5-2
びょうと吹いた風の匂いをかぎ分けて、ルォヤは来訪者の訪れを知った。
そうなればルォヤの仕事は決まり切っている。
ルォヤは寝転がっていた場所から立ち上がる。
ここは後宮、花咲き乱れる中庭。ここに後宮の女たちの邸がいくつもあり、女の策謀が渦巻く世界でもあった。
そこからきわめて無関係な状態になっているルォヤは、その辺の花を寝転がって潰していないかを確認し、何も潰していないのでほっとした。
花を潰すのはよくないのだ。ルォヤは花守り人なのだから。
立ち上がり草のかけらを払い、ルォヤはさっそうと歩き始めた。
もうじき師匠にして上司が、ルォヤを呼びに来るのが、靴音からわかったので。
事実。
「おい、下っ端! 下っ端どこで居眠りをしている!!」
後宮に入れない、男子禁制のその空間の入り口から大声が聞こえてくる。
下っ端事ルォヤは、立ち上がり楽し気な調子を崩さないで歩き始める。
向かうのは入り口。ルォヤは後宮に自由に出入りできる、例外である。
草の匂いがするルォヤを見て、上司が呆れた顔をする。
「眠っていたのか、俺様のルォヤ」
「はい、ダーヤ」
ルォヤは敬礼の姿勢を取り、楽し気な姿勢を崩さない。
そんな能天気な花守り人を見て、上司は笑う。
「まったくもって性のないやつだな。仕事だ、お前もそのみっともない下っ端衣装を着替えて謁見の間に出るんだ」
「おれは下っ端なのに?」
「下っ端だろうが何だろうが、ルォヤをのけ者にするのはあまりにも馬鹿だ」
「おれがルォヤだから?」
「その実力を、陛下は高く買っているという事実を忘れるな。あの方が外遊びをするときはいつも、お前を付き従わせている事実をお前の空っぽな頭は忘れたのか?」
「ううん、忘れてなんていないぜ! だってあの人はおれを買ってくれたんだもの」
「俺様のルォヤ、物わかりのいいルォヤ。さっさと着替えて来い。得物を忘れるんじゃないぞ」
「あれはおれの得意な得物じゃないのに」
「あれは親衛隊のお決まりの武器だ。さっさと慣れろ」
「そんな事言ったってさあ。やっぱりルォヤは自分の使い慣れた絶対無比が使いたい」
「お決まりの武器を絶対無比にしろ。俺様のさかしい獣。できないとは言わせない」
男、ダーヤはルォヤの頭をぐしゃぐしゃと撫でまわした。この光景は誰もが見慣れた物で、誰も気にしない。
そこの師弟の不思議な関係性を、誰も疑わない。
「じゃあ行ってきます!」
ルォヤはひらりと飛び上がり、屋根の上に着地する。その物音をまったく立てない様は驚くべき技量を示し、不安定な屋根の上を駆けるルォヤは並みの暗殺者であっても歯が立たないだろう。
ルォヤは自分に与えられた個室に戻った。そして壁にかけておいた上質な衣装を手に取った。そして上司いわく下っ端衣装を脱ぎ、それに着替える。
そして壁に立てかけておいた青龍刀を腰に差し、姿見を見て自分を確認した。
今日もいつもと変わらない。隊列のどこに立てばいいのだろう。それこそダーヤに問いかけなくてはいけない。
そんな事を思いながら、ルォヤは部屋を出て再び、屋根を駆けた。
ダーヤは皇帝の謁見があるいつもと変わらない調子で、配置の確認をしていた。てきぱきと指示を出している。
ほれぼれする統率の仕方に、ルォヤはうっとりと見惚れた。
ルォヤの師匠は、全くよくできた師匠なのだ。
「ルォヤ、お前は天井の梁に構えていろ」
存外大股で近寄ってきた弟子に、ダーヤは短く言う。
「はーい」
ルォヤは返事をして、さっそく配置されるべき場所に向かうべく、歩き出そうとした。
「そうだ、今日謁見するのは」
ダーヤが思いだして話の続きをしようとした時には、もうルォヤは居なかった。
「俺様のルォヤ、人の話は最後まで聞くように再教育だな」
ダーヤは笑いを含んだ声で呟いた。
普通の人間なら聞こえないその声も、ルォヤの尋常ではない耳は拾っている。
「また再教育かー」
ルォヤは暢気な声を上げ、謁見の間のひときわ立派な屋根の死角にある、梁へ続く通路をよじ登った。
梁はルォヤがらくらく居続けられる太さの梁で。ここにじっと構えている事はルォヤにとっては何の苦痛も感じない事だ。
陛下のすぐそば、飛び降りればどの誰よりも陛下を守る盾になれるその位置を、ルォヤはことのほか気に入っていた。
それをダーヤも十分理解していて、それを利用しているのだろう。
その強さが、ルォヤは好きだった。
さて今日の来訪者はどこの者か。北の異国人か、南の異邦人か。
それともこの東の国の絹を高く買い求める、西の使者か。
どれにしたってルォヤの仕事は変わらない。陛下を守る、これだけがもうルォヤの心傾ける仕事なのだから。
銅鑼が鳴り、来訪者を歓迎する楽曲が始まる。
興味津々のルォヤは、現れた人間に息を止めそうになった。
その人物を知っていたからだ。知っているなんて軽いものではない。
