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5-8

「また来る」

ヤンホゥはそう言った。インユェは彼がいつになく柔らかく笑うので、それに少し見とれた。

ああ、この人は自分の心をさらっていく。

それが嫌だとは思わない。

「ええ、待っています」

待つのは苦手ではなかった。むしろは待つのは好きだった。

狩人として生きてきた頃から、待つ事は好きだった。息を殺して、獲物が来るのを待ちわびて、人としての呼吸の仕方をやめ、自然の物になる。

そう言う時、心は踊った。従える事になっていた部下たちは、いつも言った。

「あなたはまるで、蟲になり切ったかのように待つ。その待ち方は真似ができない」

それでいいのだ。

誰もが自分になれと思うわけではないのだから。

人にはやり方が色々ある。

仮に、待つのが女の仕事だというのが都だの陪都だので一般的だというのならば、北の山の常識は通用しない。

狩人は待つのが得意でなければいけないのだから。

これは狩人としての素質でしかなく、そしてインユェは待つのが得意だ。

「待っています。ヤンホゥ様」

それをいじらしいと思ったのか、彼が少し口を開く。それに笑いかけた。

「狩人は、待てるやつが一人前なんですよ!」

その言葉を聞いた彼が吹き出す。そして彼女の頭を撫でる。

「お前らしい言葉だ、お前がいなくなってからこっち、そのしょうもなく明るい言葉が聞きたかった」

その乱暴な手付きは好きだった。インユェははにかみ、門の前まで彼を見送った。

彼は仕事が色々あるだろう。たとえ本拠地を離れたとしても、彼に仕事は付きものだ。

「フーシャはどうしているだろう」

封じていた心が解放されて、ヤンホゥが自分を要らないと思っていなかったと知り、最初に思ったのはそれだった。

きれいなフーシャ、おれの相棒。

きっと彼女は、自分がいなくなった事を怒っただろう。相方が突然いなくなったらそれは裏切りだ。

彼女は裏切られたと思ったに違いない。

「ああ、怒るくらいならいいけど、泣かれるのは嫌だな……」

フーシャは滅多な事では泣かない。あの時だって泣く演技をしただけ。

だってフーシャが本気で泣いてしまったら、自分は心配で心配で、あの村から離れる事は出来なかっただろう。

フーシャが泣かないでいてくれたから、この自分はこの世界に来る事ができたのだ。

それでも気になった。フーシャの涙腺はおかしな具合をしていて、そこで泣くのかと思うときに泣くのだ。それも盛大に。

彼女の泣き顔はいつでもインユェの弱点で、いつでも諸手を挙げて降参してしまいたくなる。

ざああ、と風が吹いた。その風の香りを嗅いで、インユェはこの満月園の状態を確認する。

花の分布など、手に取るようにわかった。

年々五感が人から離れて行ってしまっている自分にとって、この程度の広さの庭園の分布程度が、分からないわけがない。

盛りの花を計算する。それから、必要な設備を考える。機材を考える。

「ダーワン様がここで宴を披露するまで、あと数日」

四阿などは見られるものになるだろう。都の働き者たちは優秀だ。

インユェの仕事は、この庭園が見られるようにする事だけ。

宴の時は引っ込んでいていいだろう。一仕事を終えた開放感はきっと素晴らしく、ダーヤたちのもとに転がりこみ、酒盛りをするのもきっと楽しい。

酒はあまり飲めないが。いかんせん自分があんなにも酒に弱いとは思っていなかった。

一回、男たちが当たり前のように飲み乾す量を飲んで、前後不覚になり、泣き上戸になった事がある彼女は、くすくすと笑った。

それを衛兵たちはつかの間の間見ていた。

さっきまで、そう、陪都公が来るまで、あの花守り人は男に見えていた。それも宦官もならない幼い少年に見えていた。

だが今は決定的に違う。

驚くほど、娘に見えた。年若い乙女に見えた。それも、天女か女神、花の化身のように美しい。

誰もが目の錯覚だろうかと疑い、しかし現実に彼女は女にしか見えない。

短い髪も、泥に汚れた肌も、緑に染まった指も、よれよれの衣装も、彼女を損なう欠点にならなかった。

働き者の好ましさが、そこにはあった。

衛兵たちはらしくなく顔が熱くなった。

たとえ彼女がひょいと芋虫をつかみ、当たり前の顔で口に放り込んでも、見慣れているせいか幻滅したりはしなかった。

ただ、彼女はどこか貧しすぎる田舎の出身だったのだろうと思うだけだった。

また風が吹いた。

彼女は純金の頭髪を風にあそばせ、こちらを見た。

黄金の瞳は、今まで見ていた瞳とは全然違う物だった。





ああ、こりゃ暗示が完璧に解けちまったな。

ダーヤは彼女の纏う空気を感じて、そう思った。

様子をこっそり見に来たのだ。なにせ彼のかわいい下っ端は、時折思ってもみなかった事をする。しょうもない碌でもない事で、その筆頭が、蟲を手当たり次第に味見するという悪癖だった。

