8
あの後、ふらつく足取りで何とか部屋に戻ったが、当然の事ながら眠ることも出来ず、床に呆然と座り込んでいた。
俺は、どうかしてしまったんだろうか。
春馬が自殺を図ってから、不思議な夢を見る。弟が作った物語を夢で辿り、弟が死のうとした日の事を夢で知る。
常識で考えれば有り得ないことだが、現に俺の身にはこの奇怪な出来事が起こっている。
既にどこか、おかしくなっているのかも知れない。
或いは春馬が、俺の気が狂うのを望んでいるのかも知れない。
そうだとしたら、これは復讐だ。自分を追い詰めた兄への、最後の報復なのかもしれない。
ひどく寒いのに、体の中に熱が籠っているように感じる。意識は朦朧としているのに、視界は妙に冴えている。
朝が来て、両親が一階で活動を始める気配がする。朝食を作り、食べ、父は仕事に出る。母は台所を片付け、春馬の入院している病院へ行くために家を出る。
両親が出掛けた事を物音で察した俺も、外へ出ようと考えた。
じっとしていたくない。誰にも会いたくないが、ここに一人でいるのも耐えられない。
服を着替え、洗面所で顔を洗って歯を磨いた。部屋に入って、春馬の小説が入ったままのリュックを背負い、玄関でいつものスニーカーを履いて外に出た。
外は驚くほど暑かった。更に意識が混濁していきそうだったが、それでも俺は歩き始めた。疲れた頃に電車に乗り、表参道で何となく降りた。そこは賑やかで、楽しそうな若者たちが笑いながら俺の横を通りすぎていく。
春馬にだって、こんな風に生きていく権利はあったはずなのに。
その時突然、左腕を掴まれた。だが弱った体で素早い反応など出来るはずもなく、ひどくゆっくりした動作で振り向く。そこには大学の友人である谷川がいた。
「夏希」
谷川は怒りを圧し殺したような声で俺の名を呼ぶ。当然だろう。酷いことを言ったきり、電話もメールも無視したのだから。
だが、すぐに谷川の顔が驚きに変わる。
「おい、お前大丈夫か。顔色が尋常じゃないぞ」
そう言われたが、上手く反応が出来ない。額に脂汗が滲む。次第に目の前がちかちかしてきた。
ああ、貧血かな、と漠然と思った。谷川の後ろから、同じく大学の友人である高橋も顔を出した。
「うわ、やべえよ。ちょ、あそこ行こう」
高橋の言葉に頷き、谷川は俺の腕を引いて歩き出す。高橋も俺を安心させようとしているのか、背中に手を添えていた。
俺は抵抗することも出来ず、二人に引っ張られていた。
視界がはっきりしないままどこか涼しい所に入り、ふかふかした物の上に寝かされる。耳鳴りが酷く、しばらく周囲の音が全く聞こえなかった。
どれ程時間が経ったのか分からないが、耳鳴りが治まり始めると、次第に目も見えるようになった。どうやらソファの上に寝かされているようだ。
手の平で顔を拭い、視線を上げると、そこには俺を気遣わしげに見守る谷川と高橋、そして愛美とその親友の香奈もいた。
俺と目が合うと、愛美は顔を綻ばせた。
「夏希君、良かった。大丈夫?」
酷いことを言って傷つけたのに、安心したように笑顔をくれる。俺は、何だか不思議な気持ちで愛美を見つめた。
落ち着いてくると、周囲の状況も把握できるようになってきた。
ここは、表参道にある行きつけの喫茶店だ。何故かというと、ここは高橋の兄の店なのだ。
カウンターの向こうには、ワイルドな顎髭の高橋の兄、この店のマスターがいる。彼はグラスに水を注ぎ、高橋に声をかけて俺に持っていくように指示し、高橋はそれに従った。
俺は高橋から受け取ったグラスに少しだけ口を付けた。わずかにすっきりした気がした。
「夏希、やっぱり体調が悪くて最近おかしかったのか?」
そう言ったのは谷川だ。皆も納得したように頷いている。
愛美が俺の横に座り、ハンカチで額の汗を拭いてくれた。
俺はソファに深く座り、大きなため息をついた。まさかこんな形で、友人達に捕まるとは。
だが、あんな酷いことをしても俺の体調を気遣う友人達に、罪悪感の様なものを感じたのも確かだ。