実はいまだに引きずっている相手で、心臓のあたりがまた少しだけ騒ぐ。
ルォヤは一瞬こちらに向けられたダーヤの警告じみた視線に気付き、呼吸法をもって自分を落ち着かせた。
今はもう、ルォヤは陛下の狗なのだ。
他の誰のものでもない。ダーヤの子飼いなのだ。
今更その立場を自分から捨て去るには、もうしがらみが多すぎた。
だが疑問は膨れた。どうしてあの人がここに来たのだろう。去年はここには来なかったというのに。
そういう儀礼があるんだろうか。ルォヤはあとでダーヤか陛下に聞こうと決めた。
ルォヤの脇には美貌の女性。化粧の濃い女性は、見た事がある。
あの世界で。
今は遠い昔と思うしかない過去、少し扱いが雑だった相手だ。
彼女はあの人の筆頭妃なのだろうか。
陛下の謁見の際に来訪者代表に付き従う女性が、ただの女性なわけがないのだから。
ルォヤは視線を移した。
そして想定通りの相手もここにいる事に、目を細めた。
天の川色の髪を優美な、それでて簡素な髪留めでとめた底なし青の青を身に纏う少女だ。
最後に見た時からずっと美しくなっている。艶ともいうべきものがにじみ出ている。
懐かしいものだ。一度すべて捨て去り振り切ると、こうも心は落ち着いたままでいられるのか。
ルォヤは来訪者たちから目を離し、何か異常がないかを確かめた。
「珍しい蟲を生け捕りにしたそうじゃな」
陛下がしゃべる、来訪者の代表が、その暗いほど赤い髪を揺らして首を垂れる。膝をつき首を垂れるのは、陛下が相手なら当たり前の行為だ。
「はい。虹色に輝く蟲でございます」
男の声はどこまでも懐かしかった。しかしそれだけだ。
心が壊れそうなほど思った相手の声も、月日は色あせさせるのだろう。
これでいい。ルォヤは思う。これでいい。この方が平和だ。
「見せられぬのか?」
陛下が言う。虹色の蟲は確かに珍しいだろう。
この都ではそういう生き物の話など一度も聞かないのだから。
「外の檻に入れております」
「では見に行くぞ」
陛下が立ち上がる。従う兵士たち。ルォヤはダーヤの目が何かを伝えてきたのに気が付いた。
ほんの一瞬指がひらめく。
お前は陰で、いつでも飛び出せるように。
その一瞬のひらめきから意思を疎通し、ルォヤは了解の意味を込めて首を一度傾けた。
陛下が外に出る。男たちもそれに続く。ルォヤは梁を物音を立てずに走り、いつでも飛び出せる死角に陣取った。
「これは素晴らしい蟲じゃの」
陛下が感心した声を上げる。
玉彩蟲は割と小型の蟲である事が多いので、これだけの大きさは異例かもしれない。ルォヤはその羽が実にいい装飾品の材料だと知っている。
しかし玉彩蟲は気性が荒く、肉食で、いろいろ厄介だ。
じっと複眼を人間に向けている玉彩蟲は、機会をうかがっているようにも見えた。
「陪都でこのような物が取れると聞いた事はない」
「ここ数年、出没するようになった蟲ですので」
ルォヤは檻の強度が気になった。玉彩蟲は、頑丈なのだ。
玉彩蟲は力をため込んでいる気がする。
ルォヤはいつでも飛び出せる姿勢を構える。
ルォヤの勘はそして当たった。
玉彩蟲が檻を体当たりで壊したのだ。木製の檻はあっけなく壊れ、玉彩蟲は外に出る。
その複眼を見てルォヤは気付いた。こいつは飢えている。
それも一日二日食べていない状態ではない。
一週間か一か月か。かなり食っていない。
飢え切っている。
そして飢え切った本能が、食べ物を求めている。
「陛下!」
ダーヤが兵士を展開させる。陛下を守る盾となる兵士たち。
陪都の人間も下げさせる。
「ルォヤ!」
ダーヤが小さく呼ぶ。その声を聴いた瞬間から、ルォヤの中で思考回路は消え去る。
パッと目に映るのは蟲ばかり。
引き抜く青龍刀の重さが心に響く。
飢え切った獰猛な蟲相手に、ルォヤは怖いほど笑う。むき出しの歯は、好戦的な色でルォヤを縁取る。
「あまり傷つけるな」
ダーヤの言葉がかろうじて聞こえる。ならば首を一撃で落とそう。
ルォヤは体の力に耳を澄ませ、必殺の一撃のために心を切り離す。
ルォヤは吼えた。獅子吼のそれは、周りを圧する。玉彩蟲すらその声にひるむ。
そしてその怯みを、ルォヤは見逃さない。勝負は一瞬。ルォヤの青龍刀がひらめき、動きを止めた玉彩蟲の首が一刀両断される。吹き出す青緑の体液。
顔についたそれを舐めて、ルォヤは苦いなと思った。
玉彩蟲は羽などがとても貴重だが、肉は食えた代物ではないのだ。非常にまずい。よっぽど食べ物に困らない限り、これの肉は食べない。
革を剝がなくちゃな、とルォヤは考えた。
そして、振り返る。
いつもの事と笑っている兵士たち。よくやったと褒めてくれそうなダーヤ。陛下の少し自慢げな笑み。
どれも大好きな物がそこにあって、ルォヤは笑う。
そのルォヤにかけられた小さな声。
「インユェ……?」
若牙銀月は、その声をただ懐かしいとしか思わなかった。