5-6
「またずいぶんと荒れた庭園だ」
ルォヤはそんな事を呟いた。
そして辺りを見回す。
荒廃しきった庭園を眺めて、また呟く。
「またずいぶんと、すさんだ庭園だ」
都の外側に位置する、その庭園は名前を満月園という。
満月園はその事件が起きるまでは、名月のたびに皇帝が訪れて、宴を開くそれは格式高い庭園だった。
蟲がすべてを覆したのだ。
それをルォヤは、まだかろうじて残っていた衛兵から聞かされた。
その衛兵は、ほかに勤められる所がなく、惰性で勤めていたらしい。
そんな理由も事情も知らないが、とりあえず話を聞く事からルォヤは始めたのだ。
そうしなかったら分からない。この庭園がここまで荒れ果てた理由などは。
その庭園はもはや、庭園と呼べる場所ではなかったのだ。
荒廃しきった捨てられた場所。
そうとしか言いようのない空間だったのだ。
元は見事だったのだろう。
ルォヤでも、世間知らずでもわかる位に、その庭園は元は見事だったのだ。
建造物がそうだった。この石は高価だと、壊れて無残な事になっている東屋を見て、ルォヤはそんな事を思った。ダーヤが教えてくれたのだ。
精緻な彫り物。見事な建築材料。
そして広大な面積。どれをとってもこの満月園が、元は見事な場所だった事をにおわせる。
そしてその分、その無残さを際立たせていた。
ある日突然現れたその蟲……とんでもない大きさの蟲だと衛兵は言ったので、おそらく肉食の大型種だとルォヤは見当をつけたのだが、それが暴れまわり、毎夜毎夜現れたのだという。
衛兵たちも立ち向かったのだが、その蟲は鋼の刃物が通じなかったと教えられた。
そこからもまた絞れる。鋼の刃物が通じないのは、蜈蚣の類だと相場が決まっている。
蟲というのだから、蛞蝓の類ではないだろう。そして、暴れまわったとしても蛞蝓ならばたかが知れている。
となると……と割り出していくのだ。
元牙にはそれは容易な事だった。
彼女は部隊を率いて蟲を狩る立場だったのだから、誰よりも蟲に精通していなくてはいけなかった。
どんな相手がいて、どんな攻撃方法なら有効で。
そういった事を、一つ一つ当てはめていくのはルォヤの得意な分野だったのだ。
刃物の通じない問題の蟲は、暴れまわり血をすすり、肉を喰らって毎夜山に帰っていったのだという。
そんな危ないものがどうして今まで報告に上がらなかったのかと言えば、衛兵たちが逃げ出したせいだ。
恐れをなして逃げ出し、報告に来る気概のある奴らは軒並み殺された後だったからだ。
誰だって、自分の命は惜しいだろう。
ルォヤはそれを当然だと考える。
報告しても、戦えと言われたら?
味方が来るまで持ちこたえろと言われたら?
兵を集めるのに時間がかかるといわれたら?
蟲の種類を判断してから、兵を出すといわれたら?
「冗談じゃねえもんなぁ……」
普通逃げ出す。行く当てがあるのならば逃げ出すだろう。
こちらは決死の覚悟で報告に来たのに、適当な対応をされてしまったらもう、自分たちは生きていけないとなれば。
決死の覚悟で逃げ出すだろう。
そんな事情もあって、報告は遅れに遅れたのだ。
そして残された満月園は、皇帝が使用すると決めて伝えに行った時、無残極まりないありさまになっていたのである。
ルォヤは一人、満月園を歩いていた。
なぜこの満月園だけ、蟲の標的になったのか。
「何かあるはずだ」
彼女は推測する。推測だけなら簡単だ。経験からいくらでも選択肢を割り出せる。
歩きながら、空気のにおいをかぐ。
甘ったるいにおいがする。ルォヤの鼻はそれをかぎつけた。
甘いにおい。何かが記憶に引っかかった。
何だったか。割と大事な事だと思うのに、いまいち思い出せない。
何時からこんなに、忘れてしまうようになったっけ。
ルォヤは考える。思考がそれていくのにも気付かないで。
そうだ。
この都に来てから、ルォヤは忘れっぽくなった。物忘れに拍車がかかった。どうしてだろう。
「……覚えてなくていい事が増えたからな」
ここでは蟲狩の技量は求められない。必要ないものは忘れるのが、人間の性質だ。
たぶんそれで忘れたんだ。
それでルォヤは納得した。
そして、地面に目を向ける。
向けて……驚いた。
「この花いつからあるんだい」
衛兵は問いかけられて、その花を見つめた。見事な花だ。荒れ果てた庭園だというのに、こんな美しい大輪の花が咲くのか。
あでやかな白の花だ。甘くいい香りがする。その癖葉っぱなどは華奢で小さい。
宮廷の才媛たちが、喜んで頭に飾りそうな花だった。
透き通る玉を思わせる蕩けた白い色の花を、しかし皇帝から派遣されてきた花守り人は険しい顔で見ている。
これがどうしたというのだ。
衛兵にはわからない。
それでも、この花は知っている。
「皇妃さまが、野山に生えているのをたいそう気に入って、株ごと持ってこさせて群生させた花だよ」
答えたとたん、花守り人は舌打ちをした。
美貌の少年である分、そのいらだちはくっきりとしている。
「これが原因」
「は……?」
「これは、甘いにおいで蟲を誘う。なんでかっていえば、この花が咲くためには、動物の体液が必要なんだ。それもかなりの量」
苦い顔をしている花守り人は、その花をまるで火薬か何か、危険物のように見ている。
「道理で甘ったるいにおいがしてるわけだ。これは一輪でもかなり蟲を誘うのに、こんなに群生させてりゃ、そりゃ来るわ。どう考えても来るわ」
花守り人の言葉に、衛兵はぞっとした。この花は最近の皇妃のお気に入りだから、と今までの花守り人たちはより大きい花を、より強い甘い香りを、と研究していたからだ。
その努力は報われている。事実、この花は大輪に育った。
だがいつからだ?
