3-15
目を開けた。隣の気配に気がついたからだ。インユェは目を瞬かせた。早朝だ。
それも宮殿の寝台の上にいる。いつ寝台に入ったのか、覚えていなかった。
頭が痛い気がする。何で痛いんだろう。
酒を一口くらいしか飲んだことのない少女は、二日酔いという物を知らなかった。
ただ頭が痛い。目の奥がづきづきと痛む。
欠伸をする。眠い気がするのに、妙に頭が冴えていた。これはいったい何だろう。
そんな事を思いつつ、寝返りを打てば、そこではあどけない顔をした男が一人眠っていた。
安らかな顔に、インユェはなんとなく幸せになった。
何故そんな思いになるのだろう。インユェにとって未知の感覚で、それは綺麗な衣装を自分から進んで身にまとい、男にきれいだと言われたいと思った感覚と少しばかり似ていた。
そうだ、昨晩はこれ以上ない位着飾ってみたのだ。
メイファが忠告してくれたのも理由の一つだったが。
皇帝にあまり無礼な衣装のまま合わない方がいい。
メイファの言い方は含みのある物だったが、インユェは気にもならなかった。
周りに聞いた所皇帝は一番偉い人だ。
偉い人に会う時、礼節とかいうなんだか難しい物が重要視されるのは街や都の常識らしい。
シュエイジン姫に会う時だって、彼女はたしか宰相とか言うのの娘だったが……身なりを気にするように言われた。
シャヌにもそんな事を言われた気がする。
つまりそう言った町の常識と照らし合わせると、皇帝に会う時は、身なりを綺麗にする方がいいのだ。
そんな事を思いつつ、昨日は綺麗な服に袖を通した。メイファが手伝ってくれて、髪も結い上げた。
出来上がったのは見覚えのない女で、ある意味怖くもなったが。
髪もほどいていないはずだし、化粧だって落としていないはずだ。
そのまま寝てしまえば、自分にはもったいないような簪をだめにしてしまうし、化粧が布団にこびりついて汚してしまう。
そこで跳ね起きた。髪を触る。簪は全部引き抜かれていた。はらはらと中途半端な長さの髪が手の中でくしゃりと揺れる。
では化粧は。
インユェは頬に触れた。べったりと貼りつく脂粉。
化粧は落ちていない。肌が苦しい気がして、インユェは昨日教わった化粧落としの油が鏡台にあるのを確認した。
一人ではやらないように言われていたが、べたべたとする脂粉は今すぐに落としたい。
インユェは油を布に含ませ、脂粉を落とした。紅も白粉も、全部落とす。
鏡の前に現れたのは、見慣れた自分よりも若干化粧の残った顔で、全部は落としきれていなかった。
だが、よし、とインユェは思った。肌がすっきりとした気がする。
そしてそのまま、自分を見下ろした。あの綺麗な衣装だ。しわが寄っている。
インユェはぼさぼさの髪を掻きまわし、もういっぺん寝台に近よった。
そこでは男が寝入っていた。あどけない顔だ。それは険しいような顔をする男からはかけ離れた顔で、この顔は彼自身の部屋でも見た事のない顔だった。
何でこんな顔して寝てんだろ。インユェはその緩み切った顔に疑問を抱いた。
こんなに寝入るなんて、まるで全然警戒していないみたいだ。
それを言うのならば自分もそうで、なぜ昨日の夜はいつもみたいに気を張って寝られなかったのだろう。
酒の力を全く理解していないインユェは、そんな事を思った。一定量酒を飲むと、眠くなるなど彼女は知らない。
そこで思い至った。この人を起こさなくてはいけない。
だってこの人には公務という物が朝っぱらからある筈なのだ。
今から宮城に行けば、まだ公務という物に間に合うのではないか。
それが政治という物で、政だと聞いている。その中身はインユェにとってどうでもいいが、街にとっても陪都にとっても大事な物なのだという事は、この少ない日数でも感じ取れた物である。
それに、一番上の男がいないなど言語道断の事だろう。
蟲狩をするのに、牙がさぼる事と同じくらい。
昼寝をしすぎて狩の集合に行かず、当時の頭からこっぴどく怒られたのだ、たるみすぎだと言われた気がした。あれは結構インユェの心に響いた。
「陪都公」
インユェは言葉を探して、男に呼び掛けた。自分ならばこれで起きる。起きなかったら牙として問題だった。
「起きて陪都公」
インユェは声を数回かけてみた。
だが起きない。よほど深く寝入っているのか何なのか。
インユェはよし、と弟たちを叩き起こすときに使っていた必殺技を出す事にした。
彼女は男の上に乗りあがった。
そして。
その肩をかなり雑に揺らした。諤々と揺れる振動で、これで起きない弟はいなかった。
気持ちが悪くなると言われ、頼むからもっと穏便に起こしてくれと懇願された、インユェの乱暴な必殺技である。
そして男にも、その効果は覿面だった。
彼の顔がゆがむ。そしてぱっと目が開いた。
燃え盛るように赤い瞳だ。それがインユェを捉えた。それと同時にインユェは、手を離してしまった。何故か急に手が力を失ったのだ。
しばし見つめ合う。男は自分だけを見ている。
この時間が永遠に続けばいい。この人が視界いっぱいに自分を映すという時間が続けばいい。
訳がわからない感情だった。欲望だった。村では一度も経験した事のない思いは、インユェであっても対処できない。
都でもこんな事を思った事がある。
この人の視界に自分が映るのが幸せだと思った、あの瞬間だ。
「……お前は化粧を落としても美しいな」