「違う。体調が悪いのは、この数日のことで…。嘘をついたのは、別の理由だ」
全員が、言葉の続きを待っている。
頭が痛い。
「家が、ごたついていて。今、他のことは考えられない」
ひどく寒い。
「もう、どうすればいいのか、分からない」
いっそ春馬のように、死んでしまえたら楽なのかも知れない。
「夏希君」
愛美が俺の肩を優しく抱いた。ほとんど何も話してないのに、なぜか彼女は涙ぐんでいた。
その時、俺のジーンズのポケットに入っていた携帯電話が鳴った。深刻な雰囲気だっただけに全員びくりとした。
少しだけ体を起こし、着信の名前を見て瞠目した。画面には、「父」とあった。
父が、喧嘩中の俺に電話? しかも今の時間は仕事中のはずだ。
「どうした夏希、大事な電話か?」
高橋が眉根を寄せてそう聞いてくる。谷川が、はっとしたように呟いた。
「まさか、前に新宿で会ってた女…」
愛美の顔が強張る。俺は、思わず否定した。
「違う。父親だ」
そう言うと、皆に視線で断って電話に出た。
「はい」
『夏希? 今どこにいる』
父親が冷静を欠いた、どこか焦ったような声音でそう言った。俺は意外に思いながら、表参道だと答えた。
『そうか。じゃあ病院からそれほど遠くないな。すぐにタクシーを拾って病院へ来なさい。春馬の容態が急変した』
父親の言っている意味が解らなかった。俺が黙っていると、父は尚も続けた。
『父さんも後十分ほどで着く。今、母さんが一人で付いているから』
「待ってくれ」
ようやく出た声は、酷く掠れていた。
「ちょっと待ってくれ。意味が解らない。だって、まさか同意書に」
『死亡同意書にはサインしていない。生命維持装置の故障でも何でもない。さっき、本当に突然、容態が急変したんだ。春馬は、危篤だ』
「きとく」
父の言葉を、俺は繰り返した。その呟きを聞いた皆が、息を呑む気配がした。
「春馬が、危篤?」
『そうだ。急ぎなさい。父さんも急ぐから』
そう言うと、父は電話を切った。
俺はゆっくりと電話を耳から離し、父の言葉を反芻した。
春馬の容態が急変した。
その意味が頭の中に染み込んでいくと同時に、俺は立ち上がってリュックを掴んだ。
「夏希! どうしたんだ」
谷川が俺の腕を掴む。俺の尋常でない様子に、心配げな表情を浮かべている。
胸が詰まったように苦しくて、上手く息が出来ない。だが震える声で、ようやく呟いた。
「入院してる弟が、危篤だって…」
愛美と香奈が口許を手で覆った。
すると突然マスターがカウンターから出てきて大声で怒鳴った。
「夏希、どこの病院だ」
突然の質問に驚き、しかし有無を言わせぬその問いに咄嗟に答えた。
「青葉総合病院…」
「そうか。そんなに遠くないな。車出してやる。今日は休業だ」
そう言うとマスターは、俺の返事も聞かず店の入口の看板を「closed」に変え、鍵を掛けて裏口に回った。
「ほら、夏希早く行こう」
高橋が俺の手を引く。全員が一緒に行くつもりのようだ。俺の背を押しながら、共に車に乗り込んだ。
車の中で、全てを話した。
三週間前、弟が自殺を図った。
一命は取り止めたが、意識は戻らない。
今後意識が戻る可能性はたった五パーセントで、両親は弟の高校に退学届を出し、生命維持装置を止める同意書にサインすべきか悩んでいる。
まるで他人事のように淡々と、俺は話した。
この事を感情的に話すには、俺は疲れすぎていたのかも知れない。
マスターは、黙ったまま、車のスピードを上げてくれた。
病院に着くと、父はもう到着していた。
一緒に来た愛美たちは、遠慮してロビーに留まっている。俺は集中治療室の前で、両親と合流した。
「春馬は…」
父は、ベンチに座って泣きじゃくっている母の背をさすりながら答える。
「まだ、わからん」
俺は、ベンチの横の床にぺたりと座り込んだ。ベンチに左腕を乗せ、そこに頭を寄りかからせる。
「夏希」
「…なに」
「すまんな。この前は、お前に当たった。春馬を追い詰めたのは、父さんだ」
俺は唾を飲み込んだ。
違う。父さんじゃない。
