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「そう? 水浴びはちゃんとしたんだけど、服洗ってないもんな」

あんまりな言葉だったが、インユェはたいして傷つきもしない。

それには、彼女の生活環境が大きくかかわっている。

何もない、飲み水になる水も乏しいような、大きな川だの湖だのが近くにない里に生活していれば洗濯物は毎日はしないし、同じ服をぶっ通しで数日着ることも普通だ。

さらに言えば、服の材料は貴重である。山では気候の都合でなかなかたくさん育てることができず、もともとの絶対数が少ないのだ。

着回しができるほど、服など持っていないのが普通なのだ。

まして蟲狩として、年がら年中山にいる“牙”となったら、体中に蟲の体液を浴びても、目的の蟲を追い続けるために着替えなどしないで一週間など普通だ。

清潔かどうかと言われたら疑問だが。

人間の匂いよりも、腐りそうな蟲の体液の匂いの方が、山の蟲の警戒心を刺激しないのも、事実なのだ。

人間の匂いだの、香水の匂いだの、石鹸だのの匂いは、山にとっては異質な臭いだ。

蟲狩の中には、顔に蟲の体液を隈取のように塗り付けて、初めから人間の匂いを弱めて仮に出るやつだっていた。

そのため、インユェはこの前大蜈蚣を狩ったあと、ろくに洗いもしない異臭の漂う青紫と青緑の混ざり合った蟲の皮の、狩人衣装なのだ。

これを小汚い、といったとしても女性を責められない。

事実である。間違いなく事実なのだ。

山の常識と平地の常識、特に都の常識は相いれない部分がある、とようやくわかりつつあったインユェにとってみれば、小汚いという言葉は、都の常識の一種だろうと、勝手に受け取った。

