5-15
「なぜ、その人蟲と、インユェを会わせてはならないのだ?」
馬蟲を走らせながら、背後の彼が問いかけるため、フーシャは口をつぐんだ。
迷ったのだ。それを言ってもいい物かどうか。
これは村の秘事に関する事である。部外者の男にこの事実を、そして真実を語っていいものなのかどうか。
彼女の回転の速い頭でも、迷うものだった。
それほどに、この問題は重要で、とんでもないし、下手をしたら頭がおかしい人間扱いされる案件なのだ。
「……」
黙った自分に、ヤンホゥがさらに問いかけてくる。
「語れない理由か?」
彼はどこか気遣うようだった。それはおそらく、彼自身も皇族という立ち位置から、言えない事を山と知っているせいだろう。
言えないならば、言えないと言えばいいのだ。
しかし。
この人はインユェの、牙の選んだ牙の殺せない唯一無二だ。
知っていた方がいい、と頭が廻った。
「……いえ、私はそれを村以外で語る許可を、長老様たちからいただいております」
ただし、語る時は慎重に、相手を間違えてはいけないと言われていた。
これは村の存亡にかかわる真実。そして秘された悲しい歴史。
この人ならば。
もしかしたら……
そんな希望が胸に差した。この人ならば、あるいは……
「ではなんだ」
彼女の答えに、彼が当たり前のことを問いかけてくる。
フーシャは息を一つ吐き出した。いうほかはない。しょうがない。
それがどういうものであろうとも、言わなければ。
「惹かれあう定めなのです」
「は?」
「出会ってはいけない二人。運命のつがい。人蟲と牙は、男女であった場合、何を捨ててでも心を惹かれあってしまう定めなのです」
ヤンホゥにはわからないだろう、とフーシャは思う。
これは、村ですら理解しがたい事実なのだ。
実際にフーシャはそれを訊いて、爆笑しそうになった。さすがにそれはない、ありえない、と思ったのだ。
蟲は狩るもの。蟲は食らうもの。
それと心惹かれあうなんて!
狼と子羊が惹かれあう方がまだ、お伽噺になりえるではないか。
そういって笑った自分に、長老たちは言った。信じられないだろうが、それが事実だと。
そして語った。牙の秘密を。
「牙は、別の呼び名を、蟲の恋人というのです」
「は……?」
ほら、理解できない。村に暮らした自分だって理解できなかったから、フーシャはそれを笑おうとは思わない。その事実が分からない理由は十分にわかる。
「牙のみが、その身体の力を人並み外れたものにする。それは、牙を冠したその時点で、蟲と同じものになり始めるからなのです。そして……蟲の肉ばかり食らうようになる」
そうなればどうなるか。
フーシャは淡々と語る。
「蟲の血肉が体にまじりあい、姿は人のまま、心ばかりが徐々に蟲になり果てる。身体能力も、蟲に限りなく近く。そして終には、人の姿の蟲になる」
里が隠し続けた事実。隠さなければならなかった事実。
「それの終局が、人蟲」
フーシャは淡々という。淡々と言わなければ泣きそうで、苦しくて。
「牙は、人蟲にあうと、どうしようもなく心が惹かれてしまうのです、だって同族なのだもの。世界にきっと、二人しかいない同族」
「なぜだ? 牙は何人もいたのだろう?」
「ええ、それらは全て、牙以外が殺してきたから」
これもまた、村の秘密だ。それを行った生き残りたちが、口をつぐみ、隠し通してきた惨い事。
「は……」
「山神様のもとに還ると、里では言いました。その実は、真実を知る年かさの爪たちが、その時が来てしまった牙を殺すから。人蟲になりかけている、人の心すら失ってしまった頂点を、殺すから」
「できるのか」
「できますわ。人蟲は蟲に近いのだから。人として頂点であった牙であって。人蟲になれば蟲としての弱点が出てくるので」
