5-16
それは、ただ圧倒的な力。
それは、ただ暴力的なまでの力。
それのまえには、いかような蟲狩も太刀打ちができなかった。
彼らは呆然と、目の前の相手を見ていた。
そこには、彼らの大切な牙がいたはずだというのに。
その牙は、もはや牙ではなくなっていた。
かちかちと歯を鳴らし、四足で立つ獣……蟲の複眼。
蟲だ、と彼らの本能が告げていた。あれは蟲だ。
それもひときわ恐ろしい蟲だ。
知らず知らずにつばを飲み込み、蟲狩たちは視線を交し合う。
彼らはまだ負けていなかった。
それはひとえに、相手が本気を出していないからだ。
本気を出されれば殺される。
蟲狩たちはそれが分かっていた。
そして相手の脅威もわかっていた。この相手を、なめてかかってはいけない。
しかし、それでも。
「どうしてお頭が」
「どうして御大将が」
彼らは動揺していた。当然だった。たった一人の彼らの頂点が、蟲というほかない姿になっているのは、彼らの理解を超えていた。
彼らは必死に陣形をとり、本能と経験の導くまま、蟲を相手にするように相手にしていたのだが。
強すぎる。それが彼らの共通した認識だった。強すぎる。こんなにも強い相手は、蟲ではいない。
それでも、彼らは何とかして、この蟲を仕留めようとしていた。
だが。
彼らはもうぼろぼろで、実を言えば退却してもおかしくない状態だった。
山のようにいた蟲たちは、彼らの体力をこそげ採っていったのだ。
「爪、撤退を」
「これを野放しにするのか」
イーディンが必死に息を整えながらも言う。
「これを野放しにしたら、おそらく大変な事が起きるぞ」
「でもお頭だよ! 駄目だよ、倒せないよ!」
蟲狩たちの言葉は当然で、イーディンも同じ事を思っていた。
あれは姉なのだ。優しく強く、そして非常識な姉なのだ。
大事な姉なのだ。
殺したくないのは、倒したくないのはイーディンとて同じなのだ。
それでも、分かるものがあったのだ。あれを野放しにしてはいけない。
「陣形、舞踏で行くぞ!」
イーディンは吼える。これで最後だ。それがどこかでわかっていた。舞踏の陣が破られれば、自分たちに勝ち目はどこにもないのだと。
それでも、それでも。
「俺たちは、北の山の蟲狩だ!!」
イーディンはその誇りのために、吼えた。
陣形がとられる。誰もが迷いながらも、しかしどうしようもない運命として、彼女を仕留めにかかったのだ。
彼女が、それを見て長く咆哮を上げた。
とびかかる蟲狩たちは、彼女の細い腕の一撃で骨をひしゃげさせた。
石の刃物で仕留めにかかった蟲狩たちは、彼女の足の一撃で、その得物を破壊された。そして続いての肘や膝で、なす術もなく倒された。
彼女は強すぎた。
「……さすが、我らの御大将だ」
イーディンは呟く。彼も足の骨を砕かれて、立つ事もうまくできない中、何とか立っていた。
「強さは最強。折り紙付き。……ほんと、化け物じみてる」
そんな事を言った時、人の姿の蟲が長く吠えた。それは苦痛の叫びだった。
苦しい苦しいと訴えかけてくるような咆哮で、彼女は地面に倒れのたうち回った。
それは、不意にやってきた自分の力が、彼女の体を痛めつけているかのような咆哮だった。
乾いているのだ。インユェはそれしかわからない。
渇いているのだ。干からびそうなのだ。
その渇きを満たすものは、本能的にわかっている。
それは人間の血液だ。
しかし、それを飲みたくないと最後の理性が叫んでいるのだ。
呑みたくない、飲みたくない。
呑みたい、飲みたい。
相反する二つの感覚が、彼女の体を襲い、のたうち回らせるのだ。
彼女は苦しかった。
渇いて渇いてしょうがない。
だれかだれか。
殺してくれ、このまま仲間の血をすするものになりたくない。
唇を噛みしめれば、唇は切れて血を流す。よく知った自分の体液の味がした。
彼女は地面をのたうち回り、地面に爪を立ててがりがりとひっかき、吼えた。
人間の言葉が出てこない。出てくるのならば、逃げろと仲間に言いたかった。
おれはおかしくなっている、逃げてくれ。
しかしそんな理性も徐々に壊れていくようで、彼女はそれでのたうち回る。
それは戦いだった。たった一人でしかできない戦いで、理性が徐々に疲れてくる。
これが俺の定めなのかもしれない、と漠然と思ってしまう。
そんなわけがないと思いながらも。
彼女はついに地面に転がり、体を丸め、荒い息を繰り返す。
そんな彼女に、蟲狩たちは攻撃を仕掛けない。
そんな状態ですら、もうないのだ。
それほど、蟲狩たちはダメージを受けていたのだ。
その時だった。
「渇いているのか、俺のインユェ」
こんな状況下でひどく優しい声が、彼女の上に降り注いできた。
ちらと見れば腕が伸ばされた。そして、彼女をためらいもしないで抱き上げた。
「そうか、それならば俺にしろ」
それはひどく優しすぎて、動揺してしまう。
「俺はなかなかに頑丈だ。血をすすりたいなら俺にしろ、俺はその程度では死ねないからな」
血をすする時に、噛みつき方が強くて殺してしまうかもしれない。
そんな恐れを感じ取ったのか、抱きしめてくれる相手が笑う。
「お前に殺されるならばいっそ本望だ。どうせ首をくれてやるのだからな」
酷いお方だ。インユェはゆっくりと目を開けた。
ごうごうと赤い瞳が、彼女の瞳をまっすぐに見つめ、そして溶けるような微笑みを浮かべた。
「やっと目を開けたな、俺のインユェ」
彼女の中で、遠い記憶がはぜた。
先代の牙が言った。
「殺せない唯一は、きっとインユェの決定的な物になるよ」
「どうしてですか、我らの牙」
「牙がどうしても殺せない相手は、魂を縛ってしまうのさ。どんな状況下でも、その相手を見てしまったら、牙の血に飢えた本質が抑えられる」
「牙に血に飢えた本質なんてものがあるのですか」
「あるともさ。だから牙は誰よりも蟲を狩る事にこだわるんだよ」
そういって先代は笑った。
「インユェ、君の未来が見えると言ったら信じるかい」
「お話によります」
「それじゃあ、予言をしようか。君は殺せない相手に出会い、殺せない相手にすべてを奪われてしまうよ」
それはこういう意味なのか。インユェの中に流れていた、蟲としての何かが、静かに小さくなっていく。
人間の体液を欲する感覚が、失われていく。
暴力的で、酷いものだったそれらが、静かに静かに落ち着いてくる。
確かに自分の中にあるのにひどく、穏やかで。
ああ、先代の言っていた言葉は正しかった。
「あなたは俺のすべてを奪うんですね」
インユェのもつれた舌が、一番初めに言ったのはそういう言葉だった。
「今更だろう、愛しいインユェ」
彼が笑う。インユェは彼の肩に頭をのせて、目を閉じた。
月は唖然とするほど青く丸く、この惨劇を白々と照らしていた。