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* * *
その夜、不思議な夢を見た。
気が付くと、広い砂漠の真ん中にいた。
空から太陽が強い日差しを注いでおり、ひどく暑い。
思わず襟元を緩めようと手を動かし、初めて自分が見慣れない服装をしていることに気が付く。
通気性の良さそうな麻のシャツにズボン、足には獣の皮で作ったような柔らかいブーツを履いており、背中には何か長い物を斜めに背負っている。そしてそれを全て覆うように、フード付きのマントを羽織っていた。
そこで俺は、これは夢だと思い至る。
たまにそういうことがあるのだ。
最近は眠りが浅く、夢も見ないほどぐっすりと眠りたいというのが本音だが。
(それにしても、妙にリアルな夢だな)
そう考えながら頭からフードを外してみるが、途端に照りつける太陽の熱を感じ、すぐにもう一度フードを被った。
これからどうしようかと周りを見渡すと、遠くに緑の塊が見えた。あれが砂漠にあるというオアシスだろうか。
とりあえずそこに向かおうと数歩歩いた所で、突然何かを踏んだ。
足裏に感じた柔らかい感触に、思わず身を引いてそれを見て、ぎょっとした。
「し、死体?」
そこにはうつ伏せに倒れた人間がいた。体格からしてまだ子どもだろう。今の俺と同じ様な服装をし、背中には子どもを押しつぶすかのような大きなリュックが乗っていた。
(え、嘘。どうしよう)
狼狽えていると、突然死体がもぞりと動いたので、俺は驚いて後ずさった。
「うう…。死ぬ…」
小さな声でそう呟いた死体、否、死にかけの子どもは、どうやら渾身の力を使って仰向けになろうとしているらしい。
俺は恐る恐る近づき、その肩に手をかけて手伝ってやった。
リュックが邪魔で仰向けとはいかなかったが、ようやく横向きになった子どもの顔を見て、俺は自分の心臓が止まるかと思った。
砂まみれになったその子どもの顔は、幼い頃の春馬と同じ顔をしていた。
「ああ、死ぬかと思った!」
俺の腰に何故か付いていた水筒の水をものすごい勢いで飲み、死にかけていたとは思えないくらいの大きな声で、春馬と同じ顔をした子どもはそう言った。
そんな光景を、俺は呆然と見つめる。
目の前の子どもは、春馬が小学校に入学した頃と同じくらいに見えた。既に、兄弟仲は悪かった時期だ。
この夢は、春馬との関係を後悔している自分の願望が見せているのだろうか。
子どもは、屈託のない笑顔を自分に向けてくる。
「お兄ちゃん、ありがとう。オアシスまであと少しだったのに、途中でオオカミに追いかけられて、食料も水もなくしちゃって」
春馬よりもお喋りなようだ。
俺は答えた。
「そりゃあ災難だったな。ここいらは灰色オオカミの巣があるから、子どもがひとりで渡るなんざ無謀だ。お前見たところ、武器も持ってねえし」
そう言ってから、俺は思わず息を呑んだ。
今の台詞は何だ。そんなことを言うつもりもなかったし、灰色オオカミなんて知らない。だが、口が勝手に動くのだ。
止めようとしても、どうしても口も体も言うことを聞かなかった。
「大体お前みたいな子どもが、何でこんな所にいるんだ? 隊商からはぐれでもしたか」
「違うよ。おれ、家出して来たんだ」
「家出ぇ?」
自分の口から驚いたような声が出た。子どもは頷く。
「おれの家族は、おれが嫌いなんだよ。だから、おれを好きになってくれる家族を、自分で探すんだ」
その言葉に、俺は冷や水を浴びせられたような気持ちになった。
違う春馬。嫌いなんかじゃない。
だがやはり、出てくる言葉は自分のものではなかった。
「へえ。まあ事情は人それぞれだしな。だけど家族なんて、なってくれって言って本当になってくれる奴なんていねえだろ」
すると子どもは頬を膨らませる。
「そんなのわかんないよ。おれは絶対見つけるって決めてるんだ」
意志の強い眼で、俺を睨みつける。それが、自分と喧嘩をしているときの春馬と重なり、不覚にも涙が出そうになった。
だが、深田夏希としての言葉はどうしても話せない。
「悪かった悪かった。じゃあ詫びにオアシスまで連れてってやるよ」
その言葉に、子どもの顔が輝いた。
「本当?」
「ああ。俺は傭兵のゼンだ」
自分の口から、知らない名前が出てくる。しかも、傭兵?