そう言うべきなのに、喉が詰まって言葉に出来ない。
代わりに出たのは、別の言葉だった。
「春馬が死んだら、どうしよう」
声が震えた。目頭が熱くなる。
父は、母をさすっているのと反対の手で、俺の頭を撫でた。
「…すまんな」
父は、もう一度謝った。
俺は、涙が頬を伝うのを感じながら、意識を手放した。
* * *
俺は砂漠にいた。
この感覚には覚えがある。これは『家族ごっこ』の夢だ。そして俺は今、ゼンになっている。
だが、初めての状況だった。
ひどい砂嵐の中に、ゼンはいた。前後左右が全く見えない。
こんなシーンは、話の中にもなかったはずだ。
そんなことを考えながら、前方に目を凝らすと、そこに人影を確認した。必死で目を凝らし、ある事実に辿り着く。
あの小柄な人影を、ゼンは知っている。そうだ。ずっと探していたのだ、あの子を。
「ケイ」
酷い砂嵐のせいで、声が全く届かない。
ケイは俺に背を向けている。
ゼンの本能が危険を告げている。あの先は危険だ。行ったら二度と戻って来られない。
「ケイ、行くな!」
足を動かそうとするが、全く動かない。
だが、ケイは少しずつ進んでいる。危険な方へ。
「ケイ、ケイ!」
声が届かない。あの子が行ってしまう。
無我夢中で叫んだ。
「春馬!」
砂嵐が止んだ。
ゼン、否、俺は呆然と口許を覆った。
ゼンとしてではなく、夏希としての言葉を、初めて言うことが出来た。
そして砂嵐が止んで、クリアになった視界の先に、求めていた姿があった。
そこにいたのは七歳の子ども。だが、ケイではない。顔は同じだが、服装は青いパーカーに膝丈のパンツ、お気に入りだった戦隊もののスニーカーを履いている。
七歳の頃の春馬が、夏希をじっと見つめている。
震える声でそっと呼んだ。
「春馬」
春馬の唇が動いた。幼い、懐かしい声が俺の耳を打つ。
「なつき」
そうだ。春馬はいつからか、俺の事を「お兄ちゃん」とは呼ばなくなった。生意気にも、呼び捨てにするようになったのだ。
それが腹立たしくて何度も殴ったことがある。だが今は、春馬が俺を呼んでくれたことに、震えるほどの喜びを感じた。
「春馬。そっちに行っちゃいけない。こっちに来い」
必死で手を差し伸べた。進もうとしたが、砂に埋もれた足は全く動かない。
しかし春馬は、無感動な目で兄を見つめるだけだ。
「春馬! そこは危険なんだ!」
「そう」
しかし春馬は、まるで他人事のように返事をする。俺は唇を噛み締めた。
これが報いだ。今までさんざん春馬を傷付け、拒絶してきた。だから春馬は俺を信頼しない。
春馬は淡々と言う。
「ここは、生と死の境界らしい。俺はずっとここにいた。少しずつ進んで、やっとここまで来た」
俺の足元に、小さな足跡があった。それは俺の目の前にいる春馬まで続いている。
春馬は薬を飲んだあの日から、ずっと死に向かって歩いていたのだ。そして今立っているあの場所が境界だ。あそこから一歩でも進んだら、春馬は死ぬのだ。
「駄目だ春馬。死ぬな。頼むから、戻ってきてくれ」
「何故?」
春馬が静かな声音で問う。
「俺には、生きづらいばかりの世界だった。まともに呼吸も出来ないくらい、苦しかった。それでも希望を探そうとしたけれど、もう、駄目だった」
「春馬」
「俺がいなくなっても、あの世界は何も変わらない。皆すぐに元通りの生活に戻っていく。なつきだってそうだろ? きっとせいせいする」
「やめろ春馬!」
俺の声はひどく震えていて、みっともなかった。
春馬の目が、同情するように揺れた。
「気に病むことはないよ。誰のせいでもない。ただ、俺が上手く生きられなかっただけのことだ」
春馬の唇が、弧を描く。それは晴れ晴れとした笑顔だった。
「なつきは戻りなよ。あんたは、あの世界でも生きていける人間だ」
春馬は、もう生きることに興味が無いのだ。
だから病院で留められた自分の命の期限を、必死で縮めようとこの砂漠を歩いて来た。
たった、一人で。
それを理解した途端、俺の心も決まった。
目を閉じ、深呼吸をすると驚くほど落ち着いた声が出た。