つまり、都では洗濯をするのだ。そういえば、紫宮の中ではいつも、布を持った女たちが行きかっていたような気もする。

きっとあれが洗濯を役目とする女性たちだったんだろう。

後宮というものはいろいろと、知らないことが多くて大変だ。

覚えておこう。洗濯はいつもしている。

汚れた衣装はきれいにする。

山のように着続けない……。

勝手に理解し勝手に納得し、インユェは彼女を見つめる。

彼女は後宮という空間にいるだけあって、大変な美女だった。

だが若干化粧が厚く、塗りこめられたような白粉が今にも剥げてきそうだ。

惜しいな、などとは思いもしなかった。ここまで分厚い化粧など、インユェの里では誰一人しなかった。

知らないものを見て、惜しいなどと感想は抱けない。

ただ、インユェは彼女を見て、これが都の化粧か、と感心した。

薄紅に染める目元、くっきりと際立たされている眼のふち。まつ毛にも何か塗っているに違いなく、不自然に長い。

唇に差された紅も同じように似合わないほど色が濃く、血塗られたようだった。

実際に血を含めば、こんな色にはなりはしないのだが。

そう思っていると、彼女が嫌悪に顔をしかめた。

「汚いのは本当なのね、早く元いた場所に帰ってちょうだい」

犬でも追っ払うような態度だった。

それは彼女の身分からすると当然で、しかしインユェには何も伝わらない。

インユェは動かなかった。

自分はこの女性のために、後宮である紫宮から引き抜かれたのだ。

この女性から離れたら、仕事を放棄することになる。

温かいご飯と、優しい寝床を放棄することになる。

それ自体はしょうがないかもしれないが、その結果としてまた誰か、里からこの都に連れてこられてはたまらない。

だからインユェは動かなかった。

「追い出して」

言って彼女が、するりとしぐさをする。それには何か意味があったらしい。そのしぐさをされたとたんに、インユェを取り巻く女性たち。

彼女たちは動こうとしないインユェを引っ張っていこうとする。

歓迎はされていないな、といくら何でも分かった。

しょうがない。

汚いのが嫌いなのだろう、きっと不愉快なのだ。それはしょうがない。

たぶん彼女の常識の中ではありえないくらい、このインユェは汚いのだ。

汚いものをわざわざ、手元に置いたりしないだろう。

だが気に食わない。この“牙”インユェを、たった数人の女の力で排除しようなど。

インユェは動かなかった。ほんの少し、足を踏ん張っただけで、女性たちは重たい石像か何かと同じように、インユェを動かすことはかなわなくなる。

彼女たちが次第に色を失っていくのが、よく見えた。

インユェは細身で、数人で引っ張って行けそうに見えるのだろう。

だがその体は、表面には見えない強靭な筋肉を有しているのだ。

並みの女が群がったから、動かせるものではない。

しかしそんなことを、女官たちが分かるわけもない。

彼女たちが分かったのは、この得体のしれない女が、自分たちの力では排除できないという事実だけだった。

だが、彼女たちはそんなものを見たことがなかった。こんなに華奢で、細身で、しかし五人がかりでも動かすことができない相手など、一度も出会ったことがなかった。

彼女たちの動揺は手に取るように伝わってきた。インユェはそれを感じ取っていた。

「ば……化け物!!」

誰が言ったのか、女官の一人なのは間違いないのだが、誰か一人が布地が引き裂けるような声を上げた。

その声につられたように、女官たちがざ、と得体のしれない相手から離れた。

「化け物? それはちょっと違う」

それでもインユェはのんびりしたものだ。

言われたことのない響きであっても、どんなに恐怖を浴びせられても、インユェは揺るがない。

インユェには矜持がある。誇るべき名前がある。

化け物と中傷されようとも、欠片も傷つかないだけのものがある。

「おれは牙。北の山の蟲狩。化け物ってのはね。蟲よりもっと恐ろしくて、蟲よりもっと危ないものなんだよ。あ、そうしたらおれ、化け物?」

こてんと首を傾けて、前半は誇らしげに言いきり、後半インユェは問いかける。姫とあがめられているらしき女性も、化粧の奥の顔を蒼白にしている。

だが、それを耐えている。

それは仕えている女性たちの前での意地だったかもしれない。

「あんた、どう思う?」

そんなものはどうでもよかった。インユェは、問いかける。

「たぶんおれ、あんたの護衛なんだよ、スイフーっていうお兄さん知ってる? 赤毛の。きれいな赤い髪の。ちょっと怖そうな男前。その人がこの場所に連れてきてくれた」

それを聞いたとたんに、姫が顔を真っ赤に染めた。

「あなたのようなものが、あの方にふさわしいと思っているの! 分をわきまえなさい!」

この異様な空気の中、それだけ言えるのはたいしたものである。

なぜそうなってしまったのかは全く分からないが、インユェは感心した。

たしか宰相の娘とか言っただろうか。そのサイショウとかいうのの娘になると、これだけ気が強くなれるのだろうか。

それだったらすごいな、どんな教育してるのだろう。

サイショウとやらに興味がわいたのだが、さてはて彼女の言うことはよくわからない。

ふさわしい。

その言葉にはいろいろと意味がある。

それくらい知恵も学もないインユェだってわかる。

だが、どういう意味でふさわしいかを測っているのか。

戦闘能力だろうか。それならばこの自分は、誰にも引けを取らない。その自信がある。

しかし、彼女の言い方はそういう、インユェを認めて言うものではない。

「ふさわしいって、何をもって?」

それゆえにインユェは疑問を投げかけた。

どこを基準にして彼女が言っているのか、インユェにはまるで分らなかったのだ。

顔いっぱいに疑問を浮かべたインユェを見て、彼女が言葉を失った。

「蟲と戦うのだったら、どんな蟲相手だって負けやしないよ、このおれは。でもお姫様、そういうのじゃないみたいな言い方だ。ねえ、ふさわしいって、どういう役割としてなの?」

インユェは唇を尖らせ、幼子のように聞く。

「というかおれに与えられた役目って、何?」

「それは」

姫君がインユェをにらむ。

そこにあるのは、最近覚えたばかりの感情、嫉妬の色だ。

なぜ、恵まれているだろう彼女が、インユェ程度の身分の相手に嫉妬するのだ。

そんなことを思ったとたん、彼女が叫んだ。

「第一皇子様の妻としての役割よ! 桜花殿に来られるのは、第一皇子様の妻だけなのよ! それはわたくしよ! わたくし以外の誰が桜花殿の主になれると思っているの? 思い上がりも甚だしい! あなた、きっとからかわれたのよ、そうに違いないわ、そういう化生がいると聞いたことがありますもの」

喚く。それがまさにふさわしい調子で、彼女は叫んだ。

なんか思ったのとずいぶん違う答えが返ってきたな、などと思っていると、彼女はまくし立ててくる。

「化生ごときにたぶらかされて可哀想な田舎者! さっさと自分のいた場所にお戻りなさいな、今なら許して差し上げるわ」

「許すって何を。許されなくちゃいけないことはしてない」

「なっ……!!」

彼女が息絶える間際の蟲のように、口を開閉させた。

インユェはそれを眺めるだけだ。

「しらないよ、おれ。おれがいなくなって、スイフーのお兄さんが機嫌悪くしたって。しらねえよ。どうなったって。連れてきたのあの人なんだから。出て行けっていうなら、出て行ってやっていけるだけのお金くれよ」

