5-1
インユェ。どこにいるのか。
春が来て夏が遠のき、もう秋だ。
あの女が消えてから、もう一年が通り過ぎようとしている。
戻ってくると思ったあの女はいまだ、戻ってこない。
誰もがあきらめろというだろう。
ヤンホゥ自身、あれはどこかに消え去ったのだと自分を納得させた。
それとも、どこぞの獣のように寿命が尽きるゆえに、姿を消したのだと思おうとしていた。
獣にはそういう物がいるという。死にざまを見せないために消える、潔く誇り高い獣が。
あの女の声を聴いた最後が、おやすみなさいというそれだけであるのが、ヤンホゥの悔いにもなっているなど、彼は決して認めようとはしないが、事実だった。
インユェ。
たった数か月しか共にいなかった。
たった数か月だけだが、あの女はどの誰もが比肩しない信頼をヤンホゥに見せていた。
月日は彼の彼女に対する思いを純粋にしていった。
何故道具だと思い込んだのだろうか。
あの女は。あの女は。
夢で再会するあの女は、煌く瞳を生き生きと光らせて、その強靭な心を彼の前に示し、笑う。
その笑顔が恋しいなど、彼は口が裂けても言えない。
会いたいなど、言えるわけがない。彼は陪都の公なのだ。公がそんな私事に心を許してはいけないのだ。
恋い慕うなど、出来ようもない。
そう思う理由はいくつかあったが、一つには母の事があった。
母は父と恋をして、父の子をはらみ、子に向けられる悪意から子供を守ろうとして後宮を逃げ出そうとし、殺されたと聞く。
恋という物を、高貴な身分の者はしてはならないのだと、幼かった彼が盲目的に思うには十分な理由だった。
そして陪都の公になり、それはさらに上書きされた。
たった一人、もう十年も前になるが愛した女、ハィヨンの事だ。
ハィヨンは見た目はそんなに美しくはなかったが、心が何より心地よい女性だった。
どこか田舎臭く、しかし打算を何も見せないで瞳を向けてきて、花が開くように笑う女。
胡人の血が流れていると言い、西の果てにしか見受けられないという金の髪をした女との時間は、何にも代えがたかった。
ハィヨンに出会って初めて、彼は自分に向けられてきた視線が、強欲ばかりの彼を思っているわけではない視線なのだと気付かされたくらいだった。
愛した。恋をした。笑っていてほしいと、心の底から願い、彼女のちっぽけな我儘くらいだったらいくらでも聞いてやりたかった。
だが、身分の低い女に陪都の長が心を傾けている事を、後宮の女は許さなかった。後宮中の悪意を向けられたハィヨンは心を病み、たびたび自害を図ろうとした。
彼は守ろうと手段を講じたが、女の嫉妬はそれを超えた。
彼が幼く、未熟だったとも言える。彼はまだ女の理性を信じていたのだ。
それが裏目に出た。ハィヨンは自傷を繰り返し、日に日に心が壊れていった。
見ているのもつらく、抱きしめた体がいつも鉄錆臭かった。
彼女は泣いた。いつも泣いた。あのか細い涙声を、ヤンホゥはいまだに覚えている。
「外に出してください」
最後の願いはそれだった。ヤンホゥは引き止められるほど自分勝手にもなれず、それを受けいれた。
それを許した翌日、彼女は故郷を同じくする女官に連れられて郷里に帰った。
そのあと、子供が流れたと聞いた。あの女は子供すら授かっていたのだと知ると、後悔ばかりが残った。
そこから彼は結論に至ったのだ。
そばに置く女は、強くなければならない。何よりも強く、何にも敗北をしない強さ。屈しない鋼の精神。毒など効かない頑丈さ。
それを持たない女に心を傾ける事などできないと。
そんな女などいるわけがない。つまり陪都公にふさわしい女はこの世にはいない。
それでいいと思った。子供などどの女とだって作れる。適当な女を抱き、孕ませればいいのだ。
子供がいなくとも構わないのだ。父の血を引く弟だの甥だのが、この陪都を継ぐ事も何らおかしな事ではないのだから。
「フーシャ」
「はい」
首を垂れる美貌の女。あの女と同郷の女を、子供を産ませる対象としてみる事はなぜかできなかった。
しかし仕事はよくできる。何から何までよくできて、おまけに美貌を使う事もうまい。
策略もうまい。一介の村にここまでの切れ者が眠っていたなど意外以外の何物でもない。
彼女はインユェと違い、ヤンホゥを恋愛の対象としてみているらしいが、それを表に出したりしない賢明さを持っていた。
「書類は皆終わりました。大型の蟲の対策としての虫取り香の製造も順調だと報告が上がっております」
