3-14
月がよく光っている。インユェは天上を見上げた。煌々とした満月、確かに月見という物をしたくなっても仕方がなさそうな、村だったら大騒ぎが始まりそうな月だった。
それを眺め、インユェは卓を眺めた。メイファは優秀だった。そこまで物もなかっただろうに、月見のための茶菓子を用意してくれた。
客が来るまで我慢だとインユェは自制し、それらに全く手を付けていない。
車の音はこの宮殿を通り過ぎるばかりで、止まろうという物など誰一人いない。
担がれたんじゃないだろうな、とインユェは昔を思い起こした。
牙になる前。インユェが突出した才能を見せなかったころの話だ。
彼女は単純な思考回路から、よく騙された。命の危険を伴う冗談から、些細なものまで数知れず騙されてきた。
それでも彼女は生きている。彼女にとっては生きている事以外に意味はなく、騙されたからなんだというのだろうと常々思っていた。
命に係わる騙しあい。それも村の光景の一つだった。それで死ねばそこまでで、痕跡を隠せば事故で片付けられてしまう事もあった。インユェは生き残り続けた。
それは騙した方からすればこれ以上なく恐ろしい事で、インユェの口から語られた事実達によって村を追い出されたような奴もいた。そう言った奴の消息など気にした事はない。
大概、村の外に出て蟲に食われて終わるのだ。
蟲に食われる罪人にまで、インユェは心を砕けない。
騙して殺そうとし、失敗する方が馬鹿なのだ。
それもインユェが当時の牙に拾い上げられるまでの話で、牙に拾われてからインユェにたちの悪い事を仕掛けて来る奴はめっきり減った。インユェは戦い方を覚え、生き残り方を覚えた。
そしてついには牙になった。牙になったインユェを見て、昔の悪行を思い出してふるえる奴も、いないでもない。
蟲の巣穴に夜中に呼び出されるような、命の危機につながる冗談ではない分、この担がれた程度はインユェにとって些事でしかなくなる。
担がれたのなら茶菓子を食べてもいいだろうか。そんな事を思い、インユェは茶菓子に手を伸ばしかけ、聞こえて来た音に手を止めた。
誰かが宮殿の前で牛車を止めた。
おそらく皇帝と言う人だろう。足音がそうだ。インユェは立ち上がった。
立ち上がり、メイファに怒られない程度の大股で歩き始めた。
宮殿の前に牛車を止めた相手は、迎えに来たのがインユェじきじきなので目を見張る。
しかしここには止まっていく宮女などいない。
ここにいるのはインユェ一人。迎える人間も彼女一人しかいない。
彼女は首を傾けた。
月明りにも輝く金の髪に挿した、簪の玉が揺らめく。ちょっとだけ化粧を施された彼女は、皇帝が最後に見た時よりも、ずっと大人びた顔に見えただろう。
化粧一つで女は化けるのだ。
彼女は手を振った。
「担いだわけじゃないんだ」
「そなたは何が言いたいのじゃ?」
「いつまでたっても来ないから、てっきり騙されたんだと思った」
皇帝に対しての口の利き方ではない。それを忠義の人間が聞けば、顔色を変えて彼女を叱責しただろう。
だがそう言った人間はここにはいない。皇帝も彼女を責めない。
彼女はこういう人間だと、短い付き合いでも皇帝は理解していたのである。
「酒を選ぶのに手間取ったのじゃ」
「酒?」
インユェはよく分からなかった。村で酒は作れなかった。あれはもっと暖かい地域でしか作れない物だった。寒い村では発酵という物が進まないのだ。
そのため酒は常に買う物で、おまけに選ぶほど種類のある物ではない。
買う酒は常に一択。行商が重い酒の壺を毎度毎度抱えてくることもないので、手に入る酒は一種類しかない。
それが常識である彼女にとって、酒を選ぶとはいったい何だというのが本音だった。
「なんで選ぶのさ。酒っていえば酒だろ」
酒。村ではたった一つしか示さない単語である。
しかしそれが街で通じると思ったら大間違いだと、インユェは知らない。
「色々あるじゃろう?」
皇帝は怪訝な表情を浮かべた。インユェの言葉がやはり通じなかったのである。
「酒っていえばさ、うまいって思うやつは好きらしいけど、そんなうまいもんじゃないだろ、辛いし。ひりひりするし、苦い。何が悲しくてあんな毒の方がましな物飲まなきゃならねえんだよ」
インユェにとってそれが全てだった。そしてそれを正確に言葉にすると、彼女の着飾った見た目裏切る口の悪さになった。
皇帝はしばし考えた。美しい見た目をしたこの女は、恰好ばかりきれいにしても中身は蛮族である。
