3-9
陪都の道を覚えるのは並大抵の事ではないが、一度覚えてしまえばあとは楽らしい。
インユェは夜半、主が手を引くがままに歩きながらそう思った。
道をすらすらと話していくヤンホゥを見ていると、そうとしか思えない。
インユェはこそこそと、ヤンホゥが手を引くままに、引っ越し先の新しい宮殿に向かっていた。
人目につかないように、それが何よりも肝心だと言わんばかりに、ヤンホゥは動き出したのだ。
こんな風にこそこそとしなければ、皇帝に連れていかれてしまうのだろうか。
いまいち彼女にはよく分からないが、皇帝の事を彼女よりもよほど知っている人間がそうするのだからそうなのだろう。
「この道が四条。この道は割と官吏と貴族がよく通っている」
ヤンホゥが歩きながら言いだす。四条は宮城までの道の中で一番埃っぽい。
たぶん夜中でも人が無数に行きかっているせいだろう。
何故行きかうのかは知らないが。
「はあ」
インユェは気の抜けた返事を返した。それを意にも課さず、手を引く主は言葉を続ける。
「なぜならばこの道は、官吏の居住空間に密接しているからだ」
「なんで」
なんでと言う言葉の意味は複数ある。
なんで官吏の居住空間に近いだけで、官吏と貴族がよく通るのか。
「宮城に近い土地ほど、大貴族の邸宅が多いという話はしていたか?」
「いいえぜんっぜん」
素直に首を振る。振られた頭を見やりもしないで、ヤンホゥはなるほどな、と言葉を紡ぐ。
「そこからか。宮城に近い土地は、仕事先に近いという事もあって、そこに住むだけで一種の特別な階級という事になる」
「仕事先に近いと?」
「その方が何かと都合がいいだろう?」
「ああ、山とおんなじです」
「山もそうなのか?」
「牙の家は一等一番、村はずれにあるんです、村はずれなら、状態のいいまま蟲をさばけるから」
「それとは何か違う気もするが……お前が納得したならそれで構うまい。とにかく、覚えておけ、宮城に遠いほど、階級は下になる」
「へえ」
「見ればわかると言っても、お前はわからないだろう、そのうちみっちり教えてやろう」
「約束ですよ」
「お前は約束にしなければ、果たさないと思っているのか?」
「おれは約束っていう言葉の響きが好きなんです」
「変わった女だ」
インユェは外套の頭巾を深くかぶり、官吏の様な藍色の装束を着ている。当然ヤンホゥも同じような身なりで、その二人が真夜中に四条と言う中間貴族の住居が多い場所を歩いていても何も違和感がない。
ヤンホゥはそういった、自分の隠し方を心得ているようだった。
そしてインユェも、気配を消すという事だけはうまいのである。
そのため、宮城を出るときに言い聞かされていた言葉を忠実に守っていた。
曰く、気配を消せ、これだけである。
それをしっかり守るインユェは、誰の目にも止まらない気配の薄さであった。
「あとどれくらいで家に着くんです」
「家ではなく宮殿だがな」
「住めりゃどっちだって同じでしょう」
「お前は……その適当さはどこからくる。お前の生活は今までいったいどうなっていた」
「山にばっかり潜っていたんで」
「……もしやお前、村でも異端じゃなかったか」
「牙になる前はただの変な奴でしたよ。たぶん。フーシャにいつも庇われてて。どうしてるかなぁ、フーシャ。イーディンもサンディンも心配いらないのに」
「イーディンとサンディンとは誰だ。男の名前だろう」
隣がわずかに肩を揺らす。インユェは彼の後頭部の曲線を眺めながら答えた。
「ああ、おれの義理の弟たちの名前です、父ちゃんの連れ子」
「歳は幾つだ」
「おれとおんなじ」
「……結婚はしているのか」
「二人ともその気配が全くなくって逆に困りました。二人とも見た目は充分いいし、稼ぎだって悪くないし、女の子はわりときゃあきゃあ言ってたのに、浮いた話が何にもなくて」
「裏ではいろいろやっていたかもしれないぞ」
「そう言うのって、一番噂になりませんか」
「脅迫と言う手段がある」
「おれの弟たちはそんなみっともない真似しませんよ。そんな事したら、牙の制裁が来るってわかってるのに」
「牙の制裁だと?」
「足や爪に対して、おれが直々に下せる罰です。理由がしっかりしていれば、いきなりやったって怒られない。文句も言えない。そう言う罰です。秩序を乱す、とか言ったかな、そう言う事をしたらやられちゃうんです、あと命令違反とか」