彼女の報告を聞き、彼は音楽を所望した。
「お前の楽が聞きたい」
「はい」
仕事の終わりに、フーシャの演奏を聴くのが楽しみだった。インユェを思い出す不思議な音調を、ヤンホゥは聞くのが好ましい。
フーシャは楽器を引き寄せ、異郷の旋律を奏でる。
彼女は本当は、インユェを探しに行きたいのだと、ヤンホゥは知っていた。
彼女の女官友達が、そういう言葉を聞いたのだとか。
フーシャは休みを与えると、単身山を登り、あの呼び寄せの音調を奏でているのだ。
三方を山に囲まれたこの陪都で、短い休日をすべてそれに費やしているフーシャを、彼は笑い飛ばせない。
自分にしかできない事で、あの娘をあきらめずに探そうという思いが眩しかった。
彼は戦慄に耳を傾ける。強いまなざしを連想させる強い音、彼女のきらめく姿を思い起こさせる流麗な調べ。
それを聞き、彼はフーシャを衝立代わりにする。
フーシャは要領がよく、立場を理解していて、衝立であっても通さなくてはならない女を選別するのがうまかった。
その立ちまわりの上手さは舌を巻く。こんな女が何で里で生まれたのだ、と言いたくなるほどフーシャはよくできた女だ。
その明晰な頭は、戦いぬく事に秀でたインユェと手を組む事で、村最強の二人組になっていたのだと、酒の席でフーシャがぽつりと漏らした事がある。
二人で一人前。片方だけでは問題が生じる。
そんな話を、酔いの回ったフーシャは語った。
きいと扉がきしみ、今日は女がやってきた。ヤンホゥは女を一瞥し、愛など欠片ものない行為を始めた。よく来る女だ。チュンリーだったか。
彼女は化粧を凝らし美しいらしいが、ヤンホゥはあまり興をそそられなかった。
子供など誰が生んでも同じ。後宮はそのためにあるのだから。
女を抱いた後は、彼は眠らない、寝首をかかれる危険性を知っているのだから。
後宮では誰も彼の子供を孕まない、恐らくこのヤンホゥは子供を作る能力が低いのだろうと彼は判断していた。
それでもいいのだ。
彼がどうなろうとも、世界は回っていくのだから。
「インユェ」
彼はぽつりと口にした。
まだあの女の笑顔を探している。
大事だと、愛していると、恋をしているのだと語ったら、あの女はどんな顔をして笑い飛ばしただろうか。
それとも、受け入れただろうか。
それすらもう、彼には分らない。
二年に一度の、宮城へ旅立つ日が近付いてきている。
父との対面を考えると、気は重くなった。
机にもたれて眠っていたらしい。彼は起き上がり、鈴を鳴らす。フーシャが手配していたのだろう女官が現れ、チュンリーを起こし連れていく。このヤンホゥの私室では化粧道具など何もないのだから、化粧を直す彼女はこの部屋で朝の支度などしない。
その彼女も都へ行くのだ。陪都の長とその筆頭妃は都へ儀礼へ向かわなければならない。
それを知っていても、この後宮の女たちは誰もが焦っているのだろう。
誰一人として子供を孕んでいない後宮など、存在理由がないのだから。
それもあって、チュンリーもこのような時でも渡ってきたのだろう。
その事を少し哀れだと思う。
だが後宮に入れられた女は、どうしようもない事情がない限り実家には返せない。ハィヨンは例外だったのだ。彼が我儘を押し通し、逃がしたあの女だけは。
ハィヨン、と彼は口に出さない。その金の髪の面影が、今はもう、インユェになっている。
それを彼はもう、認めていた。
「どうして……」
彼女はその呟きを聞いていた。
誰にも心を傾けないあの方が、愛しいと言わんばかりの声を上げて、その名前を呼ぶのを聞いた。
作戦はうまくいっていたはずなのだ。
あの女を追い出し、代わりに自分の息のかかった女を送り込む。
その女の有能さは想定外だったが、自分を追い出さないが、滅多な女は通さないという立ち回りの上手い女は、便利だった。
ティエンシャンという、自分の取り巻きの一人の宮女として送り込んでいて正解だったと、内心でほくそえんでいたというのに。
陪都公はその女を忘れていないのか。
酷くみじめで敗北感がのしかかってくる。
涙をこぼすのは彼女の心が許さず、彼女は気を取り直した。
あの女の事など、このチュンリーが忘れさせてみせるのだ。
「渡さないわ、わたくしの夫なのですもの」
彼女は一人決意をする。
彼女は微笑み、いつも以上に美しく微笑む彼女を見て、宮女たちはいい事があったのだろうと勝手に想像をする。
それでいいのだ。
