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春と夏のあいだに  作者: 山下ひよ
3/10



「お前もいい加減大学に行きなさい」


 父がそう言ったのは、事件から四日経った夜だった。


「今後は父さんか母さんが昼間だけ面会に行くから、お前はちゃんと大学に行きなさい」


 母は何か言いたげに父を見つめていたが、結局は口を噤んだ。俺は小さくため息をつき、頷いた。



 前期の講義は全て終わっており、今は試験期間だ。

 だけど俺が取っている講義はほとんどがレポート提出で、試験は授業の最終日にする教授が多かったため、後はレポートを仕上げて提出するだけだ。

 だが、父にそれをいちいち説明するのも億劫だ。今や家族全員が余計な会話を避けるくらい疲れていた。

 それに、今の非日常から逃れたいという気持ちもあった。明日は大学の図書館でレポートを仕上げることになるだろう。




「夏希君!」


 大学の門を入ってすぐの中庭で、俺は聞き慣れた声に振り向いた。

 笑顔で走ってきたのはショートヘアーを茶色く染めた、同じ大学の同期で、俺の彼女だ。


「愛美」


 愛美は人懐こい笑顔で俺の横に並び、一気に喋り出す。


「もう、全然メールの返事くれないし、電話も出ないから心配したよ」

「うん、ごめん」


 愛美に、弟のことを言うつもりはなかった。愛美だけでなく他の誰にも知られたくないし口にしたくもなかった。

 俺は話題を変えたくて愛美に聞いた。


「もう愛美も試験ないだろ。今日はどうしたんだ」


 すると愛美が頬を膨らませた。


「ホントにメール見てないのね。今日は皆で夏休みの計画立てるから集まろうって、一昨日高橋君からメールあったでしょ」


 それを聞いて、俺は自分の携帯電話を取り出した。この四日間、一度も確認をしていなかった。

 メールは愛美からと、いつも連んでいる男友達の高橋や谷川、愛美の女友達の香奈からも届いていた。


「あー、ほんとだ。すげえ来てる」


 俺のその一言に、愛美は眉根を寄せた。


「夏希君、ホントに何してたの?」


 また話題がそっちに戻ってしまった。何と答えようか考えていると、中庭のベンチに座っていた高橋たちが俺達に気づき、手を振ってきた。

 愛美は俺の返答を待たずに俺の腕を掴み、「早く行こう」と引っ張りながら走り出す。


「夏希、久しぶりー。お前、何で電話出ないんだよ。メールも返してこないし」


 全員が俺に非難の視線を浴びせる。やはりこの話題になるようだ。初めて携帯電話というものが邪魔に思えた瞬間だった。


「ごめん、ちょっと体調崩してて」


 とりあえず、あまり突っ込まれないような理由を適当に言うと、全員の視線が気遣わしげなものに変わる。

 何となく良心の呵責を感じつつ、続ける。


「まだレポート出来てないから、今日は図書館にこもるわ。あと夏休みなんだけど、俺はパス」


 愛美がええっと声を上げる。

 彼女には申し訳ないが、どうしても今年の夏は、皆で騒ぐような気分ではなかった。


「何だよ。まだ体調悪いのか?」


 谷川が太い眉を顰めて聞いてくる。


「いや、体調はもう。親戚の家に行くことになって断れそうにない。悪いな」


 そういうことにして、俺は全員の視線から逃れるように図書館へと向かった。

 皆、ついては来なかった。




 その日は夕方まで図書館で、恐るべき集中力で五つのレポートを仕上げた。途中で愛美が近くまで来て、俺の様子を見ていることに気付いていたが、知らないふりをした。

 担当教授のポストにレポートを提出し、大学を出たのは午後五時過ぎだった。

 勉強に集中している間は、自分や家族に降りかかっている問題を忘れることが出来たので、ささやかな気晴らしにはなったが、愛美を含め、事情を知らない人間といつも通り話すというのは意外に苦痛だった。つい最近まで自分もあちら側にいたはずなのに、どんな風に話していたのか、今の俺にはうまく思い出せなかった。

