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1-3

「傷の具合はどうなんだ。お兄さん」

インユェは次の日になって現れた男にそう言った。男はあちこちに包帯を巻いていたがそれだけで、けがの程度は軽いらしい。いいことだ。

今日も食料集めの草むしりに精を出していたインユェにとって、男の来訪は予想外のものだった。

それでもそれが表面に出ないあたり、インユェは多少変わりものだ。

いつも通りの表情をして、インユェは男に言葉を投げかける。

「お兄さんいいの、後宮に入り込んで」

「それだが」

「ん?」

インユェは男を見上げた。草むしりのためのしゃがみ込んだ体勢で見上げているので、男が随分と大きく感じられる。

「俺のところへ来ないか」

「お兄さんお仕事何なの」

「治安部隊のようなことだ。しかしそうではない」

「おれを呼ぶ理由が? なになに」

「貴殿は俺の命の恩人だ」

聞いたインユェは金色の目を瞬かせて、ふうん、といった後にこう言った。

「単純だねお兄さん」

「事実だ」

「はいよ。それで? お兄さんのところに行って何か、このインユェに利点はあるの?」

「寝食の保障をしよう」

「いいねえお兄さん」

インユェは、これを、抜擢だと考えた。

治安部隊ならば、牙を呼ぶかもしれない。蟲相手に、自分ほどの実力の人間もそうそういない。

治安部隊ならば、蟲退治だって行うだろう。

「毎日おいしいご飯が食べられるんだったら、ここだろうがお兄さんのところだろうがどこだろうがおんなじだもんな」

「ここでは食べていないだろう」

「うん。干し肉大量生産中」

「俺のところへ来れば、お前に食べ物の心配はさせないつもりだ」

インユェは深く考えもしなかった。食べるところと寝るところ。二つが上等ならば、多少の居心地の悪さも気にならない。

「お兄さんのところに行くよ、どこ行けばいい、目印は?」

「急かすな。今日中に荷物をまとめておけ」

「荷物なんてこれだけ」

インユェは、今着ている戦闘服を見せた。腰に匕首も常備している。

「おれにとってはこれだけしか荷物がないの。あとは後宮でもらったものだけ。おれのものじゃないから、かしだされているものだから、今すぐにだってお兄さんのところに行けるんだよ」