アレを治させるまでにも時間がかかった。いかんせん下っ端の暮らしてきた環境を知れば当然で、あの悪癖は生きるために必須の条件だったはずなのだ。

とにかく、近衛兵の集まりで、酒の肴だと言いながら焼いた甲虫の幼虫を出された時は、被害者が続出した。以来彼女に何か作れという男はいない。

ただ一人、ダーヤだけがそれを食べた。ぷちっとした皮と身の感触はよく知ったもので、香ばしい木の実のような甘味も、香りも、つかの間の故郷を思いださせる味だった。

都に来てから、一度も食べた事の無い物だったのは間違いない。

都にはもっと手軽で、うまいものがたくさんあるのだから。

それはさておき。

ダーヤは、彼女の今までのふわふわとした、夢の中をさまようような歩き方から一変した歩き方を見ていた。

勇ましいというのは語弊があるだろう。そんな言葉で表現できるものではない。

それは数多の幾多の、死地に赴いた歴戦の英傑のみが持ちえる歩き方だった。

位が上の人間たちへの気づかいも忘れていないというのに、彼女はこれまでと決定的に違っていた。

瞳が違う。

炯々と、爛々と輝く黄金の瞳。催眠術をかけ暗示をかけ、幾重にも彼女の心を封じていたダーヤですら感心する力強さだった。それは命の色だった。

そうか、あの下っ端は、あんな目をしていたのか。

ダーヤはそれを見ていた。出会ってからずっと、下っ端は、弱り切っていた。心がぽっきりと折れていたから、彼女を思ってかけ続けた暗示だった。

だが、それはもういらないらしい。

ダーヤにはそれが分かった。すぐにわかった。あの目はもう、守られる事がなくても大丈夫だ。

何がそれを可能にしたのか、実に興味深いのだが事実、彼女は立ち直っていた。

「あれが、当代最強、歴代最恐の牙、牙銀月か」

彼はそう呟いた。あの村の情報は常に集めていた。それゆえダーヤはその名前を知っている。

歴代の誰よりも性質の悪い牙を。……強靭な牙を。

心の折れたルォヤはそうは見えなかったが、今はどう見ても牙でしかない。

彼女がそう思っていなかったとしても。

「……そっか」

彼は寂しげに呟いた。それはあきらめるための言葉というよりも、これからの苦労を思っての事だったかもしれない。

しかしまずは。

「下っ端! 今日はどうだった?」

いつも通り上司の顔をして、その形のいい頭をどつく事から始まった。



皇妃は報告を聞いて唖然としていた。それほどその報告は信じがたいものだった。

それをしている彼女の手の者も、青ざめた顔をしている。皇妃はどんな状況でも手の者を打ったりはしない。暴力にはならない。

それを知っていても、手の者は自分の報告に真っ青になっている。皇妃の反応を見たせいだ。

「陪都公が、あの花守り人を抱いていた……?」

皇妃にとって信じがたい事だった。信じがたすぎる事だった。

何故ならば。

あの若君は、わたくしの腕を振り払ったというのに。

そこだ。

彼女は非常に若い皇妃だ。家の権力の結果、長らく空位になっていた皇妃の座を手に入れた幸運な美女であり、その美貌は近隣諸国にまで広がっている事実だった。

彼女は最初皇帝のところに嫁ぎ満足していたのだが……陪都公を一目見て、心が変わった。

男らしく美々しい皇帝の、若い頃に瓜二つ、それ以上見た目の陪都公が欲しくなったのだ。

後宮という空間ではよくある話で、大概思うだけで終わる物でもある。

だが、皇妃はそれでは収まらなかった。

今の皇帝を廃して、陪都公を皇帝にする。そうすれば、自分は後宮の后として下げ渡される。皇后ともなれば確実に、陪都公の一番の女性になれる……

そんな野望も抱いていた。

もちろん、正統な王位継承者であるスイフーの事も忘れない。スイフーは女性に弱い。自分ほどの美貌の女のささやきから逃れられるわけがない。

自分は美しい男を二人も手に入れ、絶世の美女として君臨する……

