4-7
ほかの女性たちも、後宮に数多いる、ヤンホゥの妃たちも、こんな思いをしてきたのだろうか。
ふっと魔がさしたように思ったのは、そんな事だった。
衝立と称してわけのわからない女が現れ、当然の顔をしてヤンホゥを独占する。
それがヤンホゥの意思だと言って、会いたいのに逢わせない。
そんな女は消えてしまえばいいのに、とかすかに思った。
他人からしてみれば簡単な話だ。ただインユェが気付かなかっただけ、そして理解が追い付いていなかっただけ。
唇から唸り声が漏れた。
そうか、そうだったのか。
「おれはなんてことをしてきたんだろ」
これと同じ、喉を潰し声を消し、耳をふさぎ音を拒否して、相棒と主の密会を否定したがっているこの思いと同じものを。
ほかの妃たちも抱いていたのならば。
それはいかような苦痛だっただろうか。
彼女は馬鹿だが阿呆ではない。もの知らずだが、それは村という閉じた空間にい続けたからそうであるだけなのだ。
そしてその絶対的強さを持っていたから、変わる事無く今、このように存在しているというだけなのだ。
村を出た彼女は、村にいた時と同じではない。
その彼女は当然の回答を導き出した。
「おれはなんてことをしてきたんだろ、こんなひでえこと」
彼女は気付きもしなかったどころか、気付こうとも思った事の無い自分にあきれ果てた。
これは因果応報、自業自得だ。
彼女たちにしてきた事と、同じ事が自分にやってくるまで、分かろうとも思わなかった。
こんなにも苦しくなる事をしてきたなど、自分の残酷さを目の当たりにしたような気分にもなる。
そして自分の非情さを見せつけられた気分にもなった。ああおれは、こんなに残酷で非道なやつだったのか。
そしてなおさら思った。
ヤンホゥに、自分はもういらないのだと。
だってそうだ、蟲の知識ならフーシャが数多に持っている。実戦経験こそもっていないが、フーシャの知識はものによってはこの自分を上回る。
何でもよくできる。そうだ、何でもかんでも、出来過ぎる位によくできる。蟲を狩る事や、戦う事以外に関しては。
こんな、蟲を狩る事以外能のない自分とは、大違いの彼女。
そんな彼女が陪都公のいる場所にきて、ヤンホゥの役に立っている。
ならば自分はいらないだろう。
こんな、どうしようもない欠点ばかりの女なぞ。
それは今まで思った事の無い自虐的な考えだった。
自分は絶対に必要だと、思うその心の強さが牙の強さだったというのに、それすらおれは失ったと、インユェは自虐的に笑った。
必要だと思えなくなる事がこんなにも、心を弱めるのか。
……村に戻りたい。
村ならば、居場所は。
そう思って彼女は思いだした。そうだ、村にも帰る事は許されていない。
村に古くから伝わる掟がある。
牙は、代替わりをしたら牙を名乗る事は許されないという掟だ。
牙の矜持をすべて捨て去る事が、掟だった。
それには理由があって、大体牙が代替わりをするのは死ぬからだ。
死ぬまで代を替えないと言われるほど、牙の代替わりは死によって行われてきた。
そして今、インユェは牙ではない。
弟のどちらかが、牙となった事を聞かされたから間違いないだろう。
村にも戻る事は出来ない。
牙はその人間の強さの象徴だった。
牙はその誇りを胸に抱き、強くあるための、名前だった。
それを持っていた人間が、山に籠り続け人とのかかわりを最低限にしてきたような奴が、普通の村人に戻る事は出来ない。
そして、先代の牙と当代の牙がいるなど、村では混乱を招くものだ。
どちらに従えばいいのか、わからなくなるからだ。
あの空間で、いらない問題は避けたいだろう。
それを考えると、村にも戻れない。
インユェはあの村が好きだった。
それもあって余計に戻る事は出来なかった。村に、あの場所に、災厄を持ち帰りたくない。
おれのいられる場所はどこだろう。
インユェはそんな事を考えた。
この際、牙ではなくとも構わない。牙の力を求めていなくていい。
いていいのだと、言ってくれる場所が欲しい。
この陪都でなくていい。
いっそ陪都から遠く離れた方がいいかもしれない。
インユェは耳に押し当てていた手を放し、胸のあたりを力いっぱい握りしめた。服がよれてしわになるが、かまわない。
そんなのに頓着などしない。
それでもインユェは、じっと動かなかった。
ヤンホゥが動くなと言ったのだ。だから今はそれに縋り、ここにいる事がいる意味だと必死に自分を納得させ、目を閉じた。
耳から手を放した途端、声が聞こえてきて苦しくなる。
それは笑い声だった。フーシャの笑い声。そして続くヤンホゥの楽し気な笑い声。
