4-8
息が苦しかった。山を駆け上るなど、この身にはとても容易かったはずなのに、この体は苦しいと訴えかけている。
インユェは誰一人足を踏み入れない険しい山を、一人のぼっていた。
片手に握りしめられたのはあの手紙で、それ以外縋るものなど何もないような調子で、握っていた。
片手が使えなくとも、この程度の山を登るなんて簡単だったのに。
彼女は弱り切っていたのかもしれなかった。
体がではない。
心が。
彼女を彼女たらしめていたはずの、その鋼の心が折れたのだ。
それはもうぽっきりと折れてしまったのだ。
彼女は泥まみれになりながら、山を歩くさなかに折れた簪を髪にいまだ絡めたまま、雨の中道なき道を進んでいた。
ヤンホゥが欲しかったのは。
彼女は今でも考える。あまり賢いとは言えない頭だが、一生懸命に考える。
そうしなかったら気がおかしくなってしまいそうで、それが恐ろしくて、彼女は考える。
ヤンホゥが、あの人が欲しかったのは。
牙だ。蟲狩の牙。最強の存在。
衝立になりうる強さを持ったもの。
牙とは何ぞ。
北の山の頂点、誰も冒せない狩人の王。
毒も効かなければ、人の悪意も跳ね返す鋼の心を持った、人であると思えない存在。
その名前を亡くした自分は、牙ではない。
その名前を喪ったインユェは、蟲狩とも呼べない。
村ではそういう決まりだったのだ。
牙の誉れを失ったという事は、それは村での死を意味する。
死んだ蟲狩を、求めるような無駄な事は誰もしない。そして牙銀月は、死んだも同然なのだ。
そう考えが、どうしても行きついてしまう。
彼女は何度も繰り返した、心を落ち着かせる呼吸法を取った。昔は有効で、ずっとずっと昔、誰かに教えてもらったその呼吸法でも、彼女の水の中にいるかのような息苦しさを改善はできないでいる。
ヤンホゥがいらない自分なぞ。
彼女は雨の中、滴る水を邪魔だと思いながら、滑る足を厭いながら、歩いた。
都へ行かなければ。
きっとそこなら、そこなら。
居場所がある。きっとある。
それはすがった思いだった。居場所などないかもしれない、とは考えたくないのだ。
そこでも居場所がなければ、彼女はもうどこにも、彼女を求める場所がない。
そうしたら、死ぬしかないのだ。
牙だったという最後の最後残った矜持を示すために、死ぬほかないのだと、インユェは心底知っていた。
牙は皆のためにいる。
皆のためにならない牙は、死んだ牙。
生きながら、死んだ牙と同じものになるなど、彼女の誇りが受け入れない。
彼女は今でもなお、誇り高かったのだ。それを彼女自身が気付いていないだけで。
彼女は足を滑らせた。そんな事は足の時代に数回しか経験した事の無い事だった。
足なんて滑らせた事は、ここ数年一度もなかったのだが。
足はぬかるみと落ち葉に滑り、彼女は無様に膝をつき、顔を泥で汚した。
こんな奴。
彼女は立ち上がりながら嗤った。
こんなどうしようもなく使えなくなった奴は、あの人の元には居てはいけない。
足かせになるだけの、女になどなれない。
立ち上がり、片腕で顔をこすり、彼女はひたひたと歩いた。
あの男はいつでも来ていいと言ったのだから、いまから自分が言っても許されるのだ。
だから行くのだ。
そこで、誰かの役に立つことをさせてもらいたい、なんだっていい。
牙として生きられなくなった愚かな女が、出来る事をさせてもらいたい。
溝さらいだっていい。肥溜めの掃除だっていい。
誰かのうっぷんを晴らすための八つ当たりの道具であってもいい。
役に立てるものになりたかった。
こんな腕の堕ちた狩人を求めるわけがないから、そういう、どうしようもない仕事しかできないだろうと、彼女は思ってまた笑った。
ざわりと空気が揺れ、蟲が徒党を組んで現れた。群れるのは狼属性のある蟲たちで、その蟲の数を彼女はすぐに数えた。
十か。
多いとはいえるだろう。
だが牙にとっては敵でも何でもない。
それでも、牙でなくなった自分にとっては厄介な相手だ。
彼女は息を吸った。
できるだろうか、この前まで迷った事もない事を考えた。
考えて彼女は、長く遠吠えをした。強弱をつけ、音量をかえ、旋律のように紡いだ。
狼斑猫は、ざわりと揺れ、一様に去っていった。
なんだかそれが笑えてきて、彼女は笑った。
その声は泣きそうに揺れていたが、誰も聞いていないからそんなものは誰も知らない事だった。
山は延々と続くようで、彼女は泥まみれになりながら、その絹の衣装を泥色にまみれさせながら、突き進んだ。
道を行こうとは考えなかった。道には関所という物があって、交通を支配しているとヤンホゥが教えてくれたのだ。
交通手形を持たない奴を、お金を払わない相手を、通してはくれない場所だとも聞いていた。
お金を持っていない自分は、強行突破以外ありえず、それをするならば山を進んだ方がいい。
人を殺すより、蟲を対峙した方が心が休まる。
いつだってそうだった。蟲との殺し合いのさなか、自分の心は晴れ渡り、きらめき、世界が一層美しく見えた。
蟲は強く、その強い相手と渡り合える己が誇らしかった。
……今はそんな事を思えないけれども。
山の木々は静寂のまま立ち尽くしている。
その生え方から、彼女はそろそろ山が終わると判断した。人里に近い場所とそうでない場所とでは、植生が違うのだ。
そんな事も村で習った。
あの人に習ったのだ。