子どもは笑顔で何度も頷いた。
「おれ、おれね、ケイっていうんだ。よろしくね、ゼン兄ちゃん」
* * *
気が付くとベッドの上だった。
見慣れた天井に、自分の部屋。
「何だ、今の夢」
妙にリアルな夢だった。細部までしっかりと思い出せる。
起き上がってカーテンを開けると、既に太陽は高い位置にあった。時計を見ると、もう十時だ。
その時、突然聞き慣れない着信音が鳴り響き、ベッドから落ちそうになった。
鳴っているのは、春馬の携帯電話だった。それはすぐに切れてしまったが、確認すると、メールのようだった。
そのメールは柏木裕太からの返信だった。
『今日の二時、橙公園の白鳥池の前でいい?』
どうやら会ってくれるようだ。すぐ返信する。
『大丈夫。よろしく』
そして妙な夢の残滓を振り払うように、立ち上がって着替え始めた。
その日は春馬の病院に行く日だったので、朝食を取らずにすぐ病院へ向かった。
春馬の様子は、全く変わらなかった。
昏々と眠り、機械から聞こえるピ、ピ、という電子音だけが春馬が生きている証だ。
俺はベッドの横にある椅子に座ると、春馬の寝顔を見つめる。
例えば今日の夢の春馬が本物なら、家族のいる家に連れて帰って、ちゃんと皆が春馬を愛していると教えてやりたい。愛しているから、そんな危険な旅をする必要はないのだと。
「春馬…。お前」
それを伝えたくて、思わず名前を呼んでいたが、結局言葉は続かなかった。
あれはただの夢だ。
「…どうかしてる」
ぽつりとそう呟き、溜息を付いた。
病院内にある喫茶店で昼食を取り、俺は柏木裕太との待ち合わせ場所へと向かった。そこは、病院からそれほど遠くない場所にあった。
柏木裕太は春馬が来ると思っている。俺はひとまず、白鳥池から離れたところで様子を見ることにした。
時計が午後一時五十分を指す頃、高校生くらいの少年が白鳥池の前にやってきた。
染めた様子の無い髪を短く整え、水色のTシャツに膝下までのジーンズ。足にはクロックスを履いている。彼は腕時計を確認し、誰かを探しているように辺りを見回している。
だが目当ての人物は見つからなかったようで、やがて彼は白鳥池の柵にもたれ、携帯電話を操作し始めた。
程なくして、俺が持っている春馬の携帯電話が鳴り始めた。今度はメールではなく電話の着信だ。柏木裕太と思われる少年を見ると、電話を耳に当てている。
間違いない。彼が柏木裕太だ。
俺は電話には出ず、春馬の携帯電話を持ったまま、彼に近付いていった。
柏木裕太は自分の方に向かってくる俺に気づき、電話を耳に当てたまま思わず後ずさった。目には警戒の色が浮かんでいる。
俺は鳴ったままの春馬の携帯電話を彼の目の前にかざし、そして通話ボタンを押した。
恐らくは柏木裕太の電話も、その瞬間に通話に変わったのだろう。彼は驚いたように瞠目した。
「柏木裕太君、だよな」
俺は電話を切り、直接彼にそう聞いた。
柏木裕太は電話をゆっくりと下ろし、しばらく迷ったように視線をさまよわせたが、やがて小さく頷いた。
俺は思わず溜息を付き、そして自分が何故かひどく緊張していたことに気が付いた。
相変わらず警戒した様子の柏木裕太に、俺は名乗った。
「深田春馬の兄の、夏希です。君を呼んだのは俺だ」
春馬の兄と聞いて、柏木裕太は驚いた様子だった。
「な、何でお兄さんが? 春馬、何かあったんですか?」
柏木裕太のその言葉には、心から春馬を案ずる響きがあり、俺は少なからず驚いた。何故なら、春馬が学校に行かなくなった原因は彼にあるのではと、そして漠然とだが、学校生活にはよくあるいじめのような事があったのではないかと考えていたからである。
俺は、あらかじめ決めていた台詞を裕太に言った。
「うん、実は、先月末に事故にあってね。今入院してる。心配はないよ」
それは、家族で決めた「春馬が入院した理由」だった。
あの日は家に救急車が来たので、当然近所の人間は何があったのかを探ろうとする。また、学校にも一応、春馬が休学する理由を明らかにしなければならない。校長と担任教師には、本当の理由を伝えていたが、対外的には「事故」として伝えることにしていた。
だが、担任から裕太たち生徒に「事故」と伝えることはしていなかったようだ。
「そうなんですか…。六月になってから休みがちだったから、完全に来なくなったのも本人の意志かと思ってました」
恐らく担任は、下手に事故などと説明するよりは「単なる欠席」として扱う方が不審に思われないと考えたのだろう。それは春馬と親しい人間がいないという条件が前提であれば、成功するだろう。春馬が長く休学することに関して、興味を持つ生徒がいないということだ。