おれはあんなふうに、あの人と笑いあった事なんてない。
その事実が、余計に彼女の、いつの間にか弱くなってしまった心に突き刺さった。
これでは牙足りえない。牙には相応しくない。
牙は揺るがない心が必要だというのに、自分はなんて弱っちくなったのか。
そんな事を思い、インユェは自嘲の笑みをこぼした。
なんだ、こんな簡単な事か。
これだけ弱った自分は、もう……
「牙には戻れねえじゃん」
それは純然たる事実以外の、何物でもなかった。
牙の自分という事で自分の形を作っていたインユェにとって、それは自己の崩壊でもあった。
牙たる資格を失った自分は、もうどこにも寄る辺のないただの女でしかない。
それは喉の奥底を焼き焦がして、心臓のあたりをひどく寒く凍てつかせ、そして内腑を抉り出すような苦しさがあった。
呼吸すら怪しい気がした。
彼女はそれでも、助けてなどと口には出さなかった。
彼女は助けてと、誰かに助けを呼んだ事など一度もなかったゆえに、それを思いつかなかったのである。
その苦しさを抱えたまま夜が明け、ヤンホゥが戻ってくる音が聞こえてきた。
それを確認し、インユェは立ち上がった。
いつも通りの調子を作り、扉の向こうに声をかける。
「ヤンホゥ様、戻ってきましたか?」
「ああ、インユェ。苦労を掛けたな」
「いえいえ、この程度で音を上げる……」
牙じゃないと反射的に言いかけ、黙った。
名乗ってはならない名前となっているのに。
自分はみっともなくその名前に縋るのか、何と無様だ。
「どうした?」
ヤンホゥが扉を開けて、顔を覗き込んでくる。
それにしかめ面をしたインユェは、その彼から漂う香りにまた、胸が痛くなった。
フーシャの好んでつけていた、練り香の匂いだった。
それは村の誰もが思い思いに調合する、蟲除けの練り香の匂いだった。
ある一定の配合で薬草をすりつぶしてを蟲の油に混ぜると、それはその後どんな匂いになっていても、蟲が避ける練り香になったのだ。
インユェはつけた事の無い物で、でも村では普通につけている物だった。
この匂いが移るほど、フーシャと近くにいたのか。
そう思うと、胸の奥が焼け焦げるように痛んだ。
これがもしかして、嫉妬という物なのか。
こんな思いを人にさせるなんて、酷い気がした。
ならば自分はどうなのだと、今までの自分を顧みたインユェは愕然とした。
自分は、こんな思いを人に与えていたのか。
それはひどいものだった。許していいものではなかった。
そうか自分はこんなにも、人でなしだったのか。
そんな事すら考えた。
「どうもしませんよ、おれはお腹がすいて眠くなりました」
いつもの調子はひどく簡単にできた。取り繕うなどこのインユェが必要ではないと思ってきたものだと言うのに。
ああ自分はこんなにも変わってしまったのだな、などと思えば内心で大笑いをしたくなった。それは自嘲の笑いだったが。確かに笑いたくなった。
「そうか。中へ入れ、茶でも用意しよう」
「いりませんよ」
インユェはいつもならば、大きく頷き茶菓子の要求をするというのに、初めてそれを断った。
言ってからしまったと思った。
これでは何かありましたと言っているも同じだ。
当然、ヤンホゥも気付く。気付かなければおかしい。
彼は怪訝な顔をした。
「インユェ? どうした、今日はそこまでしつこい女でもいたのか?」
「いいえ、いなかった。そうです、いないから全然疲れてないんです。だから早く寝たいんです」
言い訳はするすると出てきた。
事実も入っていた。確かに自分は眠りたかった。
今日は眠って眠って、目が覚めなければいいと思っていた。
そんな彼女を見て、ヤンホゥは怪訝そうな顔を続ける。
見ないでくれ、おれの心が見透かされるなんてあってはならない。
インユェは必死に自分の立ち方を意識した。
そして一度、ヤンホゥを見やって、持っていた棍を肩に担ぐと、いつもの調子で言った。
「おやすみなさい、ヤンホゥ様」
そして足取りも軽やかに、牡丹殿を目指す。すぐ近くのそこには簡単に到着する。
そこでインユェはてこてこと歩き、扉を開けた。
中ではお茶の匂いがした。それは陪都のお茶の匂いだ。
そして……ヤンホゥがことのほか上手に淹れるお茶の香りでもあった。
そうか、フーシャはあの人にお茶まで淹れてもらえるのか。
そんな事を思うと、自分だけと思い込んでいた事が無性に恥ずかしくなった。
フーシャはと言えば、眠るための布団の上に座り、何かを撫でていた。
インユェの帰宅に気付かないなど珍しい。
「フーシャ」
呼びかけた。そうしても彼女は気付かない。