インユェはふっと頭をよぎった言葉に、また息が苦しくなった。
あのひとも、こんな気分になったのだろうか。
牙を降りたあの人。人知れず村を去ったあの人。
生きてはいないだろう。あの人は不治の病を胸に抱えていたのだから。
彼女は座り込んだ。時間など関係なくただ歩いていたからか、体は疲れていた。
それでも彼女は、蔓を断ち切り、そこから滴った甘い水を飲んだ。この蔓が生えていたのは運がいいだろう。
山によっては一本も見つからない蔓なのだから。
彼女は山を歩きながら手に入れた、黒金剛の破片に木の皮を巻き、即席の小刀として使用していた。
これくらいはお茶の子さいさいなのだ。
彼女は腐った木をほじり、中にいたよく肥えた虫を口に放り込んだ。
甘いし香ばしい。木食い虫の類の味は、どこでもあまり変わらないのだろう。
飢えが少し満たされた。
そこから十分ほど休み、彼女は立ち上がった。
雨はもう長い事降り続いている。
土砂崩れが起きなければいいのだが。
そんな事をちらりと思った。
「陛下」
宦官の一人が、困惑の極みとでも言いたげな顔をして、現れた。
ダーワンは視線をやり、決済済みの書類を眺めて問いかけた。
「なんじゃ?」
「あの……陛下の花押の入った紙を持った女が現れました」
ダーワンはそれを聞いても驚かなかった。
そんな女はそれなりにいる。公的な花押を押した手紙を、彼は後宮の気に入りの女たちに贈るのだ。
だからそれを持った女がいると言われても、驚く理由にはならなかった。
しかしそこからが、宦官の困惑した理由だった。
「柘榴なのです」
耳を疑った。柘榴の花押。それが意味するのは一つだけだ。
「柘榴の、花か?」
「実です。赤い朱肉で柘榴の押された紙を持った女が、宮殿の入り口に現れ、これを書いたお方に会いたいと……」
柘榴の花押。それは私的な相手に贈るものだった。
ヤンホゥの母以外に、送ったのは一人きり。
ダーワンの頭の中で、あの光り輝く金の髪がよぎった。
そして次に思い浮かんだのは、息をのむほど瞬く、あの黄金の瞳だ。
桜色の唇が、大胆なほど微笑を浮かべる。
あの女が来たというのか。
何故?
ダーワンが黙ったのを見て、宦官の一人は得たりと頷いた。
「陛下の花押をねつ造した輩でしょう、今すぐに取り押さえましょう」
「いや……」
ダーワンはなぜ彼女がここにこれたのか、それが分からなかった。
何か策略があるのかもしれない。
彼は少し考え、言った。
「動けなくして、連れてくるのじゃ」
「御意」
宦官はそれが当然だと思ったようで、こくりと当たり前の顔をして頷いた。
そして去っていく。
それを見送り、彼は久しぶりに心が沸き立つのを自覚した。
翼をもがれた蝶のようだ、とダーワンは思った。それも金色の誰ももぎ取れないはずの翼を、もがれて地に落ちた蝶々。
それは痛ましい事もあるが、同時に退廃的ともいえる美しさを感じさせるものだった。
しかしそれは、この女には決して見られないはずのものだった。
彼があった彼女は、喋った彼女は、強い心が外ににじみ出ていて、同時に無知ゆえの無邪気さやしたたかさが現れていた。
だが、今の彼女は。
ダーワンは驚きを隠せなかった。
折れて曲がる純銀の簪。それは見事な造形であるがゆえに、その壊れた無残なさまが目についた。
泥にまみれ汚れきった絹の豪奢な衣装。これもまた、元の美しさや貴重さを考えれば、こうも泥にまみれ泥以外の何かの体液が付着し、ところどころ酷く裂けているのだからひどいものだ。
裸足で歩いていたのだろう、草の緑に染まったつま先の足には、少し傷がついていた。
着の身着のまま出てきたと言わんばかりの様子は、彼女にただならぬ事があったのだと示すようだった。
そして。
何より、その目が違っていた。
ダーワンは戦慄のようなものを覚えた。
この女は、陰など感じない女だった。いいや、陰すら当たり前のように従えて。どんな明かりの元でも輝く、性根の明るさが瞳に現れていた。
そして生き生きと輝いていた黄金の瞳は、今は暗く陰っていた。
そんな言葉はふさわしくない。陰るなど当たり前の表現では言い表せない。
そんな目をしていた。全てを失った瞳とでもいえばいいのか。
彼女の根本を失ったようだった。
その瞳が示す彼女の崩壊した様が、彼女を負の美しさで彩っていた。
凄絶に美しい。目を離せないほど美しい。
だがこれはあまりにも、哀しい。
哀しく、愛しい。
この女に、外衣を着せかけてやりたくなった。彼は立ち上がり、彼女を縛り上げる武官たちに去るように命じた。
彼らは怪訝な顔をした。
「陛下……?」
「なに、これは我の恩人でな。無礼なふるまいをしてしまったものじゃ」
それ以外の疑問を許さないと、声の奥に示せば、武官たちは下がるほかない。
彼らが去ると、彼女はやっとダーワンを瞳に映した。
そんな彼女に、ダーワンは外衣をかぶせた。
「寒いじゃろう。温かい物でも用意させるか?」
「……皇帝、っていったっけ、あんた」
「言ったのう」
「おれに、居場所をください。どんな事だってするから」
「ヤンホゥが追い出したのか?」
「ううん、ちがう、でもおれは、あの人の役にはもう立てない」
瞳がさらに暗く澱む。
ダーワンは、宦官を呼び、彼女を風呂に入れるように指示をした。
彼女の指先は、この秋のさなかでも氷のように冷たく、冷えた体では碌な事も思い浮かばないだろうと彼は判断したのであった。