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宮殿は着々と出来上がりつつある。インユェはそれを面白いな、と思っていた。瓦葺も立派なこの宮殿は、陪都の中でもひときわ目立つ建物になるだろう。
道を通る人々の会話を盗み聞きする限り、この宮殿はもしかしたら宮城自体よりも立派かもしれないだとか。
あの女の人のために作られているだろう、一番立派な建物。
この建物に対するこまやかな気遣いや、装飾を見る限り、こういった物に詳しくない、それどころか無知に等しいインユェであっても、ここに住める女性は特別扱いだろうな、と思う位だ。
そして、この宮殿が出来上がれば、自分はここから出ていく事になるだろう。
だいたいそれ位らしいのだ。皇帝が都に帰る日が。
つまりこの宮殿で隠れ住む必要性はどこにもなくなる。
まあ今だって、それは意味がないと思ってはいるのだが。
何せ皇帝はインユェの居場所を知っている。手紙は毎日届く。それのどれにも返事を送れないのは、それを届けに来る宦官が、インユェの返事をまとうともしないで早急に立ち去ってしまうからだ。
インユェは今日も、豪奢な見た目で屋根の上に上がり、残りの宮殿が出来上がっていくさまを眺めていた。
彼女は知らない。この宮殿から一歩も外に出ないように言われている身の上では、作業をしている人々が酒場で話す事など知る事は出来ない。
この宮殿……通り名を薔薇の宮には、天女が迎え入れられている。その証拠に、高い宮殿の屋根の上から、それは美しい女が毎日工事を見守っている、なんていう話が出ている事など、インユェは知らない。
この天女を一目見たい、後宮に行かれてしまっては二度と見る事がかなわない美しい金髪の天女を見てみたいという事だけで、作業をする人間が以前の倍近くなった事など、彼女が知る事ではない。
陪都公はその徳の高さから、天女が降臨したのだ、とまことしやかに囁かれている事も、インユェは聞かない。
そう言ったうわさは市井に流れてから、貴族たちに流れていくものなのだ。市民は噂に飢えている。面白い噂や、とんでもない醜聞を好む。
今陪都で、彼女の事ほど熱心に囁かれている噂などないのではないか、と言われるほど、“降臨した天女”の噂は語られていた。
そう言う噂があるとは露知らず、インユェは屋根に座りこみ、頬杖をついて作業を見ていた。
村ではありえない建築は、蟲には弱いだろう。蟲が来てしまったら、あっという間に壊されてしまうのに、作るのは時間がかかるのだ。
村では丸二日もあれば家は完全に仕上げられる。あの村の造りはかなり古めかしいらしいが、理に適っているのだ。いつ村に蟲が来て、家を破壊されてもすぐに復旧できるように。
街の建物はそれに、あの山にはふさわしくない。第一材料がどこにもない。
瓦一つ作るのだって、それなりに粘土がいるらしい。山にはそれに適した粘土など採掘できない。
インユェは豪華な簪を刺した頭を、傾けた。
自分の服の袖を見やる。
美しい絹でできた衣装。陪都公が用意した衣装。
ヤンホゥは、着飾って俺を楽しませろ、と前に言った。それを忘れて、というか手伝ってくれる人がいなくて、着飾らなかったのは自分だ。
だが、着飾っても言葉がないと寂しいなど、自分も随分と変わった。
ヤンホゥは、あれ以来何も言ってはくれない。
言ってほしい自分がいる。たった一言の感想が欲しい。
「似合ってないのかな……」
彼女が似合っていないならば、幾千の女性はもっと簪も化粧も似合わないと知らないインユェは、呟いた。
そしてもう一度、袖に目をやる。
「フーシャなら、もっと似合うんだろうなぁ……」
天の川色の髪。大粒の深い紺碧の瞳。あの村に居ながら真っ白で触り心地のいい肌。
珊瑚のような赤くて綺麗な唇。
しなやかな手足。それを、ふわりと舞うように動かす、インユェの相棒は、今どうしているだろう。
彼女なら、もっといろんな綺麗な衣装が似合う。この簪だって、自分の金色の髪と似たような色で、地味に見えて来るのだから。
それとは全く違う、あの煌めく髪は金の簪がさぞ似合うだろう。
インユェはそれを見たいな、と思った。記憶の中の質素な身なりのフーシャを、豪華に想像できるほど、インユェは想像をたくましくできなかった。
「……あとすこしか」
インユェは作業の終わりを眺め、呟いた。この宮殿はもうじき完成だ。
そろそろ、いるものだけまとめておいた方がいいかもしれない。
あの、牡丹に帰る日は近い。
インユェは屋根を飛び移った。どんな豪奢な衣装を着ていたとしても、彼女が飛ぶ事に不自由はしない。
彼女は、それはそれは身軽に、跳んで、ふわりふわりと領巾をひらめかせて、着地した。
