3-12
「それでそちは引き下がったというのじゃな?」
「はい……あの女性は決意も堅く、とても私では……」
宦官は冷や汗をかきながら低頭した。目の前にいるのはこの大陸でも指折りの大国の、皇帝である。
一つ間違えれば首が落ちる。
そう言う主の気性をよく知っていた宦官は、罰せられる覚悟を決め、低頭し続けた。
宦官にとって彼の命令は絶対で、彼が斬首と決めれば自分の首なと簡単に落ちる。
それを知っていても、あの娘の心を変える事などできなかっただろう。
あれを変えるのは至難の業だ、と彼女と実際に会話をした宦官は思っていた。
そう、簡単ではない。
まさかあんなにも、皇帝などどうでもよいと言いたげに、主はたった一人と言い切る娘だとは思わなかった。
誰も彼もが皇帝の命令であれば、いろいろ思いながらも従うというのに。
あの少女は、胸を張り、やましいところなど何もないと言いたげにまっすぐに、彼を見返して言ったのだ。ヤンホゥの命令でなければ聞かないと。
それだけの忠義を持つ人間に、彼は一度も出会った事が無い。皇帝の命令と言うのはそれだけの重みをもち、そして何より陪都公よりもはるかに身分が高い。
その皇帝のお召しだというのに、あの娘は従わなかった。
これが普通であれば、兵士を差し向け強引に連れていく事も出来ただろう。宦官の失敗だった。
兵士をほとんど連れて行かなかったのだ。そこが問題だった。そして意味もなく陪都公の建設している宮殿の中に、皇帝の兵士を連れていく事は非常識だったのだ。
これが叛意を表しているとなれば話は変わっていただろうが、この話は陪都公に通していない話だった。
そこもまた自分の失敗だろう、と宦官は冷や汗をかきながらも分析する。
ヤンホゥの……陪都公の命令しか聞けないと言い切ったあの女ならば、陪都公が直接彼女に行けと言えば行くに違いないのだ。
話の持って生き方が悪かったのだろう。
罰はいくらでも受ける覚悟が、ここで決まった。しかし。
「下がれ」
皇帝は滅多にない言葉を発した。訝った宦官であるが、主の命令は絶対である。恭しく一礼をして退室した。
それを見届けてから、皇帝はふむと口ひげをいじった。
「忠犬のような女じゃのう。あれの命令以外は聞かぬか」
意外だったと言えば意外で、しかし納得できるのも事実だった。
彼はあの目を思い出す。揺るぎもしない、相手が何者だろうと臆しもしない。
そこにあるのは屈強な意思。怯えもしない鋼鉄の心臓。
皇帝の命令など聞かない、とあの女ならばいいそうだった。
そこに意味はないだろう。彼女にとっては陪都公が一番なのだ。皇帝など番外にもならないのかもしれない。
彼女の中での序列は、おそらく都の誰もと違う。
「……あれもなかなか。紫宮から連れてきたというのならば、報告があるじゃろうが……」
皇帝は頭の中を探す。思っていた文章はすぐに思い出せた。
あった。それは身分の最も低い宮女の移動の願いで、皇帝はそれを大した意味もないだろうと判断し、許可した。
そこにあった名前は、たしかインユェ。
なるほど、一致する。そして彼女自身が語った中身とも一致する。
彼女は真実、皇帝のために呼ばれながらも、皇帝と出会うきっかけすら持たず、紫宮を出て行ったのだ。
彼女が皇帝と言う名前に未練がないのは、自分に関わりが無さ過ぎたからなのだろう。
皇帝はそう判断した。
そして、皇帝は……面白いと思った。
面白い。自分に刃向かう、までは行かずとも、自分の命令を全く聞かない人間など、幼少期を除いていなかった。
ヤンホゥに話を通し、あの女をこちらに持ってこさせるという手段をとる事は出来る。
だがヤンホゥが、心でそれを拒絶すれば、あの女はそれに気がつき、召喚に答えないだろう。
それがありありと思い浮かぶ。話した時間は短い、出会ってからの時間もほとんどない。
しかし皇帝の中で、彼女はそうするだろうという確信があった。
諦める、と言う選択肢を皇帝は持っていなかった。
美しいのだ。彼女は美しい。手を伸ばしたくなるほど美しく、手元に置きかわいがりたいほど愛らしい。
そこまで思い、皇帝は疑問に思う。
美しい女など、見飽きたではないかと。
寵姫であるレイシを思い浮かべる。彼女はなるほど美しかった。匂うような美女で、立ち振る舞いも気品に満ち溢れ、寵姫と言う名前に恥じない。
