及び、危険と判断した場合は即時抹殺することだ。検討を祈る」
その言葉は静かに告げられた。だが有無を言わさぬ迫力があり、由奈は言葉を失う。
捕食者――
対魔族兵器の最高傑作として造られた七つの呪具の一つである暴食の聖具の適応者。
その恐ろしさを目の当たりにした者はいないらしいが、小さな街一つ程度なら一夜の内に滅ぼせる力を持つという。
正直なところそんな相手の監視を突然任命されても心が追い付かない。ましてや、敬愛する姉弟子に重症を負わせた犯人かもしれない相手の監視ともなれば尚更だ。
だが、その危険な任務に姉弟子である猪上麗華は就いていた。ならばその後任に就くのは私の役目なのではないだろうか――
「――いくつかお聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
由奈は小さく息を吐き、唇を震わせる。
「なぜ私なのでしょうか。監視官に適任な祓魔師なら他にもたくさんいるはずです」
「確かに沢山いるが、監視対象と歳が近く実力を兼ね備えているのは由奈、おまえしかないのだ。なにせ監視は学校内部でも行われるからな。同じ学校に在籍している方が都合がいいだろう。これでいいか?」
「はい。ありがとうございます」
「ならば出立するといい。転校と引っ越しの手続きはこちらで済ませてある。それと姫野宮支部長、天崎天理との接触は避けよ。それではいい報告を待っている」
雁紀翁はその声を最後に部屋から完全に姿を消した。いつの間に退出したのか定かではないが、部屋中を覆っていた重苦しい閉塞感は無くなっている。
しかし、姫野宮支部長との接触を避けろとはどうゆう意味なのか。他にも懸念材料は山ほどあるがやらなければならないのは明白である。
その部屋に残された由奈はシャンデリアがぶら下がる天井を見上げ
「いい報告か……」
ただ静かにそう呟いた。
どうやら自分がかなり厄介なことに巻き込まれたとこの時の由奈は漠然と思うばかりだった――