そこまで言って、フーシャは息を吐きだした。
「私たちは知らなかった」
「え?」
「私も、インユェも、それを知らなかったから、あの子を後宮に召し出した。……それでも、大丈夫なはずだったのです。蟲に近付かなければ、蟲の肉を食らう状態にならなければ。血の中の蟲は薄まり。人蟲として覚醒ができなくなるはずだったから」
それなのに。
「あの子は蟲ばかりを今でも食べている。どうしてそんな事が言えるのかってお思いですか? そんなの体に染みついた匂いでわかりますもの。里の人間は鼻がとてもいいのですよ。……あの子はいま、限りなく人蟲に近い」
馬蟲を走らせて、フーシャは言葉をつづける。
「その状態で、つがいの雄の人蟲に出会ってしまえば。もう、どうしようもなく本能で惹かれてしまう。人蟲もまた同じ。二人は結ばれてしまうでしょう。そうなれば、人の姿の蟲が生まれてしまう。里はそれを恐れた。……私は、あの子を人の範疇にとどめておくために、里から下りてきたのです。まだ間に合うはずだったから」
フーシャは自嘲した。
「そんな計算、狂ってしまいましたけれどね」
本当は泣きじゃくりたくて、それでも泣けずに、フーシャは前をまっすぐに見つめていた。
ああ、同族だとどこかで思った。
ああ、この相手は自分のためだけにいる。自分と同じものだと、何処かが訴えかけてきた。インユェはふらふらと弟から下りて、相手に向き直った。
どうしたらいいのだろう、この浮足立つ心は。ふわふわと揺れる思いは。
どうすればいいのだろう。
インユェの本能は、相手を惹かれあうべきだと訴えかけてくる。
そのくせ、同じ本能が、こいつは敵だと訴えかけてくる。
構える小刀。相手はダーヤと同じ顔をして、ダーヤ以上の愛しげな表情で、インユェに求愛の鳴き声を発している。
「おんなじなのかもな」
インユェは弟に聞こえない声で呟いた。この男と自分は同じもの。
まだ自分が、足を踏み外していないだけ。
それが分かってしまうだけ、彼女はまだ人間の理性を持っていた。
それでもどうしたらいいのか、と思うほど、心が傾けられていく。
しかしインユェは、もう一つの本能である、敵の認識のために彼に近付かない。
「姉さん、下がれ!」
イーディンが怒鳴る。得体のしれない相手だ。警戒するに足りる。一人で無茶をしてはいけない。
今の自分は。傷だらけの自分は。
わかっている、わかっているんだけれど……と人間の理性ががたがた揺れる。
「姉さん! あんたは怪我人だ、下がってくれ!」
イーディンが怒鳴って前に出ようとした。
インユェはそれを片手で制する。
彼女の視線の、いつもと大きく違う何かに、弟が表情をこわばらせた。
口を開閉させて、声を失ってしまう。
そうだ、それでいい。
黙っていてほしい、二人だけの時間を、邪魔しないでほしい。
相手はインユェを見ていて、インユェも相手を見つめていた。
殺せるだろうかというのは愚問で、殺せないわけがない。
殺せないのは一人きり。
視界の奥でくれない色が揺らめく。
「……待っていたよ」
そうだというのに、インユェの喉から、自然と出てきたのはそんな言葉の連なりだった。
「待っていたよ」
もしかしたら、ずっとずっと昔から。
牙の名前を持った瞬間から、自分は彼を待っていたのかもしれないと、インユェはどこかで思った。
甘美な考えで、まるで運命の物語。
「おれは、あんたを、ずっとずっと前から。待ってた気がするよ」
たぶん、この人でも蟲でもない相手を倒せるのは自分だけだと、インユェはどこかで看破していた。
他の誰も倒せない相手。
他の誰も倒せない自分。
なんて似ているんだろう。まるで鏡の表と裏だ。