そして思い至った。もしやこの女、酒に種類がある事を欠片も知らないのではないか。
皇帝の予想は大当たりで、インユェは皇帝の言葉を待って居た。
酒なんて持ってきて何をするつもりなのか。あんなまずい物。
おいしくない物を飲んだって、それがどれだけ高価だったとしても、インユェはありがたみを感じないのだ。
「甘い酒を知らないのじゃな、おぬしは」
「甘い酒」
インユェは聞いて考え込んだ。何だそれは。
未知との遭遇である。酒は苦い物、辛い物。そうでなければおかしい。
考え込んだインユェに、皇帝は酒の壺を示した。
「まあ、匂いを嗅いでから考えてみるのじゃ。甘いぞ」
「ふうん」
結論から言ってしまえば、インユェは予想をはるかに超えた物に出くわしていた。
足跡から想定した蟲が、脱皮して大型になっていた時よりも唖然とした。
小さいおちょこに、注がれた酒を示され、騙されたと思って飲んでみろと言われて、なめた時の衝撃はとんでもなかった。
甘い。まず初めにそれだった。甘い。果物の甘さと砂糖の甘さとが入り混じった、信じがたい物をインユェはなめていた。
絶句するインユェのおちょこに、皇帝は酒を注ぐ。
何かの冗談じゃないか、これははたまた夢なのか。そこまで疑ったインユェは、またおちょこの酒をなめる。甘い。やっぱり甘い、どう考えても酒じゃない。
「これ……」
動揺は表に出た。滅多に動揺などしない筈のインユェは、かなり度肝を抜いていた。
「酒?」
「酒じゃ。甘くておいしいじゃろう?」
「おれの知ってる酒じゃない」
「北の酒は強いからのう」
皇帝は、酒をちびりちびりとやりながら返した。
そして、用意されている肴に手を付け、笑う。
「おぬしの宮女は用意がいいのじゃな」
「おれの宮女なんていないよ」
「ではこれを整えたのは宮女ではないのか?」
「ヤンホゥ様に仕えている人。おれのってところが違う」
「なるほど」
皇帝はくつくつと笑った。そしてインユェに酒を勧めた。
「月見酒の醍醐味は、月を見ながらやる事じゃ」
インユェは月を眺めた。
頭がふわふわとする。インユェはそんな頭で皇帝と酒を酌み交わしていた。
「月ってさあ……」
何を話しているのか、彼女は覚えていない。村の事を話していた気もすれば、街に来てからの事を話していた気もする。
ただ心の赴くままに、彼女は自由気ままに話し、皇帝はそれを聞いていた。
それがありえない事だと、彼女だけが知らない。
そして彼女の話を興味深いと思っている、皇帝の内心など彼女は気にしない。
「月ってさあ……村じゃあんまり、きれいだと思わなかった。だって明るすぎるんだもの。なんでも見えるし、蟲は興奮して襲ってくる時あるし。繁殖期とかもう最悪。月夜に番う蟲の多い事多い事。討伐はいつでも大変だった。だから村ではいつも準備してた」
彼女は月を眺めた。まん丸い、輝く天体を眺めた。
「満月とか最低でさ、それに合わせたみたいに、人喰いの蟲、八眼蟷螂とかの幼虫とかが孵化すんだよ。何回か死ぬかと思った。牙になる前。おれが足だった頃。死にかけた。だって村を襲うんだもん。足は戦わなきゃいけなかった。子供とか、女とか。弱いのを守るのが務めだった」
それを言ったインユェは、いつの間におちょこから漆塗りの立派な盃になっただろう、とふっと思ってからその水面に映る自分を眺めて、呟くように話した。
「おれ、餓鬼だったけど足だったから。子供だからっていう言い訳はどこにもなかった。守るほうだった。別につらいとか思った事ねえよ、だって当たり前じゃないか。戦える奴が戦わないでどうすんの。守れる奴が守らないでどうすんの。戦えないやつを守れない強さなんて強さじゃねえ」
「逃げようとは思わなかったのか?」
「何で逃げんの。と言うか逃げる要素どこにあった? だって当たり前だろ?」
インユェは華奢な髪型に整えられた頭を、皇帝に向けた。
「強いっていうのは、守るって事だろ?」
それは街では通じない強さだった。そしてそれは誇り高い強さだった。
皇帝は、どうして彼女は誇り高く見えるのか理解した。
根元がそれなのだ。守るための強さ。強さとは守るという事だと信じる、その心の強さ。
それが彼女を誇り高く見せるのだ。
つくづくとんでもない女だ。皇帝は彼女を心底とんでもないと思った。
そして笑いたくなるほど、敬意を表したくなる。
皇帝がそこまで思うのは滅多にない事だった。
