5-3
それでも、久しぶりだと挨拶はしなかった。
ルォヤにとってその人物は、過去にしかなりえない。
それでも。
「心臓は、否定しないのか」
ルォヤはぽつりと言った。誰にも聞こえない声だったが。
まだ、この心臓は少しだけ、痛みを訴えかけてくる。
とうに忘れた傷跡は、顔を出す時痛みを伴う。
こんな痛みはルォヤにはいらないと、彼女は心底思った。
そのため、名前に気付かないふりをした。
そして少しだけ、笑った。
「だれ、それ」
その言葉は、男、ヤンホゥをひどく動揺させたらしい。
見開かれた瞳は、底なしに赤い。
その目が好きだった遠い昔がある。
その目に映りたかった事実がある。
しかしそれは、今のルォヤにはいらないものだ。
「インユェって、きれいな名前だ、そんな名前の人は、それこそ目を見張るほどきれいなんだろ?」
それは過去と決別するための言葉だった。ルォヤはその過去を捨てたかった。
弱かった昔、心が砕けた昔。
そんなものは、ルォヤには……皇帝を守るためにいる盾には要らない。必要ない。
その壊れた心の残骸から立ち上がったルォヤは、昔のお人よしでどうしようもなかったインユェには戻りっこないのだ。
「この傷虎ルォヤはそんな美人とは縁がない。つまりおれはインユェさんじゃない」
ヤンホゥはそれでも、何かを言おうとした。
だが言えなかった。
きゃあと悲鳴を上げたチュンリーが、すがってきたからだ。
筆頭妃をないがしろにはできない。
「公、公、なんて恐ろしい、ご無事ですか、公」
震えていながらもチュンリーはヤンホゥを思う声で言っている。
なんだ。
ルォヤは笑いたくなった。彼はフーシャ以外にもきちんと思われていたのだ。
こんなにたくさんの人から思われている、ヤンホゥの脇に、俺など別段いなくていい。
それは一年の昔に、彼女の心を木っ端みじんに打ち砕いた考えだったが、今のルォヤはそれに傷つきもしない。
「インユェじゃ、ない……」
フーシャが目を見開いたまま、その美しい顔に思案を巡らせているのだけが少し気になった。
きっと彼女は、自分の正体に行きつくだろう。それができない若頭じゃないのだ。
誰よりも頭の回転が速かったフーシャは、有能極まりない。
「ダーヤ、陛下が無事ですか」
「お前のおかげで事なきを得た、さすが俺様のルォヤ」
ダーヤがにやりと笑いながら、彼女の頭を撫でまわした。
皇帝も、笑う。
「でかした、ルォヤ。このたびの褒美は、なにか考えておかなくてはの」
「じゃあ、おれは陛下の持っている玉が欲しいです」
「ただの玉か?」
「ううん、いい匂いのする枯草を入れた玉。この前使っていた蟲避けの飾り玉を、壊してしまったんだもの」
「ああ、ならば西の銀細工のいいものがあったのう、あれをくれてやろう。お前の好きな赤い色付き石がはめられているのじゃ」
「やったあ!」
踊りあがって喜ぶルォヤは、無邪気そのものだった。
皇帝の持ち物を下賜されるなど並大抵ではなく、ルォヤはその高い戦闘能力と実力だけで、それを誰からもやっかまれないという人間だった。
その日の夜の事だ。
ダーヤは久しぶりの美酒を杯に注ぎ、傾けていた。一人酒など久しぶりだ。
いつもは配下たちと大騒ぎをする武将は、時折こんな一人酒をしたくなる。
月が美しい。
その月は出会いのめぐりあわせという物を考えさせる、金色をしている。
考えはいつの間にやら、それと同じ色を持った配下の事になっていた。
あれを最初見た時、これは使い物にならないと思った。
心が壊れていたのだ。
まったく。
音に聞く最強が、ここまで壊れたろくでもないものだとは思わなかったのだ。
こんな使い物にならない物を、陛下が寄越すなど何なのだ。
一種不満を覚えなかったと言えば嘘になる。
だが。
壊れ切った彼女は、なんでもした。碌な仕事は与えなかったというのに、一言も不平不満を言わず、顔にも出さず、こなしたのだ。
これ幸いと、誰もが面倒くさい雑事を押し付けた。
彼女はそれを彼女なりに、懸命にこなした。
なんだ、これは。
ダーヤが思うまで時間はかからなかった。この女は何なのだ。
壊れ切った顔をして、壊れ切った眼をして、血の気の引いた唇で、寝不足の隈の浮いた目をして、面倒くさい事を一晩でも二晩でも徹してやり続ける。