何時からこの花はこんなに大きく咲くようになった?
衛兵は記憶を手繰る。
……仲間たちが、満月園で血を流すようになってからではないか?
絶句した衛兵に、美貌の花守り人は言う。
「で、どうする?」
その顔は笑っていた。まるで悪鬼や修羅のようにも、見えた。
「大変です、皇妃様!!」
息せき切って走ってきた女官に、皇妃は穏やかに注意をした。
穏やかにできなければ、皇妃としての素質を疑われる。
もともと、嫉妬深いだのと巷で噂されているので、これ以上の悪評はいらないというのが、皇妃の判断なのだ。
「まあ駄目よ、そんなに急いできては。もっと落ち着いてきなさい?」
「しかし、しかし」
女官は急いでこの情報を伝えに来たのだろう。それがうかがって見えた。
皇妃ワンヂェンは、首を傾けた。
これほど急ぐのはどういう事だろうか。
息を整えた女官は、一礼をする。
「申し訳ありません。少し慌てすぎました」
「わかればよろしいのよ。それで? 何があったのかしら?」
「満月園の……」
「満月園の? あそこは今、改修工事を陛下がなさっている場所でしょう?」
ワンヂェンはそれがどうした、と問いかける。
「月白玉草が」
女官はここで言い淀んだ。
「あの花がどうしたの? もうじき盛りだわ。陛下がそれを鑑賞するために、あちこち立て直してくださっているわ」
うっとりとワンヂェンは言う。
野山に咲くというのに、美しすぎる花。
神が完成させた花の頂点のような花。
行幸のさなかに見つけ、そのあまりの美しさに株ごと持ってこさせたのだ。
もっと大きな花がいい。
もっと強い香りがいい。
そうした皇妃の理想を聞き、満月園の花守り人たちが、それを実現させたらしい花。
今年になると、満月園の一角が、あの白く薫り高い花で埋め尽くされるという。
それが待ち遠しい皇妃は、次に聞いた言葉に目を見開いた。
「軒並み抜かれて燃やされたと」
「……え?」
彼女は理解しがたかった。自分がお気に入りだといっている花だ。
それを抜いて燃やした?
いったい誰がそんな暴挙をしたのだ。
「改修工事の際に、潰してはいけないから退けたのではなく?」
「はい。乱暴に引っこ抜かれて、全部燃やされたと」
「誰がそれを許したの?」
そんな事、花守り人たちが許すわけがない。
ワンヂェンの問いかけに、女官は忌々し気に言った。
「新しく入った花守り人だそうです。来て早々に、月白玉草を、全部引っこ抜き、跡形もなく燃やしたと」
ワンヂェンは、その花守り人を思い出した。
美貌の少年だ。宦官なのかもしれず、年齢の割に体つきが男らしくない少年。
金の頭髪を無造作にまとめて巾に包み、誰よりも薄汚れた衣装を着ていた、目を見張るほどの美貌の少年。
皇帝が、花を差し出した少年だ。
かっと、頭に血が上る気がした。
彼女からしてみれば、皇帝の寵愛がある事をいいことに、好き勝手をやっているようなものだったからだ。
「あの少年……!!」
思わず激情が口からこぼれた。
色々と目をつぶってきたが、もう我慢ならない。
「追い出しなさい」
「皇妃?」
「あれは陛下のお近くにいてはいけない人間です」
皇妃はあくまでも穏やかに言う。
「あれはわたくしの事すら気に留めていない。これは皇族に対する大変な侮辱です。あれはそれをしてしまいました。追い出しなさい。それができぬというのならば、厳しく罰するように伝えなさい」
皇帝の正妃という立場の女性がこれを命じれば、それは普通行われる。
ワンヂェンは、あの少年を殺せと言外に言うようなものだった。
それ位腹に据えかねたのだ。
……皇帝が、何かあるごとにそばに寄せている少年。
その寵愛もここまでだ。ワンヂェンはあくまでも落ち着いた調子で、女官に言った。
「あの少年は、害悪にしかなりません」