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4-9

「インユェがいない?」

執務室に無礼にも飛び込んできたのは、青色の上衣を身に纏う美貌の少女。

彼女は突然扉を開けて中を一瞥し、蒼白になったのだ。

「インユェが、いないのです、どこにも、あの子が山に入るわけがないのに!」

女、フーシャは真っ青な顔をしている。

それはどうでもよかったのだが、ヤンホゥは怪訝な声を隠せなかった。

何故この状況で、あの女がいなくなるというのだ。

あの女は自分で言ったではないか。

このヤンホゥが、要らないというまでそばに居続けると。

そしてこの自分は、要らないなどと考えた事もないというのに。

何故いなくなる。

「迷子の可能性は」

「呼び寄せの音調に全く反応がないのです」

「呼び寄せの音調?」

ヤンホゥは怪訝な顔で問いかけた。一度も聞いた事の無い言葉だ。それはいったい何なのか。

彼の疑問に、フーシャは答える。

「ある特定の音を喉から出すんです、この宮殿内程度だったら、あの子の耳なら聞こえるはずなんですが」

フーシャ自身も混乱しているのだろう。滅多にない動揺の仕方をしている。

「どうしよう、あの子を山に行かせてはいけないのに」

その声は何かを恐れているように聞こえた。いったい何からか。

分からないまま、ヤンホゥはフーシャに淡々と命令を下した。

「お前は、あれが牡丹に戻ってくる事を考えてそこで待機していろ」

「はい」

フーシャは蒼白な唇で答えた。

彼女が出ていく。それを見送る官僚たち。

「あの、陪都公。あの娘が消えたのでしょうか」

「そのようだな」

ここにいる官僚はそれなりに仕える奴ばかりなので、ヤンホゥは隠す事をしなかった。

「それはやはり、今までの後宮での嫌がらせを苦にして……」

「あれがそんな人間の神経をしていてたまる物か」

ヤンホゥは吐き捨てる調子でそういった。

そうだ、あれが後宮での今までの嫌がらせを苦にして出ていくようなか弱い女ならば、このヤンホゥは……

彼は仮定形の未来を振り払った。

何がどうなったと言っても、あれは自分のもとに来た。そして自分の衝立になると明言した。

彼が出ていけと言うまで、決して出て行かないといったあれがどこぞへ行く理由がない。

「あれは人中の蟲だ」

きっぱりと言い切る。怪訝そうな顔の官僚たちに、意味が通じたと思えない。

通じずとも構わない。あれはあれで、このヤンホゥが使えると思っている手駒の一つだ。

あれには今もなお居てもらわなければ困るのだ。

あれは、身内の毒をあぶりだすのに都合がいい。

あれをまだ使わなければならないというのに、何の気まぐれを発揮したのだあれは。

あれが戻ってきたら厳しく言っておかねばならない。

そんな事をヤンホゥは考えた。

あれが出ていくわけがない。

あれは言葉を違えない。

それはあれの誇りに由縁するもので、あれが言葉を違えた事は一度としてない。

時折事実を間違えて、おかしな事をすることはあったが。

インユェが、このヤンホゥのもとを去る理由など、何一つとしてない。

彼は執務に没頭した。この時期は収穫高などを考えなければならないので、仕事はいくらでもあるのだ。

それをどうにかしなければならない。彼はもの言いたげな官僚たちを一瞥し、仕事を進めた。

休憩を取ろうと思い、顔を上げると、思いつめた顔の官僚が一人いた。

「どうした、ワンロィ」

「公に言おうと思った事はなかったのですが……あの娘がいなくなったので言わせていただきます」

「何をだ」

「公は、あの娘が必要でしたか」

「何を当たり前の事を言う」

ヤンホゥは、官僚ワンロィの言いたい事が分からなかった。

彼にしては珍しく。

「あの娘のやってきた事を我々は知りません。あなたがおっしゃってくださらないからです。ですが、あの娘は別段いなくとも構わないのではありませんか」

「何を」

意外な事を言われた気がした。ヤンホゥは言葉の続きを促した。それに呼吸を整えるワンロィ。

「あの娘がやっていた給仕や取次は、皆、フーシャ殿がはるかに出来もよく行っているではありませんか。あの娘は今では執務室で遊びほうけているばかりでしたでしょう」

それも事実だ。だがヤンホゥは頷かなかった。