眺めて言って、手を出す。かなり直接的だ。しかし開き直ったインユェほど、ずうずうしい奴も滅多にいない。

しかし、インユェはまだ知らなかった。

后妃たちは、お金を直接持っているわけではないことを。

仕えているものたちに渡すのは、布地や食料、そのた生活に必要なものだという事を。

「下賤の者のように、姫様がお金を持っていると思うのですか!」

インユェのしぐさにぶちきれたのは、侍女の一人だった。

インユェは、それに感心した。この主にしてこの侍女あり、というものはこういう事なのだな、と感心した。

「ふうん、あっそ。じゃ、さよなら」

インユェはそれだけを言った。三食寝る場所付きの環境を保障されたと思ったのだが、このよくわからない主に仕えるのは、たぶんとても、気に入らない。

気に入らない主に仕えるなんてごめんだ。たとえどれだけ技量を買われていたのだとしても。

そんなことを思いつつ、インユェは桜花殿を出た。

町に出よう。インユェはそこで、この前狩った蟲の内臓を、懐の袋に入れっぱなしだったことを思い出した。

適切な処理をしているから、薬屋でそれなりの値段で買ってくれるに違いない。

山を下りた場所の町ではそうだった。薬屋の看板は国で共通していて、辺境の街だろうが王都だろうが、同じ目印だ。

それを売って、路銀を稼ごう。そして、村に戻ろう。

ああ、それではまた、村の誰かがメシダサレルかもしれない。

さてどうしよう。

桜花殿を抜け、通路を適当に進み、そこでインユェは初めて、さてどうしよう、と考えることになった。

ぐるぐると考えていると、男たちが二人、近付いてきた。

男がいるという事は、朱宮からは出たのだろう。

まったく、道がわけわからなさ過ぎて困る。

インユェはここを出て行く道を聞くために、顔を上げ、彼らが物々しい雰囲気であることに、気付いた。

なんでそんなに物騒な気配を漂わせているのか。

「お前、どこの者だ?」

近付いてきた一人が言った。

「どこって、北の山」

「どこの暗殺者だ、いったいどこから入った?」

「アンサツシャ? なにそれ。おいしいのか? まずいのか? 食べ物だろ?」

インユェの発言を聞いたとたんに、男たちがひきつった。

それは、あまりにも常識が食い違っている相手との会話をしているときの顔そのもので、ここ数日でその顔も見慣れたインユェは、また自分が、非常識っぽい発言をしたことに気付いた。

今度はいったい何のためか。

アンサツシャか。この言葉に意味があるのか。どんな意味だ。

どうにも、都は理解できない言葉が多すぎる。

「……陛下や殿下を害する存在だ」

「そういうの、あっちにいっぱいいるだろ、なんであっちには行かないの?」

インユェは紫宮のある方角を指さした。

あそこが伏魔殿なのはいやというほど知っている。噂だけ。宮女たちの愚痴でだけ、知っている。

「それは」

「それにさ、あんたら、おれを捕まえられると思ってんの?」

「は?」

この疑問形の声で、インユェは、相手がまるでこちらの実力を測れないという事を知った。

里の人間が嘆くに違いない。蟲の実力を測り、的確な指示を出し、的確な攻撃をする。

蟲狩に求められている技能だ。

蟲狩を馬鹿にする兵士たちは、そういう能力も上位なのだと思っていたが、違うらしい。

インユェの力を、測れないのだから。

インユェは、一人に無造作に近づいた。

相手が逃げる隙も時間もない。

「ほらここで、おれが刃物を使っていたらどうなる? 死んでるぜ」

その姿を目で追いきれないもう一人に、近付く。

そこで我に返った一人目の男が、槍を振る。

兵士としては熟練のそれも、インユェには致命的に届かない。

躱すだけではなく――――――兵士の槍は仲間にぶつかって止まった。

着ている鎖帷子が、命を救う。その代りにか、鎖帷子は、じゃらりと金属が切れる音をたてた。

インユェはその時、もう、屋根に飛び上がっている。

「追いかけっこだ、あんたら、捕まえてみろよ!」

インユェはここで、自分が相当鬱屈をためていたことを自覚した。

後宮生活は、常に空腹で、話す相手は恨み言や文句ばかり、こちらの話を聞きもしない。

鬱屈がたまって当然の環境なのだ。

それに比べて、追い出された身の上の、なんて身軽なことか。

インユェの言葉につられて、人が集まってくる。文官、武官、様々な人種。

彼らの目に、光り輝く金の髪をした、蛮族衣装のインユェは、どう映ったか。

蛮族の姫君にも見えただろう。事実、それを口にした誰かがいた。

異国の女神の名前を唱えた誰かもいた。

そんなものどうでもよく、インユェは高らかに言う。

「捕まえられたら、そいつの物になってやってもいいぜ!」

ば、と駆け出す。屋根から屋根へ、なんていうこともないように。

どよめきが広がる、曲者だ、と大声が広がる。

捕まえろ、という声。

逃がすな、という怒号。

それらがあんまりにも愉快で、インユェは高らかに笑った。




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