4-3
「もう雨漏りはしないだろう」
何がおかしいのか、ヤンホゥはインユェにそういった。彼女はそこにある何かしらの含みを拾えない。彼女にそういう技術はない。
覚えろと言えば覚えるかもしれないが、それを極めるまでには軽く三年はかかるだろう。
何しろ我が道を突き進むことを選んだ牙であるがゆえに。
「雨漏りひどかったんですよね、よかった」
インユェはそう言ったあと、問いかけた。
「また随分と改築? しましたね」
「そうだ。お前が暮らしやすいようにな」
「おれが?」
「ああ。中を見れば気に入るだろう」
つまりこの建物が、インユェのために改築されたらしい。
それともこれが、衝立としての対価の一部なのだろうか。
インユェはそれを思った後言った。
「おれ、これに見合う働きしてない!」
これを聞いたヤンホゥが噴出した。豪快に笑う。けらけらと何がそんなにおかしいのかよく笑う。
その笑いを聞いて、実は様子をうかがっていた宦官たちが戦いた。
陪都公がここまであけすけに笑うなどめったにない。宦官たちはそこまで知らない。
いいや、ここまでくると明日槍が降るのではないかと思うほど高らかで、のびやかだ。
しかし笑い声を聞いていて、それの対象であるインユェはといえば大まじめだった。
「だってそうでしょう? おれこんな家もらえるほど働いていない」
「お前な……お前は自分の働きを過小評価しすぎていないか?」
ヤンホゥはその燃え盛る赤色の目を、インユェの金月の目に合わせてくる。
インユェはそれを見てどきりとした。
それが愛だか恋だかの作用だということは教えてもらった。
実に不便なものだ。どこかに捨て去れないものだろうか。
守るために恋の感情はいらない。愛などいらない。
だってそんなものがなくったって、おれは守りたいものをみんな守ってきたのだから。
インユェはそんな事を思って、彼の目を見返した。
やはりというべきか、自分はこの目に自分が映ると幸せになるらしい。
なんて単純なのだろう。
もともと単純な性質をしている自覚はあったが。
しかしこれは弱点になりうるな、衝立としては面倒くさい欠点だろう。インユェはそう判断した。
彼女にとって弱点は直さなければならないものだ。それが生死を分ける事がよくある。
山ではそうだった。
今までは恋だの愛だのと認識してこなかったがゆえに、ただこの人の視界に入るのが幸せだと漠然と考えてきた。
だが名前を一度つけてしまうと、この感情たちは加速するらしい。
加速されても困る。いつかヤンホゥは好ましい相手を見つけて、妻を選んでインユェにお役目を終わらせるものなのだから。
まったく、因果な感情を手に入れてしまったものだ。名前がつく感情はまったくもってろくなものじゃないと内心で思いつつ、彼女は笑った。
彼女がどれだけ心の中でその名前の付いた感情を嫌っても、笑顔は出てくる。相手を見てうれしいと思い、相手に見られて幸せだと笑顔が浮かぶのもまた事実だったのだ。
「おれは図り間違えませんよ」
「いいや、図り間違えているな」
ヤンホゥはゆっくりと言った。
インユェは首を傾けた。そして問いかけた。疑問は解消しておくに限る。
「おれはあなたの衝立としての役割をあんまり上手にはしていない」
「お前は皇帝を救った」
「ああ、それですか?」
インユェにとってみれば些事でしかない事だ。
皇帝を守れといったのはほかでもない、ヤンホゥなのだから。
「あなたの信頼を裏切るくらいだったら、二度と顔を合わせない」
インユェは言い切った。
その言葉の一直線さに、ヤンホゥが目を丸くしたほど、インユェの言葉は苛烈な色を秘めていた。
「あなたの信頼を裏切る事になったら、おれはあなたに何も言わないで出ていく。……それくらいには、頭があるんですよ、おれにだって」
インユェはそう言うと、笑った。
「だってそれは、おれの牙としての矜持を穢した事になるから」
牙としての矜持。彼女が持ち続けている物差しだ。
ヤンホゥの願いをかなえる事、彼の与える任務を全うする事。それはできないなどと言えないほどインユェにとってみれば簡単なのだ。
それすらできなくなったら、インユェは自分の誇れるインユェではいられない。
そこまで堕ちたならば、インユェは去っていく事を選ぶだろう。
「お前の基準は俺にはよくわからない。お前はいつまで里に縛られて牙を名乗る?」
「永久に。だっておれは、それを名乗る事を許されたんだもの」
インユェは胸を張った。
それから、思い出した調子で言った。
「中覗いてもいいですか?」
「お前のためにあつらえた特別製だ、気に入らないわけがないだろうがな」
その自信のあり方を不思議だと思いながらも、インユェは扉を開けた。
そして歓声を上げた。
「わあ!! 里みたいだ!!」
「お前の里に近い村を参考にした」
「でもおれの里、こんなに立派じゃない」
「お前な、この陪都であの建築を作らせたらそれこそおかしいからな?」
「ところ変われば品変わるというやつでしょう」
インユェは目を輝かせてあたりを眺めた。砂利の敷かれた床。壁に作られた竈は二つ。
干した食料を貯蔵するのに便利そうな棚たち。
「おれ、こんな立派な家もらえていいのですか」
「お前がこれなら生き易いだろうと思ってな」
「おれのために?」