彼女が見ているものは何だろう。そう思ってインユェは、近付いた。
よく見えるものだった。
それは衣装だった。きれいな青紫の染が入った、それはきれいな衣装だった。
こんなにきれいな衣装見た事がない。そんな事を思わせるほど、衣装はきれいだった。
決して華美なのではない。地味かもしれない。
色味としては地味だ。
だがこれがとても高価なものだという事は、分かった。
底なし青だ。三つ目牛の染料。
金貨一枚の洒落ならない価値の、染料がたっぷり使われている。
そうじゃなかったらこの青紫は出ない。
贈られるもので、人の価値を判断した事は一度もないインユェだったが、これはとんでもない事だと思った。
つまりこんな物を与えてもらえるほど、フーシャはあの人に認められたのだ。
そういう事はつまり、やはり。
おれはもう、いらない物なんだ。
いいや。
もしかしたら、もしかしたら。目くらましとしてはいてほしいのかもしれない。
フーシャに災厄が降りかからないように、その身代わりとして、おれはここにいるのかもしれないと、本気でインユェは考えた。
「フーシャ」
もう一度呼びかけた。
するとフーシャが顔を上げ、あ、と驚いた顔をした。
いきなり脇に立っていれば驚くだろう。
「なんで呼んだのに返事してくんないんだよ」
いつも通りのふくれっ面を見せる。
「ごめんね」
「謝る事じゃないだろ」
「そう?」
「そうそう。大体いつもの事じゃん、おれの声が聞こえなくなるの。前は刺繍してる最中でぜんっぜん聞いてくれなかっただろ」
思い出話をすれば、彼女は頷いた。
だが心は衣装に向かっているらしかった。彼女の目がそう語っていた。
「どうしたの、その青、底なし青の色じゃん」
「ヤンホゥ様が下さったの」
「へえ、いいものもらったね。こんなにたくさん青を使えるのは、お金持ちだ」
「……これを着てほしいと言われたの」
「ふうん。ね、着てみてくれよ、おれ見たいな」
いつもの自分なら言うだろう言葉を重ねれば、フーシャは赤らめた顔で言う。
「これを身に着けるという事は、陪都公の最も身近な女性のあかしだと言われたの」
それを聞いたとたんに思った。
分かってしまった。
ああ、やっぱりそうか。もう。
おれの居場所はここにはない。
「よかっただろ、フーシャはあの人の恋人になりたかったんだから」
震えない声を出すのは、唯一残った、ヒトとしての意思だった。
ここでみっともなくわめくのは、自分を許せそうになかった。
だから言ったのだ。
笑顔になって、もはや修復不可能なほど痛めつけられた心を隠し、最愛の相方を祝福する事が出来なくてどうする。
そう念じた。
「こんなにもうまい話があっていいのかしら」
「あっていいだろ、だってフーシャは今まで一生懸命に頑張ってきたんだから」
それは間違いなく本心の一部だった。
フーシャに幸せがあってなぜいけない。
フーシャが笑える未来が存在して、どうしていけないという?
インユェは大真面目な顔と声で言う。そう、インユェは
彼女の幸運と幸せを、心の底から祝福し……
――――心の底から、嫉んだ。
うれしそうに笑うフーシャは、照れた調子で着替えて見せてくれた。
天の川色の髪はそれはきれいな青に映え、その瞳は青色とともにあるからか、一層深い色に見えた。
底なし青の衣装は、星が散っているようなきらきらとした刺繍がいくつもちりばめられていた。
それはフーシャに完璧に似合う物だった。
彼女のためにあつらえられたんだろう。そんな事を思った。
そういった衣装は贈られてきた事がない。
ここでも扱いに差があったらしい。
最も、衝立の見た目が悪ければなめられるから、豪奢な衣装をくれていたのだろう。
見方を替えれば裏が読める。
あの衣装たちは、おれのために与えられたものではなかったのだ。
あれらは、衝立のために与えられたものだったのだろう。
「どうかしら?」
フーシャが問いかけてくる。
「似合うと思うぜ、心の底から」
それは事実だった。本心だった。たとえどんなに嫉んでいても、きれいで似合うと思うのは、隠せなかった。
寝ると言って、入れ違いに仕事に行くフーシャを見送った。
そして布団に転がり、インユェはそうだ、と思った。
どこかへ行こう、どこか遠くへ。
そんな事を思ったら後が早かった。
彼女は立ち上がり、牡丹殿を出ていこうとした。
そして、思いだした。
彼女は机の引き出しに大事にしまい込んでいた、あるものをひっつかみ、今度こそ全力で走り出した。
どこか遠くへ行こう。
いつでもきていいと言ってくれた、あの男の所へ。