時折道の端でうずくまるように倒れ、足蹴にされても何も言わない。
部屋の隅で硬く冷たい石の床で、凍えそうな冬の夜をあかす女。
常に寝不足、食べ物もほとんど口にしない。かろうじて柔らかな卵の入りのあんかけのような汁物を口にするだけ。
これでは体を壊す。ダーヤが危機的な物を抱いた時、それは起きた。
配下たちが、女に手を出そうとしたのだ。
壊れそうなもろいように見えて、しかし頑丈な女。何をしても苦痛の一言も漏らさない女を、その対象にしたのだ。
ダーヤはその現場を目にした。彼女は無抵抗に、服を剥がれていた。
決定的な行為に至る前に、ダーヤはそれを止めた。皇帝直々に送ってきた女を、何も言わないからと言って手を出せば、どうなるか知れたものではない。
不満げな配下たち。ダーヤは服を着て起き上がる、その女を見た。
そして、一度ゆっくりと目を開閉させた女の、その目を見てはっとしたのだ。
いつも下を向いて、うつむいて顔を碌に見せなかった女のかんばせは、洒落にならないほど美しく、見覚えのあるものだったのだ。
誰も知らないはずの名前を呼んだ。
すると、その目にかすかに輝きが見えた。
ダーヤはそれから、少しずつ彼女の表情を取り戻させた。
一年たってやっと、あけっぴろげに笑うようになった彼女。
もう、彼女に模擬試合で勝てる男はこの宮廷にはほとんどいない。
「ダーヤ」
扉を叩いて入ってきた女は、ダーヤの前の椅子に座り込んだ。足を抱えて子供のように座る女は、いったん口を開き、また閉じた。
言いにくい事を言うらしい。
ダーヤはこういう時は酒を飲み続ける。
そしてようやく、女が口を開いた。
「アレ、やってください。おれ、ちょっとぐらぐらしてて怖い」
この女が壊れていた時に聞いた、事情の半分を知っているダーヤとしてはこう来るだろうと想定できる言葉だった。
彼は酒を卓の脇に押しのけた。
香の入った香炉の覆いを取り、慣れた手つきで調合を始める。
調合された木片や葉のかけらに、はちみつをかすかに垂らす。そして指で練り、適当な具合でやめる。
そして、そっとそれに火をつけた。
香炉が虹色に瞬くなかで、炎がきらきらと揺らめいた。
「これを見ろ、ルォヤ」
ルォヤはそれをじっと見る。
香りが小さな部屋を満たす。
それは不思議な香りだった。誰もこんな香りを調合出来はしないだろう。
香りを杯いっぱいに吸い込んだルォヤを見て、ダーヤはゆっくりと佩玉を目の前にかざして揺らした。ゆっくりと、ゆっくりと。
「お前は、ルォヤだ」
彼はことさらゆっくりとそう言った。
ルォヤが目を瞬かせる。
「お前は俺様の弟子だ。それ以上の者じゃない」
瞬く瞳に、何かが溶け始める。
「そして、皇帝陛下のためだけにいる守り手で、花守り人だ」
溶けた目の中に、何かが像を結ぶ。
「お前は役立たずでも何でもない。俺様のルォヤ。強く愚かで、一途な皇帝陛下のためにいるもの」
ダーヤはゆっくりと言葉を連ねる。ルォヤはそれをじっと聞いている。
「だから忘れてしまえ、お前の傷なぞ忘れてしまえ。お前がいまを生きるのに不必要な物なんか、忘れてしまえ。この玉の中に封じてしまえ」
ルォヤはそれを聞き、最後にダーヤが口笛をひゅうと吹くと、はっと目を大きくした。
「どうだ、具合は」
「うん、大丈夫、楽になりました」
「つらくなったらいつでも来い、お前を失うなんてあってはいけないからな」
「はーい。いつもありがとうございます、ダーヤ」
「これくらいしか、俺は得手の物がないからな」
ルォヤは扉を出た。月が煌々と明るい。嫌いじゃない夜だ。それでも村ではあまり好きになれなかった夜だ。蟲がでるから。
少し離れた、山から狼の遠吠えが聞こえてくる。
香の匂いが好みだと思いながら、ルォヤは部屋に戻った。
痛む心は、もうない。
ダーヤは優しいから、この面倒くさいルォヤの欠陥を、継ぎはぎしてくれるのだろう。
それが優しいと知っている。
それが易しくないと知っているからこそ、ダーヤの優しさが痛いときがある。
それを言うならば皇帝の優しさも、大きいだろう。
「おれはあの人たちのために、生きなくちゃ」
彼女は決意を込めて空を見上げる。
月は先ほど違い、雲に隠れてしまっていた。