あの女の、金のまなざしがあると思うと、彼は手加減や適当に何かをしようと思う気が削がれたものだというのに。

あの女はいるだけでいいと思う事実を、ヤンホゥは内心で驚きながら受けいれた。

そんな彼の心中に気付かずに、ワンロィは続ける。

「あの女など、あなた様が気にかける女ではございません。いったい何のためにあなた様が連れてきたのかも知りませんが、我々官僚一同はそう判断しています」

「……ほう」

彼らは知らぬのだから仕方がない、あれがいるだけで、後宮の中での女たちのもめ事が減った事など。

悪意は皆あれに向かったのだ。

あれは宮中の悪意を全部あのか細い肩で受け止めていたのだ。

それすら気にも留めず、あれは二本の足でしっかりと立っていた。

後宮の平穏のためにも、あれは居なくてはならない。

あれは疲れて遊びにでも出かけたのだろう、と彼は考えていた。

なぜならばそれだけ、あの娘を信じていたのだ。

決して出て行かない、あなたのそばにいる、と曇りも澱みもしないまなざしで言い切ったあの女が、その言葉をひるがえすわけがないと信じ込んでいたのであった。

彼がそこまで信を置く人間などいた事がなく、彼女は初めての存在でもあった。

あれは裏切らない。あれは居れば都合がいい。あれは便利だ。

これからも使い勝手のいい道具のように使っていくつもりだったというのに、なぜあれが役立たずだとこいつらは言うのか、それは知らないからだろうなと、ヤンホゥは考えた。

だが教えるつもりは毛頭ない。この考えは自分の頭の中だけに収めておけばいい。

彼は書類を手に取った。

「あまり我儘な事をなさいませぬように」

「あれはお前たちにあずかり知らぬ事で役に立っていた。そのうちひょっこりと帰ってくるのがあれだろう」

彼は書類に目を通し始めた。




彼は一日の執務を終えて私室に入った。政務は待ってくれないのだ。常に山のように案件はあり、それをさばいていく技量が必要である。

それを彼は持ち合わせていた。

しかし、あれがいないと世界があまり美しく見えないものだな、と彼は客観的な心で思った。

あれが……インユェが近くにいるだけで、世界の色は一変した。

それがいつからだったのかなど、彼は意識した事もない。

だが事実として、世界の色は瞬くように変わったのだ。

それも美しく色鮮やかに、煌くように世界は美しくなった。

彼は彼女に出会うまで、田畑の美しさに気付かなかった。

あれは気まぐれに連れて行った光景を見て、目を瞬かせた。

その金の瞳がきらきらと星よりも輝き、その目を見て、あの女がきれいだと田畑を称賛したその時から、彼の世界にはまた一つ美しい光景が増えたというのに。

彼はその理由を知らないし、その変化への名前を付けた事がなかった。

それはいつからだったか。疲れた頭で彼は思いだそうとした。

寝台に寝転がり、目を閉じ、彼はそのきっかけをさらおうとした。

そうすると、屋根の上で一人、蛮族衣装を身に纏った女が現れた。

そうか。

彼は納得した。あの時か。

初めて見たあの時、あのひどい悪趣味な色に染まりあがった蛮族衣装を身に纏った、冠か何かのように髪を夕日にきらめかせたあの女を見たあの時か。

いいや、違うと何かが否定した。

ではいつか。何故か。

彼の頭は思考の渦に入っていく。その時だ。

浮かび上がったのは、伸ばされた細い手だった。

細く華奢に見えていても、その手は傷跡だらけの剣だこのある爪の割れた手だった。

それが彼の腕をつかむ。視線がぶつかり合い、あれの瞳に漣が立った。

その目が彼の心臓を縛ったのだ。

なんだこんな簡単な事なのか。

彼は一人笑い、あれはすぐに帰ってくると思った。

このヤンホゥの打算まみれの心を受け止め切れる女など、あの女しかいないのだから。

フーシャはそうはなりえない。あの小娘は弱すぎる。

確かに頭もよければ機転も聞き、女どもと一対一でやりあう度量は大したものだ。

だがあれには劣る。

彼のそばにあるためには、何よりも強いという事が必要なのだから。

役職に任命したのは、その働きを形にしてやろうという心遣いからだ。

そして何より、インユェの相棒という肩書が、彼の信じる由縁だった。


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