比べるべくもないではないか。あのインユェと言う女に、気品など欠片もない。立ち振る舞いもがさつで粗野で、野性的だ。だいたい、人を一人抱えて崖を登るなど、大の男でもめったにはできない事だ。
蛮族、蛮人。あの女を形容するならばそれが似合うのに、彼は嫌っているはずの物を形にしたような彼女を欲しいと思ったのだ。
何故か。美しい女ならごまんといる。あの程度の女など……
「おらぬか」
皇帝は呟く。いないのだ。どれほど蛮族だと言っても、野蛮人だと思っても。
あれに匹敵する、美しさを持つ女性は一人もいない。
いいや、いた。彼はそれを思い出す。彼女も燃えるような命の色をしていた。そして彼女は炎のようにぱっと消えてしまった。
別に面影を求めているわけではない、と皇帝は心の中で言い訳をした。
インユェと言ったか。あの女は燃えるような命の輝きを宿していた。
きっとそれが、彼を引き付けて離さないのだ。
そしておそらく、息子が思っているのもほとんど同じものだろう。
そこまで考えを巡らせてから、皇帝は彼女を思い浮かべた時に現れたある物に、瞠目した。
それは華奢な飾り物。割れたらおしまいの儚い物。金銀白金で作られていればそれなりに柔軟で、多少曲がっても直せる物。だがそれは乳白色の柔らかい光を放っていた。
彼女の薬指にはまっていたのは、玉の指輪だったことを、彼は思い出したのだ。
玉の指輪は、特別な意味を持つ。
割れてしまえばおしまいの、金具をつけて直すしかない指輪は、特別な意味だった。
それは二人の間にひびが割れない事を祈る、愛の証だった。もともと指輪は婚姻の証とも、愛する相手を見つけ、共に生きると決めた証とも言われているが。
薬指に玉の指輪をはめるという事は、永遠を誓う印だった。玉が割れない事を祈り、それに自分たちの思いを重ねるのだ。
決して割れないように。愛が消えないように。共にあろう。共に生きよう。永劫まで。
その言葉や意味合いの重さから、ほとんど誰もはめない指輪。
それを彼女は身に着けていた。
永劫、共に。滅ぶならばともに滅び、決して置いて行かないように。
「何と……」
あの女は、それをはめるだけ、ヤンホゥを思っているのか。
彼女は一度も、ヤンホゥを語る時に愛を語らなかったが。
真実はその指輪が示していたのか。
それとも語る必要もないほど、彼女は陪都公を愛する事を当たり前だと思っていたのか。
「……口惜しいのう」
皇帝というものは我を通してもいいものだ。
だが彼は、インユェに恩義を感じていた部分があった。
欲しいと思ったのは事実だ。自分が手元に置けば、誰も知らないような幸せを彼女に与えられると傲慢に思っていた。
だが。
あの女は。インユェは。いらないのだ、そんな物は。何故ならなもうとっくに、欲しい物を決めていたのだから。
彼女はヤンホゥの愛だけが欲しいのだ。
皇帝の寵愛など、いらないと言えるだけの思いを、ヤンホゥと育てたのだろう。
そうでなければ、あれだけ重い意味を持つ指輪をはめる事などできようもない。
皇帝は苦笑いをした。苦く笑いながらも、清々しい思いを抱いた。
自分は最初から、彼女の眼中になかったのだろう。
それ故に、あれだけまっすぐな目を向けてこられたのだ。
そこまで思ってから、皇帝は自分の欲しかった物に気がついた。
そうだ、あの目が欲しかった。権力に対する欲望など、何も持っていない、ただ自分という物を見つめる瞳が。
そしてそれは、自分が手に入れてしまえば二度と向けられない瞳だという事にも、遅ればせながら気がついた。
だが。
「話という物をしてみたいものじゃのう」
皇帝が何を弱気に、と思うかもしれないが。
話すくらいならば、彼女の目が権力欲に染まるのを見ないで済むかもしれないと思うと、それを試したいと思ったのだ。
「これ」
彼はそのあたりにあった、美しい紙を引き寄せた。かぐわしい香りのする紙である。
それにさらさらと文字を書いていく。わかりやすい言葉で、幼くともわかるような文体で。あの女は文字の初歩しか習っていないと、行っていたのだから。
皇帝は鈴を鳴らした。控えの間にいた宦官がやって来る。
「これを、作りかけの宮殿にいる金髪の女に渡すのじゃ」
宦官は、よく分からない命令にも、疑問を抱かず一礼をした。
皇帝はさて、と思った。
酒は何がいいだろう。口当たりのいい、女の喜びそうな酒がいい。そしてそれは、彼の好む強い度数の、喉が焼けるような物ではないだろう。
何か物珍しいつまみも。皇帝はそういった物を知っている相手を呼び寄せ、それを伝えた。