「皇帝を救ってくれた礼としてはまだ安い」
「こんな十分ですよ」
インユェはほかの部屋を眺めた。
だが。
「改築したのはこの部屋だけなんですね」
「建物の都合上な。そしてここにはお前の女官も暮らすのだから」
「おれの女官?」
「メイファだ。あれをお前の特別の侍女にする事にした」
「いろいろ面白い事知ってるんですよね。それに優しいし。料理おいしいし」
「気に入っているならよかった」
ヤンホゥはインユェを眺めて、不意に抱き寄せた。
「ヤンホゥ様?」
インユェはきょとんとした。なぜ抱き寄せられたのかがわからない。
「どうしました?」
「何、久しぶりにお前を抱きしめたくなった。お前はほかの女よりも体温が高い。北の山の人間は皆こんなに暖かいのか」
ヤンホゥは笑いを含んだ声で言う。その胸の中で反響する声を聴きながら、インユェはどくどくと音を立てて流れ始めた血液を意識した。
こんな風になる自分を初めて知った。
自分の事で知らない事などなかったはずだったのに。
内心で少しだけ戸惑いながらも、インユェは答えた。
「おれくらいは普通ですよ、たくさん食べて体を温かくしないと、北の里で生きていけないし、蟲狩にも出られない。あっという間に凍え死にます」
インユェはその厳しい世界の中でも、最も厳しい世界に生きる事を選んでいたのだが、彼女にその自覚はなかった。
彼女はまったく気づけないでいた。誰も指摘などしないのだから。
「またお前には、俺の仕事部屋に来てもらうぞ」
「はい。おれは何にもできないけどいいんですか」
「お前がいるという事だけで、衝立としての仕事は果たしている。前も言っただろう? お前という人間……女がいるだけで、牽制になると。お前がいるだけで、女どもは俺に近づけなくなると。おれはそれを求めてお前を手に入れたといったではないか」
「そんな事言っていた様ないない様な」
「覚えておけ、お前は衝立だ。俺の衝立、守り」
インユェは気分がよくなった。
「はい。おれはあなたの衝立だ」
「女どもも、お前のような相手には一目置く。何しろお前は筆舌しがたいほど美しいのだから」
「おれはきれいじゃないですよ」
「お前はそれだけがよくないな、自分の見た目の効力くらい知っておけ」
言いながら、ヤンホゥはインユェの髪をなでた。さらさらと指通りのいい頭髪は、きらきらときらめく金の色をしていた。
何をしよう。インユェは起きてそう思った。ヤンホゥの仕事が終わり、彼と少しだけ蟲の話をした。やっぱり食害がひどいらしい。
実地で見てみないと何とも言えないと返すと、ここからは遠いのだとヤンホゥに言われてしまった。
衝立は勝手に出ていけないし、勝手に外出はできない。
蟲によっては楽に対策が立てられるものと、無理なものがある。
普通の人でもどうにかできる蟲ならいいのだが。
平地の蟲狩の腕前は知らないが、食害の被害が大きいとなると、あまり腕を求めてはいけないだろう。
そう考えるとやはり自分のようなものが赴いたほうがいい気がするのだが、だめだと言われればインユェは動けないのであった。
そんなやり取りをして、今日はそこまで疲れていなかったのか、公務である夜伽の女が招かれた。それを見送り、インユェは牡丹殿に戻り、砂利の上に布団を敷いて眠ったのである。村と似た寝心地はどことなくほっとするもので、インユェは気持ちよく目が覚めた。
そうだ、朝の鍛錬をしよう。
そう思った彼女は外に出て、はっきりと聞こえるようになった声に怪訝な顔をした。
「お前はそれもできないのか! 役立たずが」
「ごめんなさい……」
「お前は何様のつもりだい! 私たちのような貴族ですらないくせに!」
叱咤の声と、続いて殴打音。殴るのか、でも誰を?
インユェはここでは聞こえるはずのない声だと思いながら、心が急いた。彼女は知らず駆け出し、そして見た。
青菜の束を落とした少女と、彼女を蹴り、殴り、硬い扇でぶちのめす女を。
インユェはその間に割って入った。そして彼女からしてみれは遅い以外の何でもない扇を片手でつまんだ。
インユェはその暴力的な女をにらんだ。
「あんた……誰を痛めつけているか、分かってやってる?」
その目は無感動で、虫けら相手でもここまで冷め切った眼はしないだろうというほど相手をまともに見ていない瞳だった。人間として認識しているかも怪しいだろう。そんな目だ。
そしてそんな目で見られて、普通の女性は耐えられない。
そして彼女は、インユェを知っていた。そのため青ざめた。
自分が憂さ晴らしも含めて暴力をふるっていた相手が、そんな事をすればただではおかない相手だとここで認識したのだ。
「ひいい!!」
女は回らない口で悲鳴を上げながら逃げ出した。
それを見た後、インユェは少女を見た。
天の川色のきれいな髪。ハッとするほど透き通った肌。質素な身なりでも彼女は際立って美しい。
そしてインユェを恐れもしないで見上げる瞳は、きらめく黒曜石のようだ。紅をささなくとも赤い唇は可憐の一言に尽きるものである。
柳眉を驚きに開き、少し歯がのぞくほど口を開いて呆気にとられた相手は、インユェが知っている女性だった。
「大丈夫?」
「え、ええ……」
インユェはこの疑問だけは解決しようと思い、問いかけた。
「なんでここにいるの、フーシャ?」