途方もない夢も持っていた。もちろんそれを口に出すほど、彼女は愚かではなかったが。

だが。ここで今問題が生じていた。

あの花守り人は男だ。少年だ。美貌の少年。皇族をないがしろにしなければ、宦官として後宮に引き抜こうと思っていた少年だ。

それが、陪都公の寵愛を受けているだと?

信じがたいが、信憑性のある事だった。陪都公は女を好まない。いつも利用しているような冷血さを持っていて、そこがまた堪らない。わたくしの愛で、美貌で、その冷血をひっくり返す、と決意させる要因でもあった。

だが男が好きならば話が違う。

許せないと思った。あの少年は、皇族をないがしろにし、わたくしの恋する男を盗む泥棒猫なのか。

かっと頭に血が上る。だが彼女は、陪都のうら若き筆頭妃よりも頭が回った。冷静な女性だった。

「そう。それはおもしろいわね」

手の者にそう返した。彼女の鉄壁の演技は、いかんなく発揮されるのだ。

「それと、あの少年を牢獄へ入れる準備は進んでいて?」

「はい。直にあの少年は、牢に入れられるでしょう。正式な名目付きで」

「それはよかった。この都で、皇族をないがしろにする不届きな輩はいりませんもの」

おほほ、と皇妃は笑った。

その時だった。

「皇妃さま、素晴らしい知らせです!」

女官が一人、丁寧に扉の向こうから言ってきた。皇妃は手の者を下がらせてほほ笑む。

「あら、どのようなお知らせかしら?」

「月夜花が残っているそうなんです」

「あら、根こそぎ燃やしたと聞いていたのだけれど」

「実は、皇妃様がお気に入りの尊い華、花の中で最も素晴らしい花として都で噂が広まったそうで、都の至る所で栽培されているそうなんです。中でも満月園が最も数が多く素晴らしかったそうなのですが……出入りの花屋によれば野山の強い花なので、数日で根をはり、見事な花を咲かせるそうです。それに皇妃様、これも花屋の話なのですけれど、月夜花は満月に合わせて咲くそうですわ、いまから満月園に植えても、三日で根付くと宮廷の花守り人たちは言っているそうです」

「まあ素敵」

皇妃はうっとりとその光景を思い浮かべた。満開の月夜花。その白い大輪が数多咲き誇る中で、時の権力者に寵愛される自分。そっと手を取り合い、見つめあい微笑むなんて、なんて素晴らしいだろう。空に煌々と満月が上るそれは、誰も邪魔出来ない素晴らしい時間だ。

「では、あの不遜な花守り人が牢に入ってから植えるように指示を出してちょうだい。陛下もあの大輪の花をきっとお喜びになるわ」







「準備は出来ているかい?」

「あんたに言われたくねえよ」

「お前にもな」

「……こんな少人数で大丈夫でしょうか」

「なんのために訓練を重ねてきたと思っている。今行かなかったら何もかもが終わる」

「そーそー、何事も悪い方に悪い方にって考えちゃいけないよ。いい方に考えなくっちゃってお頭もいってくださるさ」

「お頭……元気かな」

「元気じゃなかったら村に連れて帰ろうぜ。あの人がいないと、何つうのかよく分からねえんだけど胸の当たりがきりきりする」

「それは同じですね、ああ、吾が君」

「あなたの背の君じゃありませんよーだ」

「うるさいですね、いずれ近いうちに私の背の君になりますよ」

「これだから妄想癖は怖い怖い」

彼らはそんな軽口をたたきながら、道を進む。

そんな彼らが乗っているのは馬ではない。六本足の奇怪な生き物だ。

それを彼らは巧みに操り、馬よりも早く駆けさせている。

「交配がうまくいってよかった」

「それだけでも、お頭に喜んでもらえるぜ」

「楽しみですね」

総勢二十人の小さな一行は、その奇怪な生き物を駆けさせる。

目指すは、都。魑魅魍魎が集まる街。


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