 夏休みの間は、知り合いがいるような場所には絶対に行かないようにしようと、密かに決意した。



 家に帰ると、母は既に病院から帰ってきており、夕食の準備をしていた。俺にわずかに微笑みかけ、小さな声でお帰りと言い、野菜を切り始める。

 その後ろ姿はだった四日で随分やつれ、疲れ切っているように見えた。

 俺は黙って、皿を出したりテーブルを拭いたりして母を手伝う。


「父さんね、今日は遅くなるんですって。色々あって会社を休んだりして迷惑をかけたから」

「そう」


 それきりお互いに黙り込む。

 以前は会話がなくても特に感じなかった気まずさが、部屋の中に広がる。

 あの日以来、全てが変わってしまった。

 以前のようにはきっともう戻れないのだろうという確かな思いが、家族全員にあった。



 それから数日、夏休みになった俺は、母と一日交代で病院に行くようになった。

 病室には、呼吸器をつけ、点滴を繋がれた春馬がベッドに横たわっている。いつも直視できずに、目を逸らしてしまう。

 手早く着替えを補充し、使用済みの洗濯物をまとめて紙袋に突っ込んだ。


 すぐに帰ってもいいのだが、結局いつも数時間いることになる。春馬の姿を直視できないくせに、何となく離れがたいのだ。自分で窓際に移動させた椅子に腰を下ろし、しばし逡巡した後、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。

 これは俺のものではない。あの日ゴミ箱から拾い上げた、春馬の携帯電話だ。

 今回の自殺に関わる、重要な何かがあるのではないかと思って、両親にも渡さず隠し持っていた。だが、中を見るのは怖くて、ただ持っているだけだった。

 なぜ春馬は死のうとしたのか。

 父か、母か、俺か、それとも他の誰かが、春馬を追い詰めたのか。

 俺は覚悟を決めて、春馬の二つ折りの携帯電話を開き、操作する。

 着信履歴。発信履歴。電話帳。メール送受信ボックス。

 確認していく内に、その内容の異様さに気が付いた。

 電話の発着信履歴は、一切無かった。そしてメールボックスも空だ。はじめから無かったのか、あるいは春馬が故意に消したのか。

 そして、電話帳に登録されていたのはわずか二件。しかし、家族ではなかった。ここで俺自身、春馬の電話番号もメールアドレスも知らないという事実に、今更気が付いた。

 電話帳に登録されていたのは「渋谷さん」と「柏木裕太」という名前。どちらも、俺には聞き覚えのない名前だ。「柏木裕太」に登録されているのは携帯の電話番号とメールアドレスという、高校生らしい内容だ。そして「渋谷さん」は、固定電話の番号のみが登録されていた。

 あまりに不自然な携帯電話の内容に、俺は愕然とした。


「何だ、これ…」


 春馬が人見知りで、なかなか友人が出来ないことは知っている。だが、小学校の頃には友達を家に数人連れて来たこともあったし、中学でも時々夜に友達と電話で話していたのを見たことがある。

 高校生活は、うまくいっていなかったのだろうか。そもそも根が真面目な春馬が授業をサボったりするくらいだ。可能性はある。

 とりあえず俺は、この二人が何者かを調べることにした。




「柏木裕太」の正体は、すぐにわかった。

 春馬の高校の連絡網に、その名前があったのだ。つまり「柏木裕太」は、春馬のクラスメートということになる。

 そこで俺は、春馬の携帯電話から柏木裕太にメールをしてみた。内容は「会って話したい。都合のいい日を教えてほしい」というものだ。兄とは名乗らず、春馬のふりをして送信した。


「渋谷さん」の名前は連絡網にはなかった。

 固定電話ということや、今時の若者らしく正体のわからない相手に電話することに多少の抵抗もあり、ひとまず保留としていたが、この「渋谷さん」の正体も程なく明らかになった。

 柏木裕太にメールを送った正にその日に、春馬の携帯電話に「渋谷さん」から電話があったのだ。しばし逡巡したが、覚悟を決めて電話に出ると、年配の男の声が春馬の名前を呼んだ。


『ああ、もしもし、春馬君?』

「…春馬は電話に出られません。どちら様ですか?」


 名前はわかっていたが、あえてそう聞いた。すると、男はあっさりと答えた。


『おや、これは失礼。私は春馬君の友達で、渋谷といいます』


 友達?

