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3-8

新しい宮殿。そんな場所にインユェは興味などなかった。

逆に気になった事がある。

「そうしたらおれは、あなたの傍に居られないじゃないですか」

百年も手入れをしていないこの牡丹殿が老朽化しているというのは、まだわかった。

隠密らしき人間が、天井裏をきしきしと言わせてインユェをうかがっているのを知っていたので、ここが古びていてあちこちよくない、と言うのはわかったのだ。

そのために引っ越すというのもわかる。インユェとて、雨漏りのようなことが起きつづけるのはどうかと思っていたのだから。

あの天蓋を通り越してぽたぽたと垂れてくる水は、予想以上に冷たい時があるのだ。

雨の中木のうろだので眠り、豪雨であるにもかかわらず蟲を追いかけて道なき道を進む彼女であっても、雨の音がしないのに水が垂れてくるのはさすがに不愉快なのだ。

耐えられないわけではない。

しかし、気になるのも事実なのだ。

いっそ勝手に修理を行い、殿内を歩き回ったときに見つけた、隠密たちの出入り口もしっかりと塞いでしまおうかとまで考えていたインユェにとって、引っ越しは悪い提案ではなかったのだ。

しかし、だ。

「宮殿って、この近くじゃないでしょう?」

そこだった。

彼女が何より問題にしていたのは、その距離だった。

いくら自分が健脚であっても、距離という物は馬鹿にならないのだし、ヤンホゥの傍から遠ざかるのであれば衝立の意味がない。

近くに居なければ、衝立にもなれっこないではないか。

真面目な顔で真面目な声で、インユェはヤンホゥに言う。

そうだな、と同意が帰って来るかと思ったのだが、彼は首を横に振った。

「それ以上の問題が発生したから言っているのだ」

「……問題?」

その問題は自分が聞いてもいい事なのだろうか。インユェには判断がつかなかった。

山で蟲を狩る時ならば、どんな時だって最善の判断ができる彼女は、しかし宮中のあれこれに関しての判断は、できなかったのだ。

住んでいた世界が違いすぎるというのもある。

インユェはらしくなくためらいそうになりながらも、気になりすぎて問いかけた。

「それはいったい何なんです? おれじゃどうにもならない事?」

もしかして、この前言っていた、山の常識では太刀打ちできない問題だろうか。

そんな疑問を顔いっぱいにありありと浮かべたインユェは、ヤンホゥが同じように真面目な顔になっているので、ああ、冗談は返ってこないのだな、と判断した。

「……お前を連れて行かせるわけにはいかないのだ」

男の真面目な言葉は、インユェがよく分からない答えだった。

連れていくって、誰が自分を連れて行くというのだろう。

「誰が、このインユェを連れて行くというのです? 誰だったおれを連れていけませんよ、おれの意思なく」

「皇帝が、お前を所望したら、俺はそれに従わなければならないのだ」

「……なんで?」

「前にも言っただろう。俺は皇帝に仕えている身の上だ。お前を差し出せと言われて、お前を差し出さなかったら、それは叛意ありとみなされるのだ」

「でも、だって、おれはヤンホゥ様の言う事は聞くけど、あの人の言う事は聞けない」

インユェは、あの壮年の男性を思浮かべた。

いくら彼がヤンホゥに命令できるのだとしても、インユェはそれには従えない。

だって、あの男なら殺せるのだから。

「お前の道理は、街でも都でも通じない。お前をよこせと言われて、よこさないという選択肢はどこにもないのだ」

「ばかだなあ、ヤンホゥ様」

インユェはそこで笑った。

「ばかだと?」

「そうですよ、たとえあなたがおれを差し出したって、おれはヤンホゥ様の所にちゃんと帰ってきますよ。だっていらないって、言われてないもの」

ヤンホゥは目を見張った。

「は?」

「前にも言ったじゃないですか。いらないって言われるまで、傍に居るって」

「……お前はたったそれだけの言葉で動くのか」

「動きますよ。だってあなたが必要だっていうからいるんです。これは」

インユェはひらひらと手を振った。

細く華奢な指にはまる、それは 玉の指輪だ。

それはヤンホゥが与えた物で、陪都に来てから唯一彼女が身に着け続けている装飾品だ。