「そうか」

男はインユェを見た後に、言った。

「ついてこい」

インユェはうなずいた。

そこでようやく、女性たちがざわめいていることに気が付いた。

それは後宮に男が侵入してきたからだろう。

「お兄さん、早く案内して。いろんな人が見てるからお兄さんつかまっちゃうよ」

「それはない」

男が自信たっぷりにそういった。訳が分からん。そんな思いを抱えたまま、インユェは男についていった。

インユェと、いいや、男とすれ違うたびに、女性たちがざわめく。後宮の、皇帝に嫁いだような身の上である女性から、下女などと呼ばれる下働きの女性まで。

男はあらゆる階級の女性たちから目を向けられている。

「お兄さん本当に目立つんだな」

男の見た目の良さは充分理解していたので、インユェは感心してそういった。

「そうか」

「お兄さん自分の見た目なんてどうでもいいの? もったいない」

「お前は俺の見た目がよく見えるのか」

「とっても」

インユェは馬鹿正直にそう答えた。彼女は嘘をあまりつかない。いいや、つくような世界にいなかったがゆえに、つく必要性をまるで感じていなかった。

「お前はやはり変わり者だな」

男がそんなことを言った。

そういう男と普通に会話をしつつ、インユェは自分に突き刺さる視線の数を数えていた。

今までは感じ取れなかった視線たちだ。ある種の敵意というべきか。

こういう視線はあまり受けたことがない。

村で敵意を向ける人間はそう相違なかった。はっきりとした敵意を向けてくる村の人間はいない。特に、蟲狩の牙を相手に。

それゆえに、インユェはそれらの視線が、羨望だととうとう気付かない。

しかし男は気が付いたらしい。

「お前がうらやましいらしいな」

「うらやましいの、おれが? なんで?」

「さてな」

男にとってその視線は当然らしい。インユェだけが訳が分からないでいる。

そのためインユェは、視線の種類の中に、羨望という項目を新しくつけた。

これからこの視線たちを、羨望の視線と呼ぼう。

インユェはそこで、昨日お茶菓子をくれたあの、レイシという女性がいることに気が付いた。

足を止める。

男のもとに行くのだから、インユェはきっと、二度と、あのお菓子を食べさせてくれた美女には再会しない。

それが分かるので、インユェは一度、彼女に深々と頭を下げた。

彼女もやはり、羨望のまなざしを向けてきていた。

その彼女と目が合う。彼女の目の中には、どうしてという疑問符が満ちているような気がした。

なぜだろう、と思えども答えは出てこない。

「おい、置いて行くことになるだろう。愚図かお前は」

立ち止まったインユェに気が付いた男が戻ってきて、インユェに声をかけた。

インユェは男を見上げる。

「知り合いがいたから挨拶してただけだろ」

「お前に知り合いがいるのか」

「多少はいるって。だって一か月もこんな場所で暮らしてたんだからさ」

「そうか。だがここから俺の行く場所まで長い。ついてこなければ日が暮れるぞ」

「そりゃ大変だ」

インユェはそう返し、男が再び歩き出したのでついていく。

首筋のあたりに、ずっと、レイシの視線を感じていた。

彼女は階級の高い后妃なのに、何がそんなにうらやましいんだろう。

インユェにはいささかわからなかった。

後宮は広く入り組んでいる。それは脱出することを考えてしまうだろう女性たちを阻む、大きな牢獄といっても差し支えない。

インユェが昨日、大蜈蚣の場所までたどり着けたのは、屋根を通り、道という道を無視して走ったからできたことなのだ。

まじめに道を通れば、迷うことは間違いない。

いくつもの回廊を通っていき、気づけば皇帝の後宮から出ていた。それが分かったのは、見覚えのある厳重な門をくぐったからだ。後宮に入る際には、この厳重な門をくぐらなければならない。

蟲を狩りに行ったときは、適当な裏道を抜け、やはり適当な大きな窓を通っていったのでできたのだ。蟲を担いでその門をくぐったとき、ずいぶんと苦労したので次はやらないことにしようと心の中で決めたほどだった。

しかし、その場所から出ていくのだ。自分は。そのことにインユェは不思議な思いを抱いた。

ここから二度と出られないと聞かされていたのに、自分はこうして出て行っている。不思議だ。そして少しばかりうれしい。

治安部隊のメンツになれば、きっと、いつか、お土産話と都の面白いものを携えて、故郷に帰れるだろう。

しかし皇帝の後宮という場所は迷路のような場所だったな、と思った。同じ道を戻れと言われても、戻れる自信がない。

やろうと思えば、屋根伝いに方角を頼りに行けばいいんだ、と心の中で荒業を考えた。そういう時点でインユェは非常識であるが、口に出さないので誰もそれが非常識だとは言わない。

森ならば目印があっていいのだが。森の道は間違えない自信があるのだけれども、宮廷の道はよくわからないというのが正直な感想だ。

直角と直線が多く、どうも相性が悪い。

インユェはそんなことを考えつつ、辺りを見回していく。

皇帝の後宮とは趣が違う道に入りつつある。インユェはそれに見覚えがあった。

皇帝の公的空間の趣だ。どこか生真面目に作られた柱や建物の間を、いろいろな階級の人間が行き来している。

そこのどこかに行くのかと思えば、違うらしい。男の歩みはどこにも止まらない。

このままいったら、この公的空間からも出て行くことになる。思わず、インユェは問いかけた。

「皇帝の場所からも出て行ってもいいわけ?」

「安心しろ、お前が心配するようなことは起きない」

男は当然という調子だ。事実、インユェの姿を見ても、怪訝そうな顔をしつつも、誰も男の歩みを止めようとはしない。

このお兄さん結構、身分が高いのだろうか。

「お兄さん結構権力者なんだな」

思ったままを口に出す。それに男が答えた。

「だろうな、どこまで我儘が通るかは試したことがない」

「すっごいなあ」

インユェは感心した。なるほど、この男の持っている権力とやらならば、こんな、下賤、だっただろうか、そんな身の上の宮女一人、後宮から引き抜くのだって容易いんだろう。

そんなことを言いつつとうとう、紫の門の場所までついてしまった。

この紫の門も見覚えがある。初めてこの大きな空間に入らされた時に見た、門だった。

この門を抜けると、外はもう市井の場所なのだ。

「……」

インユェは足を止めてしまった。つい、だった。

自分はとうとう、ここから出られる。

うれしかった。しかし、自分の役割も覚えていた。皇帝の後宮に、メシダサレタ身の上で、本当に、出て行っても、村に何か不都合なことは起きないだろうか。

いまさらながら怖くなった。笑うフーシャの顔が、義弟たちの顔が、頭をよぎった。

「どうした」

男が歩みを戻して問いかけた。インユェはへらっと笑った。

「いまさら、大丈夫かなって思いだしてきちゃった」

「大丈夫だ」

男が大丈夫といっても、足が進まない。それだけ村のことが重いのだ。

インユェにとって村が大事な場所だったという証なのだ。

「出てっちゃって、村、大丈夫かな」

インユェの気弱にも聞こえる発言に、男が少し目を丸くしてからうなずいた。

「お前の村には何も咎が起きないようにしてやる」

「ほんと?」

「ああ。決してそういうことが起きないようにしてやろう。俺が引き抜いたのだからな」

インユェは唾を飲み込んだ。

そして、距離としては短いが、心としては大きな一歩を踏み出した。

門をくぐっても、誰もインユェを誰何しなかった。

捕まえにも来なかった。

インユェはほっとした。それが表に出たらしい。

男が顔を覗き込んでくる。小柄なインユェは、男が少し身をかがめて見下ろすほど、小さいのだ。何たることだ。こんな風に見下ろされるのは久しぶりだ、と思いつつ、インユェは息を吐き出した。

「本当に大丈夫だった」

「そうだろう。行くぞ」

男が言う、インユェはそれの後に続いた。


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