 明らかに年配の男と、春馬が?


『あなたは、春馬君の友達ですかな?』


 逆にそう問われ、渋々答える。


「いえ、兄です。ご用件があれば、代わりにお伺いしますが」

『お兄さん? もしかして夏希君かな?』


 名前を言い当てられて驚いた。春馬から話を聞いていたのだろうか。それにしてもやけに親しげだ。

 渋谷さんはさらに続けた。


『覚えていないかな? 二丁目にある渋谷書店の店主だよ』


 そう言われてようやく、「渋谷さん」の正体に気が付いた。

 定年を迎えた老人が道楽でやっている、古書ばかりを取り扱う書店。

 小さい頃はよく春馬と遊びに行った。渋谷さんが出してくれるお菓子目当てに。

 だが俺は小学校に上がると同時に行かなくなり、またいつも「本屋のおじさん」と呼んでいたため、「渋谷さん」という名前と全く結びついていなかった。


「おじさん? お久しぶりです。何で春馬の電話番号知ってるんですか」

『春馬君はよく学校帰りに本の整理を手伝ってくれていてね。仲良しなんだよ』


 春馬と渋谷さんに未だに付き合いがあったとは知らず、俺は「はあ」と間の抜けた返事をした。


『ところで春馬君は、今忙しいのかな?』


 そう言われて、俺は先程「春馬は電話に出られない」と言ったことを思い出す。

 一瞬、何と言ってごまかそうかと考えたが、すぐに思い直した。

 渋谷さんなら、何かを知っているかもしれない。

 話を聞くには、こちらも歩み寄る必要があるだろう。


「実は春馬は今、入院してるんです」

『何だって? 病気かい? 大丈夫なのかい?』


 渋谷さんは驚いたようにそう言った。心から心配しているような声音だった。


「おじさん、あの。今から会えませんか?」




 渋谷書店は、自宅からそう遠くない場所にある。

 二丁目の商店街の一角、ほとんど人が通らないような細い路地に、ひっそりと建っていた。


 俺が店に入ると、店の奥の椅子に腰掛けていた渋谷老人は、すぐ立ち上がって笑顔で迎えてくれた。

 渋谷老人は俺に向かいの椅子に座るよう促すと、この暑い日にも関わらず、何故か熱いコーヒーを出してくれた。

 そして渋谷老人ももう一度腰掛けると、早速本題に入った。


「で、春馬君の容態は大丈夫なのかい?」


 俺は一度コーヒーカップを持ち上げたが、渋谷老人のその言葉に、思わずもう一度カップをテーブルに戻した。


「あの、実は、物凄く言いにくいんですが」

「うん?」


 渋谷老人は俺を急かすでもなく、穏やかに続きを待っている。

 俺は深呼吸をすると、腹をくくって正直に告げた。


「十日前、春馬が自殺未遂をしました。一命は取り留めましたが、意識は戻っていません。…今後意識が戻る可能性は、ほとんどないと言われました」


 渋谷老人が、大きく息を吸うのがわかった。テーブルの上で組まれている、皺の刻まれた手がわずかに震える。


「…嘘だろう。何てことだ。あんないい子が…」


 渋谷老人にとっては、衝撃の事実だったのだろう。電話で仲がいいと言っていただけに、春馬を孫のように思ってくれていたのかも知れない。

 俺は迷ったが、やはり自分が聞きたいと思っていたことを聞くことにした。


「あの、最近の春馬に、何か変わった様子はありませんでしたか? 俺は春馬とその、あまり仲が良くなくて…。どんなことでもいいんです。教えて頂けませんか」


 渋谷老人は、俯いていた視線を俺に戻した。その眼には、わずかに迷いが見て取れた。


「夏希君。君は春馬君がそんなことになって、どう思ってるんだい?」

「え」


 予想外の質問に、俺は思わず渋谷老人を凝視した。

 渋谷老人の表情からは、何を考えているか読み取れなかった。だが俺を責めるでもなく、また慰めるでもなく、ただ静かに俺の返事を待っていた。


