5-7
皇妃のお気に入りの花だとは分かっていたけれども、それを一本でも残しておくという選択肢は、ルォヤの中ではどこにもなかった。
彼女は知っていた。
この華の惨劇を知っていた。たぶん衛兵たちよりも知っていたし、一本でも見逃してしまえば次の年に起きるだろう、もっと恐ろしい事を知っていた。
衛兵たちは止めたのだ。
それでもルォヤは一人それを引き抜き、三日かけてそれを全てもやした。
あとかたも残らないように燃やして、灰すら山奥に廃棄した。
「責任は全部かぶる」
皇妃の怒りを恐れた衛兵たちに、その新入りの花守り人は淡々といった。
その顔は悲壮感などどこにもなく、軽いものだった。
皇妃の怒りに触れた人間の末路を、知らないのだろうか。
衛兵たちが思っている事など分からないルォヤは、彼らを見て笑った。
「その責任は全部、おれにかぶせていいよ。俺が一人で勝手にやったといえばいい」
なぜそういう事が言えるのか。
皇妃の怒りに触れれば、一族郎党皆殺しもあり得るというのに。
それすら知らないのか、この花守り人は。
衛兵たちが思う中、美貌の花守り人は、雑草を引き抜きながら笑った。
「知らないで済ませられるほど、あの花はかわいい物じゃない」
決然と。
それはまさに決然とした声だった。
衛兵たちは聞かされていた。その花の恐ろしさを。
それでも。
この花守り人は、自分たちに話していない事を知っているのかもしれない、と、思わせる何かがあった。
そしてそれを言えない理由が何か、とても重要なものだという事も伝わってきた。
そのため、衛兵たちは、この花守り人に、罪を全て着せる事を選んだのだ。
「罰が恐ろしくないのか?」
「あの花を群生させること以上に恐ろしい事が、あるわけないだろ」
衛兵の問いかけに、よくわからない言葉で返した少年は、けらけらと笑った。
ダーワンは妻の言葉を聞いていた。内容は大体分かっている。ルォヤの事だ。
妻があの娘を嫌っているのは察していた。自分の気を引いてしまうからだという事も。
しかし妻は、喧々とルォヤがいかに皇族をないがしろにしているかを言う。
そんな事があるわけがない。そう言い切れないあたりが、ルォヤの性質だ。
確かにルォヤはダーワンを中心に生きている。
ほかの皇族に敬意を払っているのは見た事がない。何しろダーヤはほかの皇族の前に、あの娘を引き出さない。
それは正しい事だろう。あの娘は美しすぎる。
息子たちが息巻いて、あの娘を手に入れようとするのも目に見える未来だった。
それもあって、ダーヤに任せたのだ。あの男はルォヤの髪を蛮族のように短く刈り、あの娘が少年に見えるように工夫をした。
そしてそれはあの娘を守る隠れ蓑になったのだ。
あの輝く金の髪が無残に切られた事は惜しいと思ったが。ダーヤのそれを止めようとは思わなかったのも事実だ。
あの娘はひたむきなほど、皇帝しか見えていないのだから。
そうなるように催眠術をかけた、とウーレンは報告した。
あの娘はもう、ダーワン以外見えていないのだと。
その一途さは恋だの愛だのは全く芽生えない一途さで、それゆえに純粋で美しい。
「陛下。聞いていらっしゃいますか?」
「ああ」
「ではあの少年を罰してください! あれが女ならば、後宮の女ならば私の一存で処罰できるのですが、あれはそうではないのです」
「ルォヤがお前たちをないがしろにしたという決定的な証拠はあるのかのう」
落ち着いた言葉に、正妃は顔を赤くする。
「しかし」
「聞いた所、お前の好きな花を燃やしたというだけではないか」
「普通は燃やしませんわ!」
妻は喧々とまた語る。この正妃の矜持は高すぎる。
大体、花を燃やされた程度で怒るなど。
ダーワンには理解のできない心境だ。しかしこの妻の家が大きいのも事実。
ダーワンは仕方なく処分を考えた。
だが、この都から外へ出してしまえば、あの娘はこのダーワンに捨てられたと思うかもしれない。
あの目が頭から離れない。暗く澱んだ、沈んだ眼。
あれをまた元に戻すのは好ましくない。そしてあの娘はダーワンがお忍びで外に出る時、ダーワンがそうだと知られないようにするのに一役買うのだ。
手放すには惜しいのだ。あのかわいらしい娘を、遠くへやるのは嫌だった。
だが正妃は納得しないだろう。
ダーワンは溜息をついた。
「お前はどうしたい?」
「皇族をないがしろにするあの少年は、自害させるべきです!」
罰せると思って目を輝かせる皇妃。
ダーワンの中で、ルォヤがちらついた。
「では、牢獄の中で罪の重さを実感させるのはどうじゃ」
皇妃が満足げに笑った。
皇帝は権力の頂点であっても、一番権力を持っていても、守り切れないものはいくらでもあるのだ。
誰に言うわけでもなく、ただ、すまないと思った。
これを聞けば、あの娘はそんな事と笑うだろう。