運命の相手以外に、一体何といえばいいのか。
「さあ、踊ろうよ、おれの運命」
インユェはその声が、牙の声ではなくなっている事実に気付けない。
「姉さん……?」
「お頭……?」
その音の連なりを聞いた二人の蟲狩が、信じ難い調子で呟くのすら、聞こえない。
この世界にこの相手と自分の二人きりという、そんな感覚しかもう、残っていないのだ。
里で蟲狩の求愛の台詞は決まっていて、いつも同じ。
「さあ、踊ろうよ、おれの運命」
「この血と狂乱の幕間劇を、おれといっしょに」
どこまでも血なまぐさい言葉を、インユェは初めて唱えた。
その言葉を聞き、彼がにいっと笑った。
インユェは愛用の鞭を捨て去る。人間の使う武器は、たとえようもなく邪魔だった。
こんなものいらない。
「姉さん!! 何をしているんだ! 鞭を捨てるな!」
イーディンの叫び声が響く。
インユェは、小刀すらも捨て去った。
こんな動きを束縛する物なんていらない。
「姉さん!!」
「下がっていろ、爪ども」
いつの間にやら集まってきていた部下たちに、インユェは命じた。
「これは、おれだけの盤上だ」
そして一息吸い込み、言う。
「邪魔以外の何物でもない」
この存在を譲る気など、毛頭ない。
相手はことのほか嬉しそうに、人の言葉ではない言葉で愛を囁く。
その言葉が、痛いほどわかる。
『いとしいつがい、俺の運命、さあともに踊ろう』
『かなしいつがい、当たり前のことを』
インユェはその声に同じ調子で返し、ゆっくりと足に力を入れ……踏み出した。
最後の舞台が始まった。
蟲狩たちは、誰も介入できなかった。
できるわけがなかった。
それは、他の蟲狩が介入できる物ではなかった。
入った瞬間に死ぬ、そんな舞台だった。
そのため、部下たちは言葉も出ないで、頂点と人でも蟲でもない相手の踊りを見守っていた。
インユェは相手と、言葉ではない言葉で会話を続けていた。
『いとしいつがい、俺とともにここから去ろう。そして俺の子供を産んでおくれ』
『かなしいつがい、それはできない。その魅力的なことばを、おれは受けられない』
拳がぶつかり、脚が相手に叩き込まれ、必殺の牙すら二人は使う。
「お頭の爪……蟲の爪になってる……?」
誰かが呟く。インユェはちらりと自分の爪を見た。
確かに、黒く鋭く、人間の皮膚なら一撃で切り裂けそうな爪が生えている。
それも、相手にはかすり傷にしかならない。
この舞台は、腕の片方が使えなくなり、毒に侵されているインユェの方が圧倒的に不利で。
それでも互角、それでも拮抗する戦い。
相手が長く啼いた。
インユェも同じ音で返した。
だんだんと、人間としての思考が消えていく自分に、インユェは気が付いていた。
おれはもしかしたら、このまま人間じゃなくなるのかもしれない。
彼は迎えに来たのかもしれない、同族を、つがいを。
その手をとって、ともにどこかに消え去るのは素晴らしい誘いかもしれない。
だが。
まだ、保ってくれ。
おれは、あの人にさようならも言わないでいなくなりたくないのだ、もう。
その思いが、彼女のぎりぎりの理性を保たせていた。
手と手が組み合う。力のぶつかり合い。額すら押し当てて、お互いに力を振り絞る。
地面がえぐれる。相手が囁く。
『いとしいつがい、どうしてもか』
『かなしいつがい、どうしてもだめだ』
インユェの悲しげな声に、相手が笑った。
『それでは、いとしいつがい。俺を殺せ』
『わかってるさ、かなしいつがい』
インユェは最大限の力を出した。
相手が笑った。
その一瞬。
インユェは、その相手の首を、噛み千切った。
その血肉をほんの僅かばかり飲み込んでしまった瞬間、もう何もわからなくなってしまった。