 自分自身のことについては、考えないようにしていた。ただひたすらに、春馬の思いだけを知ろうとしていた。

 俺はきっと、春馬の自殺の原因が、自分ではないと確信して安心したいだけなのだ。本当は、自分のせいかもしれないと知っているくせに。

 渋谷老人は、きっと俺のごまかしを許しはしないだろう。昔から穏やかで優しかったが、甘やかすばかりの人ではなかった。


「後悔、しています」


 渋谷老人は、なにも言わない。

 ただじっと、続きを促すように静かに瞬きをする。


「もっと、話をしていたら。あいつを知ろうとしていれば。傷つけるようなことばかり言って、あんな会話が、最後になって。毎日、後悔ばかりで、…死にたくなる」

「人は親しい人を亡くしたとき、必ず後悔する」


 渋谷老人が、低い声でぽつりといった。


「もっと、してやれることはなかったのか。自分を責めて思いつめ、あの人は幸せだったのだろうかと考え続ける。答えなど、出ないのにねぇ」


 俺は不覚にも、泣きそうになった。

 渋谷老人の言うとおりだ。春馬を不幸のまま死なせてしまったのではないかと、俺は一生考え続けるのだろう。


「春馬君が最後にここへ来たのは先月末。六月三十日だ」


 俺は息を呑んだ。

 六月三十日。その日の真夜中、正確には七月に日付が変わって間もない頃に、春馬は自殺した。


「春馬は、何て」


 自分の声が震えているのがわかった。

 渋谷老人は、コーヒーを一口すすり、ゆっくりと話してくれた。


「春馬君は本が好きで、しょっちゅうここへ来ていたよ。高校生になってしばらくした頃、そう確か、先月初め辺りからかな。学校を休んでここに来るようになって。理由を聞いたら黙ってしまうんだ。あまり詮索すると、ここへも来られなくなるんじゃないかと思って、それ以上は聞かなかったがね」


 学校で何かあったのか。手の平がじわりと汗ばんでくるのを感じた。


「夏希君。春馬君が作家を目指していたことは知ってる?」

「作家?」


 初耳だった。夢があったことすら知らなかった。

 渋谷老人は俺の表情で察したのだろう。小さく頷くと続けた。


「春馬君は、学校を休みがちになってから、ある物語を書き始めた。それはもう、鬼気迫る様子で。そして六月三十日、あの子は物語が出来たから読んでほしいと、私にそれを預けて帰っていった。実は今日電話したのは、そのことなんだ」

「それが、何か?」

「読ませてもらって、とても感動してね。文章に拙いところはあるが、心に響く話だ。実は孫が出版社に勤めているんだが、見せてみたんだよ。そうしたら孫もその上司の方も気に入ったみたいで、ぜひ春馬君に一度会いたいという申し出があったんだよ。それで今日、春馬君に電話をしたんだ」

「それって、すごいことじゃないですか」


 つまり春馬の書いたものが、プロに認められたということだ。

 渋谷老人も頷いた。


「そう、すごいことだ。だけど本人に話を聞くことは、難しそうだね」

「…ええ」


 本当に残念だった。

 この話を聞くべきは俺じゃない。あいつだったのに。

 俺が大きくため息をつくのを渋谷老人はじっと見つめていたが、やがてこう言った。


「夏希君。春馬君がどんな話を書いたか、気にならないのかい?」


 そう言われ、思わず顔を上げて渋谷老人を見た。

 予想外の話に、そこまで頭が回っていなかったが、確かに言われてみれば非常に気になる。

 渋谷老人は微笑んだ。


「孫に預けているから、今は渡してあげられないけど、なるべく早く孫に持って来させよう」

「ありがとうございます。あの、どんな話なんですか?」


 渋谷老人は目を伏せた。


「とても孤独な少年と、同じように孤独な男の物語だ。後は読んでみるといい」



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