ダーワンを責めもしないだろう。そういう女だ。仕方がないと笑うだろう。
そして、大丈夫ですというに違いないのだ。大丈夫です、おれは平気です。ダーワンのためならと、言ってしまうだろうあの娘。
その揺るがない忠誠心を、あだで返す事になるとダーワンは分かっていた。
『ダーワン様のおっしゃる事なら信じますよ』
遥か昔に、なくした女の声が聞こえた気がした。
「……インユェ?」
その声は聞くわけがない声だった。
ここへ来るはずの相手でもなかった。
幻聴だろうか。ルォヤは草をむしり、声の相手に背中を向けながらそう思った。
「お前は、インユェか?」
静かな声だった。一年と少しだけの時間は、この人をこんなに落ちつかせたのだろうか。
懐かしいと思う。
心のどこかがかたかたと揺れる。
たぶんそれは、ダーヤが封じてくれている場所の扉だ。
それを開けてはいけないと思う。
それでも、どうしてだろうか。
「否定するならしてくれないか」
懇願のような声に……ルォヤは立ち上がり、振り返ってしまった。
そこには一人、男が立っていた。ダーワンを若返らせて、もう少し男前にしたらこうなるだろう。
赤い頭髪は、皇帝の一族の証なのだという。ダーワンがそう言っていた。
赤い髪ではない皇族は、臣下になるほかないのだと。あまりいい身分にもなれないのだと聞いていた。
それを当てはめれば、その赤色は上位の皇族の象徴だろう。
冠に押し込めた赤い髪はそれでも、ひらひらと揺らめいている。
彼は質素な服を着ていた。彼の身分からすれば信じがたいほど質素な身なり。
ルォヤは言葉を失った。
その目を見てしまったせいだ。
燃え盛る焔の赤色。一年と少し前に、心を全部持っていかれた瞳。
それがまっすぐに、彼女を見つめていたせいだ。
何も言えなかった。こう言う時のために、ダーヤに言葉のまじないをかけてもらったというのに、ただ彼を眺める事しかできなかった。
封じていた何かが、がたかがと揺れている。
『このまじないは強力だ。でも、何がきっかけでまじないが解けるか分からない』
いつか聞いたのは、ダーヤの忠告だ。
『それの元凶に会わないほうがいい。まじないが解けてしまうかもしれない』
世界が揺れた。足元がおぼつかないのはどうしてか。
「インユェ」
彼の声が、彼の目が、彼が伸ばそうとためらっている腕が。
何もかもが、抑え込んでいたはずの心のどこかを、表に出そうとする。
「やめて」
必死に紡いだ言葉はそんなものだった。
抑え切れなくなるのが怖かった。認めてしまうのが怖かった。
「おれは」
そんな名前じゃない。言いたいはずだった。言えるはずだった。だってそうだろう、おれはルォヤなのだ。
喉の奥で言葉が絡んだ。泣きたくなるような、絞めつけられる胸のうち。
「……インユェ」
彼がまた呼ぶ。
彼が近付く。もうためらわないと言いたそうに伸ばされた腕。振り払う事も出来ないまま、腕の中に引き入れられる。
「すまなかった」
どうしてあんたが謝るんだ。謝る事はした覚えがあるのか。
心が追い付かない。言葉が思いつかない。
「俺にはお前が必要だ。衝立だのなんだのと言ってごまかそうとした」
彼の謝罪だった。
いいえ、いいえ、衝立でよかったのです。衝立として立たせてくれていればよかったのです。
「お前の事を、フーシャから聞きたかったのだ。お前は好きな物を答えてはくれない。お前は我儘を言ってはくれない。お前は心のうちを告げてはくれない。だから俺は、お前を知っているフーシャから、情報が欲しかった」
そんな事、知らなかった。
「惚れた晴れたを、言えるわけがなかった。俺は未熟だった。お前を信用しきれなかった。俺の咎だ」
彼は息を吸い込んだ。
陪都の後宮に戻ってくれと言われたら、それは拒むしかないと思った。ここでの生活を、気に入っていたから。
それだというのに。
「都で、俺が来るのを待ってくれはしないか」
「……え?」
「お前は都が好きだと思う。お前が嫌いな場所に長居をするわけがないと思うのだ。……身勝手な男だと思うかもしれないが、俺がお前に会いに来た時だけでいい、出迎えてくれないか」
それは譲歩だろう。
……泣きたくなった。あの人が、ここまで譲歩してくれる。
心の封じていたものが、とうとう弾けた。
「うう」
声をあげてしまえば後は決壊するだけだった。
「ああああああ」
泣く事なんて二度とないと思っていたのに、涙と声がこぼれた。
「ヤンホゥ様……!!」
胸に縋りついた。涙をその胸元でぬぐい、インユェは泣いた。
「好きです」
ああ、この言葉を、封じていたのか。ダーヤは封じてくれていたのか。
この思いを。
「好きです、好きです、好きです」
何度も繰り返した。ヤンホゥは、抱きしめて言う。
「ああ……俺もだ、インユェ」