見る人がいれば、まさに天女の降臨と騒いだかもしれない。
画家がいれば、その瞬間を世紀の名画に仕立て上げてしまうかもしれない。
インユェの姿は、それだけ美しかった。
「難しい顔だな、インユェ」
陪都公が訪れた。夜である。様子を見に来たのだろう。インユェは彼を目を見た。
やっぱりだ。インユェは、あの奇妙な感覚が手足をどうにかするのを自覚した。
どうしようもなく、胸のあたりがきゅうとする。その正体はいまだ謎だ。
笑いたくないのに、笑いそうになる。笑いたいのに、笑えない。
実に矛盾した感覚と、彼の目の中に自分がいる事が途方もなくうれしい、この感情をインユェはわからない。
「もうじきでしょう? 皇帝が帰るの」
「そうだな」
「そうしたら、また、牡丹に戻るんでしょう?」
「そう言う事になるが? お前、どうした? ここの居心地でもよくなったか?」
ヤンホゥが笑いを含んだ声で言う。
その声に、胸の名に灼ける。じりじりとした感覚、わななきそうになる唇。
全部知らない感覚だ。
「いいえ、ここよりも牡丹の方が、衝立に都合がいいでしょう」
「そうだな」
「だからおれは牡丹の方がいいです」
それは本音だった。
それと同時に、この宮殿に暮らし続ければ、あの美女とヤンホゥの仲睦まじい様子を見る事になるだろうと、容易に想像がついた。
そうしたらきっと、衝立はもういらない。
彼女は誰もが認める后妃で、第一后妃になるだろう。
衝立を使ってまで、女性を遠ざけなくとも、一番偉い女性を傍においておけば、厄介ごとは起きない。
まあ……嫉妬するその他の妃がいるだろうが。それでも、一番の権力者を父に持つ后妃に、手出しなんてできっこない。
衝立の仕事がなくなったら、何処に流れて行けばいいだろう。
でもそれまでは……衝立として生きていたい。いらないと、面と向かって切り出されるまで、インユェはヤンホゥの奴隷でよかった。
「確かに、牡丹の方が俺には近いだろう。だがそれだけか?」
「だって、俺の衝立のお役目、まだ続くでしょう? 今なんて俺がいないから、ヤンホゥ様困ってるでしょう?」
「まあな」
さらりと言われるその事実に、インユェはちょっと笑った。まだ必要とされている。
「だから、おれはお仕事に戻りたいです。ただ飯ってのは、性分に合わないんで」
「それももうじき再開するだろう」
ヤンホゥは、インユェの頭に手を当てた。
「安心しろ、俺にはまだお前が必要だ」
まだ。
その言葉を聞き、そうか、やっぱり自分は期限付きの衝立なのだな、とインユェは納得した。
あの、女性が誰もが認める后妃となれば、インユェのお役目は終わるのだろう。
「俺の傍に居てくれるな? 牙インユェ」
「ええ、いますよ、あなたがいらなくなるまで」
インユェは言い切った。
この人の奴隷になったあの時から、インユェの運命など決まってしまっているのだ。
ただそれを、インユェは口に出さない分別があった。
衝立が終わったら。
……村に、帰ってもいいだろうか。また、村で暮らせるだろうか。
きっと、色んなものを持って帰れる。
お土産をありったけ抱えて、村の弟たちに、笑顔でただいまと言える日は来るだろうか。
それよりも、ヤンホゥの傍に居たい。
インユェは突然の思いに、動揺した。
村よりも大事なものなど、ないはずの自分が、ヤンホゥを優先した。
この感情はいったい何なのだ?
それをヤンホゥへは問えなかった。ヤンホゥを見ての考えで、もしかしたら不愉快になるかもしれないと思ったからだった。
「恋。だと思いますよ?」
インユェは、あくる日メイファに問いかけた。
朝からしっかりとご飯を用意してくれる、優秀な女官の言葉は、割合はずれない。
インユェはそれを信用していた。これで裏切られても、怒る気にはならない。
傷つく事もない。傷つくのは相手に見返りを求めているから。
そんな物は持たない事にしていた。
「恋? お話に出て来る、恋?」
「はい。でも、なんだか、インユェ様のそれは愛のようでもありますね」
「それの違いって何? 何を読んでも答えが見つからないんだけど」
「そうですね……難しい物なのですが」
メイファは言った。
「相手に見返りや対価を求めないのが、愛じゃないですか? たとえ自分に思いが向かわなくても、幸せであれと願えるのが、愛だと思います」
「恋は、求めるの?」
「恋は古い字で、戀とも書きます。思いきろうとしても、想いと立とうとしてもできない物だと言われています。つまり、対価を求めてしまう事ではないですか?」
「そうなのか……」
じゃあ、これは愛だろう。
インユェはそう思った。ヤンホゥが幸せになれるんだったら、それでいい。
それがいい。
疑問が解決したインユェは、朝食を再開した。