俺は複雑な心境だったが、それを顔に出さないようにし、裕太を日陰にあるベンチへと促した。
七月も中旬になり、ますます日差しが強くなった。日陰にいれば幾分楽だ。
二人並んで腰掛けると、俺は早速会話を切り出した。
「騙すような形で呼び出して申し訳なかった。じつは柏木君に、聞きたいことがあって」
「何ですか」
「春馬が学校に行きたがらない理由」
裕太の顔が強張った。その表情から、俺は彼が何かを知っていると確信した。
「実は、春馬の携帯電話に登録されている名前ね、二人だけなんだよ。ひとりは近所に住む、春馬と親しい古本屋の店長さん。で、もうひとりは、柏木君」
裕太は驚いたようだった。それが登録人数の少なさになのか、自分の登録だけが残っていたことに対してなのかはわからなかった。
「今回も会ってくれたし、春馬とは仲が良かったのかと思って」
裕太はしばらく迷ったように俺から視線を逸らし、白鳥池を見つめていた。それは、何かを深く考えている表情だった。
俺も白鳥池に目をやった。裕太の気持ちが決まるのを、気長に待つ方がいいだろう。
白鳥池は太陽の光を受けて、きらきらと輝いていた。この池は、白鳥がいるから名前が付けられたというわけではない。昔から、ここはスワンボートが名物なのだ。十年以上前は、カップルの定番デートスポットだったが、現在ではスワンは雨風に長年晒されたため、茶色く錆び付いてガチョウのようになっている。
そんなスワンボートが、たまに立つ波にゆらゆらと揺れている様を何となく眺めていると、裕太が口を開いた。
「俺のアドレスだけ、残してたんだ…」
俺は裕太を見た。
裕太は相変わらず、白鳥池を見つめている。
「春馬とは、入学式で隣の席になって、それから仲良くなって。でも急に、六月に入った頃から、春馬が俺を避けるようになったんです」
「春馬が?」
俺は眉眼を寄せた。それは意外な展開だった。
裕太は頷き、俺をまっすぐ見た。その目の中に、嘘はないように見えた。
「俺と目が合うと、逃げるようにいなくなったり、話しかけても無視されたり…。その頃から他のクラスメートとも話さなくなって、あんまり学校にも来なくなって…」
裕太は俯き、ぽつりと呟いた。
「俺、何かしたのかな」
それはわずかに、傷ついているような響きを帯びていた。
「それから何度も、電話もメールもしたのに、一度も返事はなくて。七月に入ってから全然学校にも来なくなったから、俺が、何か悪いことして、俺のせいで、来なくなったんじゃないかって」
かすかに声が震え、裕太は気持ちを落ち着かせるように大きく息を吐いた。その様子にも、嘘をついているような様子は見受けられない。
「春馬の着信履歴も受信メールも、一つもなかった」
俺はそう言うと、春馬の携帯電話を取り出した。
「柏木君が何度も連絡をくれていたとしたら、やっぱり春馬が消したのかな。…柏木君に、思い当たることはないんだ?」
裕太は頷いた。そして、思い詰めたように言う。
「春馬が入院してるのってどこてすか? 俺、お見舞いに行ってもいいですか? どうしても会って話がしたいんです」
裕太がそう言ってくる可能性も、もちろん予測はしていた。
だから、俺は準備していた言葉を返す。
「ああ。悪いんだけど春馬は今、誰にも会いたくないって言ってる。実はこの携帯も、あいつが自分でゴミ箱に捨てたんだよ。で、俺が拾って君に連絡した。携帯捨てるなんて、さすがにおかしいと思ってね」
「携帯を、捨てた?」
裕太が信じられないというように声を上げる。
携帯電話が捨ててあったのは本当の事だ。だからこそ、信憑性がある。
「恥ずかしい話だけど、俺達は昔から仲が悪くて、春馬があんなことになるまで、あいつがどこで何してようが興味もなかった。今は、あいつを何とかしてやりたい。もう一度、学校に行けるように」
裕太は俺の話を真剣に聞いていた。真面目で実直な少年だ。一体春馬は、彼の何が気に入らなかったのだろう。
俺は鞄からメモを取り出し、自分の携帯電話の番号とメールアドレスを書いて裕太に渡した。
「何か気になることや、思い出したことがあったら連絡して。時間帯も気にしなくていい。出られない場合は折り返すから」
裕太はそのメモを、大事なものであるかのようにそうっと受け取った。
俺が立ち上がると裕太も立ち上がる。
そして俺が公園から出て行くのを、最後まで見つめていた。