燃えた瞳で男が言う。ヤンホゥの言葉に、インユェは訳もなく口が開いてしまって、何も言えなくて閉じた。
「お前は俺の物だろう」
「そうですが、それがどうしました?」
「何故皇帝と月見酒などした」
「ヤンホゥ様は、ここから出るなと言いましたが、ここで皇帝と月見をしてはいけないなんて言わなかったでしょう?」
男の問題にしている事の方向が分からず、インユェは首を傾けた。
金のまっすぐな髪が肩の上を滑り、扇情的に寝乱れた衣装と相まって、インユェは誰もが想像できない程の美しさを醸し出していた。だが自分の身なりなどあまり気にしない、自分が開いてからどう見られているかにそこまで興味がないインユェは、男を上から見下ろして首を傾ける。
「お前な……それで皇帝がお前を気に入り、紫宮に召し出せばどうなるか分かっていたのか?」
「そんな事言ったって、皇帝はおれなんかを召し出しませんよ。だっておれはヤンホゥ様の物なんだから」
「その前提をひっくり返されると言っているのだ! この馬鹿!」
「でも大丈夫でしょう? こうしてヤンホゥ様と一緒に寝てるって事は、皇帝はおれに興味なんて無くなったってわけでしょう?」
男と皇帝の関係をまるで分っていないインユェの言い分に、ヤンホゥは大きくため息を吐いた。
「お前にそれを求めた俺が阿呆だわ。お前は単純に言ってやらねばわからない奴だった」
そこまで言ってから、ヤンホゥはインユェを見つめた。
「だが……皇帝はお前をあきらめたというのは事実だ」
「でしょう?」
インユェはにこりと笑った。
それを見て、ヤンホゥも笑った。そのとたんだった。インユェはまた訳の分からない感情に支配されそうになった。
ばっと顔が熱くなる。まったく気にしていなかったはずなのに、彼を見下ろすという行為がとても耐えきれなくなった。
そしてどうしたか。
インユェにあるまじき失態として、彼女は男の上から転がり落ちた。
いささか派手な音がして、インユェは額を思い切り打ち付けた。
「お前、どうした?」
「……何ででしょ、おれそんなに気が緩んでいたんでしょうか……?」
「……酒のせいだろう」
「お酒の?」
「酒は過ぎれば毒だ」
「おれ、毒なんて効きませんよ」
「酒の毒は普通の毒とは系統が異なる。お前は酒など滅多に飲まなかっただろう」
「里の酒、辛いんですよ」
「つまりそう言う事だ、体が慣れていない」
インユェは合点した。そうか、この起きてからずっと続く訳の分からない状態は、酒という物が抜けきっていないから起きる事なのか。
「酒は慣れますか」
「慣れない。酒を飲むほど強くなれるというのは迷信だしな。酒の席の回数を増やし、自分の限界を知るという方法はあるが」
「なるほど」
詳しいのだな、と思った。だが、もしかしたらヤンホゥも酒の席という物が多いから、自分で覚えるしかなかったのかもしれないと思った。
そこまで思ってはっとした。
「ヤンホゥ様、お仕事!」
「今日の公務は昼からだ」
「特別な物ですか?」
「そうだな。祭事だ」
祭り事。インユェは真顔になった。
「下準備とかの監督、しなきゃダメでしょうが!」
インユェはそう言うと、男を寝台から引っ張り出した。
「おい、俺は昼まで役に立たないのだが」
「でも! 上がしっかり見てないと、下はやる気が出ないんですよ! 蟲狩だってそうだったんですから、宮城だってそうです!」
インユェは言い切った。
公務は祭事であり、それは皇帝が執り行う需要な祭祀だった。
それは昼から始まり夕方まで行われ、何も事件など起こらず終わった。
ヤンホゥを送り出したインユェは、それの行列を宮殿の大屋根から眺めた。
壮大な光景で、この国の大きさを、学も知恵もない彼女にも分からせるものだった。
皇帝の輿が進み、遅れて陪都公の輿が進む光景。
それを見ながら、インユェは陪都公の次に輿に乗る女性を見やった。
牡丹にいた時にやってきた美女で、我こそは陪都公の寵愛熱き女性だと豪語していた女性だった。
インユェの鋭敏な聴覚は、街の人々の声を拾っていた。
「あれが陪都公の第一后妃だそうだ」
「なんとまあ美しい女性なのでしょう」
「陪都公の最も愛する女性は、陪都随一の権力者の御娘だとか」
「なんて立派な女性なんでしょう」
「こういった場に来られる女性は、陪都公が認めた女性と言う事で間違いないんだろう?」
そうか。
インユェはわかった。あの女性の言う事は本当だったんだ。
……そんなに大事にされている人なら、ヤンホゥがいらないと言ったって、通してあげればよかった。
きっと彼女は、自分と違ってヤンホゥを癒せるだろうから。
そこまで考え、何を考えて比較するんだ、とインユェはあきれた。
彼女と自分とを、比べるのが大きな間違いだ。
蟲狩なら誰も負けないと言ったって、ほかの事はからきしだめな自分と、妃として優れているらしいあの女性を、同じものとして並べるのが間違っている。
自分も随分と街の空気に毒されてきたんだな、とインユェは笑った。
あくる日、手紙が届いた。それは皇帝の直筆で、簡単に書かれていた。
手紙には返事を出す物らしいと聞いたインユェは、しかし自分何ぞの手紙を、皇帝まで届ける手段を持たない自分に気がついた。
しかし、手紙は大事だった。
『困ったらいつでも余のもとに来ていい』
書かれていたのはたったそれだけ。それに何かの花の模様のハンコが押されていた。
それがとっても綺麗で、インユェはそれを大事にしまい込んだ。