「俺も行く」
その言葉の意味を、春馬は理解できなかったようだ。きょとんとして小首を傾げた。
「お前と一緒に行く。もう、一人で歩かせたくない」
先程までどうしても動かなかった足が、すんなりと前に出た。
ここでは死を覚悟した者のみが前へ進むことが出来るのだと、不思議と理解できた。
春馬が息を呑んだ。一歩ずつ前へ進む俺を、呆然と見つめている。
「なあ春馬。お前は信じないだろうけど、俺はお前が心配で。不器用で要領が悪くて人見知りで。だけど素直に心配することも出来なくて、酷い事ばかり言って傷つけて。そんな自分が正しいと思い込んで。本当に、馬鹿みたいだ」
足が自然と前へ進む。
春馬は微動だにせず、信じられないものを見るような目で俺をまっすぐ見つめている。
「お前が死にかけている姿を見たあの日から、後悔ばかりだ。これで今、お前を一人で逝かせてしまったら、俺は一生自分を許せない」
「だめだ、なつき」
先程まで冷静だったのが嘘のように、幼い声が震えている。
「春馬、俺は今度こそ、ちゃんとお前の兄になりたい。ゼンが、ケイの兄になりたいと望んだように。だってゼンは俺で、お前はケイなんだから」
「だめだ、なつき」
春馬の目から涙が零れた。
「なつきまで死んじゃだめだ。俺は、あんたを連れていきたい訳じゃない」
俺は足を止めた。あと四歩も歩けば、春馬に触れられる距離まで来た。
「お前が連れて行くんじゃない。俺が勝手に付いていくんだ。春馬がこのまま進むなら俺も行く。戻るなら一緒に。どちらでもいい。春馬が、決めればいい」
「ずるい、そんなの」
春馬が手の甲で乱暴に目を拭う。声を荒げて俺を睨み付けた。
優しい、優しい弟だ。俺を道連れにして、喜ぶような子じゃない。俺は、春馬の優しさを利用している。
「そうだな。俺はずるくて、お前は優しい。酷い事を言ってるのはわかってる。それでも」
俺がまた一歩進むと、春馬は身体を震わせる。頬を涙で濡らす春馬の目をしっかりと見つめ、意思を込めて、思いを伝えた。
「俺は、お前を一人にしない」
「なつき」
春馬はぼろぼろ泣きながら俺を呼ぶ。
「だめだ、なつき。それ以上進まないで」
「だったら、春馬。一緒に帰ろう」
春馬に手を差し伸べた。俺の頬も、涙で濡れていた。
「俺達の足跡が、帰り道だ。父さんも母さんも、俺達を待ってるよ」
「なつき」
春馬の足がふらりと進んだ。俺のいる方向に。
「なつき。おれ、ずっとあんたと、仲直りしたかったんだ」
泣きながらそう言うと、春馬は俺の手を取った。
* * *
集中治療室の自動ドアが開き、ストレッチャーが床を滑る音に、俺はびくりと身体を震わせて目を覚ました。
両親は既に立ち上がっていた。担当医師が、両親の前に立っている。その後ろでは、看護師達がストレッチャーを囲んでいた。
俺も、ゆっくりと立ち上がった。
「先生、春馬は」
母の震える声に、医師は笑顔で答えた。
「一命は取り止めました。深田さん、奇跡が起きましたよ」
「奇跡?」
父が母の肩を強く抱き寄せ、呆然とした声で繰り返す。医師は満面の笑みを浮かべた。
「春馬君の、意識が戻りました」
それを聞いた両親が、ストレッチャーに駆け寄る。そこには、呼吸器を付け、深い呼吸を繰り返す春馬が、ぼんやりと目を開けて天井を見つめていた。
「春馬、春馬!」
父と母が何度も春馬を呼ぶ。
春馬は、僅かに視線を両親の方へと動かすが、あまり事態が把握出来ていないようで、ほとんど反応はなかった。
俺も気だるい身体を必死で動かし、春馬の元へと向かった。すると両親が泣きながらも、場所を譲ってくれた。
春馬の目に、僅かに光が宿った。唇が動く。
看護師が察して、医師に目配せで許可を取り、呼吸器をずらしてくれた。
春馬が、囁くような声で、言った。
「もう、砂漠は、飽きた」
俺は思わず笑った。涙が頬を伝う。
「足跡が消えてなくて、よかったな」
俺の言葉に、春馬は僅かに微笑んだ。
春馬の目尻からも、一筋の涙が零れた。