「命令が間違っているときもあるだろう」
「そう言うのはいいんです、でも無駄に人を死なせる命令違反をしたら、きっつい事がやられるんですよね」
「お前が下すのだろう」
インユェは首を振って否定した。そして付け加える。
「おれはまだ、やった事が無い」
「ないのか」
「おれは周りからしてみれば、怖すぎる牙でしたから」
そうだ、自分は恐れられていた、と村でのことを思い出す。
牙のインユェ、最強の蟲狩。
村の、守り神。
そして若頭、フーシャの相棒。
肩書はいろいろあった。そしてどれもが同じだけ、インユェを示している。
ヤンホゥはしばし黙り、少し後ろを歩くインユェをちらりと見る。
おそらく、その欠片をインユェから見出そうとしたのだろう。
だが、今の彼女からそれを見つけ出すのは容易ではない。
と言うよりも、見つけられないだろう。
インユェの本性は、山でのみあらわされるのだから。
彼女は今、見てみても、美貌しか見て取れないだろう。
その本質を見るためには、それだけの状況を作り出さなければならない。
だがそれは割と簡単なのだが、今はまだヤンホゥはそこまでインユェを知らない。
「こんな抜けた女が怖いのか」
ヤンホゥのあきれた声に、インユェは笑った。
「それはヤンホゥ様が、おれの戦う姿を見た事が無いからだと思いますよ、返り血まみれで高笑いしながら戦うとかいう、のを見た事が無いから」
「お前はそうやって戦うのか」
「だんだん気分があがってくるんですよ、蟲相手にやってると。目の前がきらきらしてきて、心がうきうきしてきて。ああ、倒せば、倒せば……って思うんです」「
「なんだそれは、倒せばとは」
問いかけに、インユェは答えた。
「倒せば、どれだけいいだろう、そんだけです」
「……俺はますますお前と言う人間が分からなくなる、知っていくにつれて分からなくなる。お前は妙な女だ」
「妙でも何でも構いませんよ、だっておれがあなたの衝立だっていう事実だけは歪まないんだから」
「そうだな」
がらがらと牛車が脇を通り抜けていく。それに道を譲るヤンホゥ、それに習うインユェ。
その二人を見て、まさか陪都公とその寵愛熱い女だと分かる人間はいないだろう。
そんな道を歩き続け、そしてとうとう新しい宮殿にやって来た。
インユェは首を傾けた。
この宮殿は、あまりにも人がいない気がしたのだ。無人の宮殿、なぜ誰もいないのだろう。
「人はいないの」
「いない」
「どうして?」
「ここはまだしばらく無人の予定だからだ」
「予定?」
「ここは皇帝が帰るまで、未完成の宮殿という事にしておくのだ。さすがに未完成の宮殿に、皇帝も入ろうとは思うまい」
「だから人をここには集めないんですね」
それの意味はよく分からないが、人がいないのだけはわかった。
そうすると、彼女の頭には疑問が浮かぶ。
「おれはどうやって暮らせばいいんですかね」
インユェは宮殿を見ながら問いかけた。料理らしい料理はできない。蟲を使った狩人の料理はできるが、材料がない。
かまどなど、弟たちに任せっぱなしだったのを思い出した。
火打石と火打ち金があれば炎は作り出せるが、燃料がないだろう。
「ここには通いの人間が元々複数いる。そこにお前の面倒を見る女を潜り込ませる」
「通いってなんで」
「ここは未完成だと言っただろう? ここを完成させるために、職人が来るのだ」
「それって男」
「男も女もいるな」
「ふうん」
インユェの疑問は解消された。
元々、食事以外の心配を彼女はしていない。
それ以外の事なら何でもできる。やろうと思えば畑仕事だって物売りだってできる。
それが足から牙になった、彼女の強みだった。
「潜り込ませる女は、適当に見繕う。お前を害する女ではない事だけは確かな女をな」
言い切るヤンホゥは、ためらいなどみじんも感じさせなかった。
「多少不便かもしれないが、皇帝が帰るまでの辛抱だと思え」
「……おれ、別に辛抱する事してるって思わないんですけど」
「俺が苦労を掛けていると思っているのだ。。あちこち行かせているしな」
「あなたのお役に立てるなら、おれなんて存分に使っていいんですよ、あなたはおれが殺せない人だから」