一年の始まりの儀式の真冬のあの特別な日であっても、彼女は陪都公の傍らにいる権利を持っていたのだから、彼女が優遇されていると誰もが思っているだろう。
その思い込みすら、チュンリーは利用する。
えんじの衣装は彼女の戦闘服だ。その落ち着いた色をまとい、そう、愛するヤンホゥの髪の色によく似たその色は近しい者しか纏う事を許されない……をひらめかせ、これから都へ赴くのだ。
そこで皇帝に、彼の筆頭妃として認められれば彼女の地位は安泰で、誰も付け入る隙などなくなる。彼女の栄華は盤石になる。
それもあるから、彼女は決して躓いてはいけないのだと自分に言い聞かせていた。
父もそう連絡をよこした。陪都公の寵をえ続けよ。跡継ぎを産め。二親の言葉はいつも同じものだ。母に至っては孫の誕生のために、連日連夜社やあらゆる神に祈りをささげているのだとも聞いていた。
父のため、母のため、も、もちろん彼女の中にはあった。
だが彼女がひときわ求めているのは一つ。
陪都公が、彼女に向かって愛しげな表情でほほ笑んでくれる事、これ一つだった。
都へ行く道のいたる所で、何かひどく妙な匂いを上げる草が、燃やされている光景は、不思議な物だった。
「お前」
フーシャは車の中の陪都公に声をかけられた。
「はい」
「あの草は何だ?」
フーシャは周りを見回し、答えるべきか迷った。
彼女はその草の正体を知っていた。
だがそれを今ここで答え、なぜ知っていたのに言わなかったと責められる事も考えた。
「故郷の蟲除けの草の匂いとよく似ております。この地域では温かすぎてその草を見た事もありませんが」
彼女の回る頭は、自分が責められず、しかし嘘を言わないという言葉を紡ぎだした。
「そうか」
ヤンホゥは興味を亡くしたような声で、淡々と答えた。
陪都公は変わってしまわれた、とフーシャは思う。
彼と最初に会った時、その瞳に心がひかれた。
厳しいけれど、ふわりと柔らかく見えるその瞳に映りたいと、フーシャは最初思ったものだ。
ティエンシャンの所へ連れていかれ、インユェと再会をし、男に出会った時これは運命だとも空想のように思ったが、やがて自分の勘違いに気が付いた。
その瞳はあの幼馴染だけ向けられているという、簡単な事実に気が付いたのだ。
その瞳が柔らかくなるのは、幼馴染を見ている時だけ。ほかの時は、その内面の激しさと厳しさ、そして強さや知識を混ぜ込んだ強い雄の瞳をしていたのだ。
その瞳ももちろん好ましかったけれども、フーシャは数日で実感した。
あの目は自分には向けられない。
重要な役職に就けられて、心が躍った。もっとも近しい女性と言われて、浮足立たないほど彼女は枯れていない。
それでも、その理由さえ知ってしまうと、フーシャの物わかりのいい頭は簡単に結論に至ったのだ。
あれはインユェの相棒だから与えられた地位なのだ。
インユェという、たった一人の娘が誰よりも心を砕き信頼している自分だから、彼女の手助けになる役職を与えられたのだと、気付かないわけにはいかなかった。
哀しいなどとは思わなかった。
インユェの手助けになるのはうれしかったし、村でも二人は助け合ってきたのだから。
村と同じ事だと、フーシャは思っていた。
剣のインユェ。盾のフーシャ。役割は欠片も変わらないと、思っていたのは自分だけだったのだろうか。
フーシャはそう思ってしまう。
相棒は、何も言い残さずに消えてしまった。ある日突然、乳白色の指輪を残して。
その指輪が何のためのものだったのか、フーシャは知らないが、それを見せたとたん陪都公は顔色を少しだけ変えた。
彼に由縁するものだったのだろう。そしてインユェはそれをとても大事にしていた。
毎晩寝る前に指輪を外して、丁寧に絹の布で拭いて居た事を、フーシャは知っていた。
それすらおいて、全部残して、インユェは消え去ってしまった。
村だったら相談をしてくれたはずなのだ。そこまで思い悩むならば、頼ってほしかった。
そして何より。
「手遅れになる前に、あの子を……」
彼女は小さく呟いた。
フーシャはただ、領主に言われて陪都に来ただけではない。目的があった。
それは里の重要な掟で、何よりも先にこなさなければならない重要な掟だった。
フーシャはそれを思いだした。
「あの子を人間に戻さなくちゃ……」
彼女は知らず口に出していた。
インユェを、人間に戻す。
それが故郷で与えられた密命だった。フーシャでなければ誰もできないと、村全員の意見が一致したから、彼女はこの地にやってきた。
それを知る人間は、この陪都には誰一人としていない。