だが、皇帝はそこまで思っても彼女を欲しいと思わなかった。
思えなかった。
この女を、後宮などにとどめておくのはあまりにむごい。
強くあろうとする女を、後宮などと言う場所に連れていく事は、皇帝にはできなかった。
ヤンホゥのやり方は正しい。
彼女の言葉を聞き、皇帝は納得した。
初めて出会ったあの時。高々女程度、と侮った自分を恥じた。
この強さは、守るために発揮される。
守ることで、輝く。
その輝きが目もくらむような尊い物にも見えてくるのは、その心のありようが尊く、何処までも優しいからだ。
「おぬしは優しいのじゃな」
本心が漏れても、彼女は酔っぱらった顔で笑うばかりだ。
「あほみたいなことってる。おれはそんなに、優しくない。見捨てる時は見捨てるぜ、ほったらかしにする時はほったらかす。牙になる前なんか、見て見ぬ振りして死なせたやつもいた」
「だがおぬしは、その顔を忘れないのじゃろう?」
「そんな事いつ言ったっけ。まあ、わすれねえよ、それしかできないしな」
「そういう所が優しいのじゃ」
「あっそ」
インユェは卓に突っ伏した。
そしてすうすうと寝息を立て始めた。
その彼女を見やってから、皇帝はやってきた男に言った。
「ようやくか、陪都公」
陪都公は焦った顔をしていた。そして現状が理解できない顔をしていた。
「なに、やましい事は何もないじゃろう、これにも、余にも」
「陛下……」
「大事な女なのじゃろう? 玉の指輪を揃いでするくらいには」
陪都公は押し黙った。皇帝はそこで、息子の意図が読めてしまった。
「なるほど、死なない女だから都合よく利用するのか」
「それは」
「確かに便利じゃのう。滅多には死なない。毒にも強い。そして阿呆な程忠実。これ以上ない駒は滅多におらぬじゃろうなあ?」
「陛下」
「陪都の毒をあぶり出すにはさぞいいえさじゃろう。おまけにおぬしの言葉を疑いもしない」
皇帝は笑い出したかった。ここまでこの息子は、自分に似たのか。
あの女を利用し、死なせた自分とまるきり同じ。
その非情さまでもが、若い自分と通じるとは。
「よこせ、陪都公」
「なにを」
「おぬしが主ではこれがあまりにも哀れじゃ。余の元の方がましじゃというておる」
陪都公は黙った。
これで手放すならその程度の事、皇帝は息子の次の発言を舞った。
支配者によく似た息子は、黙った。
黙りに黙り、いい加減喋ろと言いたくなる間の後に言った。
「それはできません」
おや。
皇帝は半ば予測していた答えに、目を丸くする振りをした。
「それは私の物です、陛下。陛下のお言葉なら従いたいと思いますが……それに関しては、できませぬ」
こやつ、思った以上に屈折しておるのう。
自分の過去を思い出そうとしながら、皇帝は息子の発言を聞いていた。
「お許しください、それだけは、私の譲れない物なのです」
「手のひらで弄び、身内の毒を吊り上げるための道具なのじゃろう?」
痛い所を突いたらしい。陪都公が一瞬黙る。
しかし。
このまま黙るようならば連れて行こう、そう思った皇帝は、陪都公の目を見た。
若い自分によく似た、しかし自分よりも頭の回る事を示す目が、激情で不気味に輝いていた。
そこには隠しようもない思いがあった。
「それは、私だけの物なのです」
「余の命に背くほど、か」
だんだんと皇帝は笑い出したくなった。何でもこなせる優秀な庶子が、たった一人この女の事だけはうまく取り繕えない、それがおかしかった。
この息子を、初めてかわいらしいと思ったのだ。
「お許し下さい。どうしてもそれを差し出す事だけはできませぬ」
素直に愛しい女だと言えばよかろうに。皇帝は内心でそれを言わない息子にあきれた。
愛しいのだと一言いえば、皇帝は笑って許すというのに。
それが言えない息子を、不器用だと思った。
「よい。その代り」
「はい?」
「これが自らおぬしの元を離れ、余のもとに来たならば、余の物じゃ」
息子の唇がひきつった。かっと耳が赤くなるのまで、夜に慣れた目の肯定には見えて、それが愉快で笑いたかった。
「はい。ですがそのような事はありえませぬ」
何処までも意固地になる息子に、皇帝は一瞬微笑み、立ち上がった。
「さて、これも寝入ってしまった。余も明日の公務に差しさわりがあるじゃろう。陪都公、そ奴を頼んだぞ」
皇帝は振り向きもしなかった。
……息子の不器用すぎる、歪みすぎた恋を、応援したくなりながら。