それを得意そうに見せつけ、インユェは言った。

「それを約束したものでしょう? おれがあなたの物だっていう、何よりの証明なんでしょう? これがある限り、おれはあなたとの約束が続いてるって思ってるんですけど」

その指の物と同じ物が、ヤンホゥの武骨な指にはまっているのまで見て、インユェは言う。

「おそろいのこれ、おれたちの約束でしょう?」

それは当然の事を当然と言う調子以外の何物でもなかった。

「おれ、これ好き。だって、おれこんなきれいな物、何処でも見た事ない。それであなたとの約束の印だもの。余計に好きだ」

そう言って笑ったインユェは、ヤンホゥが驚きすぎて無表情になっているのを見て取った。

思考が追い付かないのだろう。インユェはそれを知っていた。村でも時々そう言うのが起きた。

特に山に分け入り、大物を一人で仕留めて山を下りて帰ると、その獲物の大きさに絶句した村人たちはそうなった。

そして次には。

彼らは笑うのだ。すごいとインユェを称賛し、嬉しそうに笑うのだ。

だからヤンホゥだって笑うはず、とインユェは予想したのだが、彼は彼女の手を引いた。

普段ならば足を踏ん張って、よろめきも動きもしない筈の体は、大きな体にすっぽりと包みこまれてしまった。

「……お前を連れてはいかせない。だが陪都の宮城に居れば、お前が俺の周りをうろつけば。あの人の目に触れやすい。もうあの人はお前に興味がわいている。俺は……恐ろしい」

必死に言葉を探す声のヤンホゥ。声も体も震えていて、インユェはかける言葉を見つけられなくなった。

心の中では、居なくならないと断言できるのに、その言葉の薄っぺらさがしみじみと実感できたせいだ。

「お前は何よりも得難い。お前はたぶん、そこんじょそこらの女が束になってもかなわない、そう言う女だ」

「はは、当然じゃないですか、おれは牙ですよ」

「そう言う意味ではない、ばかたれ」

言いつつも抱き込める手の力は増していく。震える体はそれをやめない。

まるで縋りつかれているようだ、なんてインユェは思った。

義弟たちもこうやって縋りついてきた事はあった。あれははるか昔だったけれど。

「俺は、可能性を排除していきたいのだ。お前をこの宮城においては置けない。あの人がここに滞在するからだ。……わがままを、聞いてくれ、俺のインユェ」

俺の、インユェ。

その呼びかけを聞いた瞬間、インユェはばっと体中の血がすさまじい勢いで流れ出したのを感じた。

これは特別な呼び方だ。きっと普通はこんな風に呼ばれない。

それと同時に、ああ、自分はこの人の物だ、この人のインユェだ、と思ってしまう。

「……しょうがないですねぇ。あなたの作っていたという、その新しい宮殿に、行きましょうか」

インユェはそれ以上、平静な声が作り出せず、熱くなった顔を感じて動かなくなりそうな舌を動かした。

ヤンホゥがそれを聞き、インユェの肩に押し付けていた顔を上げる。

その大きな手が、インユェの頬に添えられる。

顔が近付く。睫毛さえ確認できそうな近さに近付き、男は言う。

「いなくならないでくれ、俺のインユェ」

「……はい、ヤンホゥ様」

それは懇願に近く、インユェはそれを跳ね返す理由を持っていなかった。

インユェはそのまま、触れ合わされる唇を感じていた。

こうして近くにいると、彼の調合された香の匂いが香り立つ。

悪くない匂いだ。

そしてこの粘膜の接触は、柔らかく淡くて、悪くない。

しばしふれあい、男は顔を離す。

「目をつぶる位しろ、世間知らず」

声はいつも通り、余裕と笑いを感じさせるものになっていた。

「そうだ、ヤンホゥ様」

その声を聞いて、彼の落ち着いた様子を見て、インユェは問いを発せた。

「なんだ」

「おれの引っ越し先、裁縫上手な人はいますか」

「何故それを聞く?」

「ここから布団を持ち出すなら、ちゃんと繕ってもらいたくて。おれだと縫い目がぐちゃぐちゃで寝心地が悪くって」

「お前はそれを気にするほど、繊細か?」

「いえぜんっぜん。ちょっとわがまま言いたくなっただけです」

「それとな、インユェ。安心しろ、布団位は新調してやろう」

「そんなのいらないのに」

「俺は布団の一式も新調できないほど経済力がないと思われているのか」

「いいえ、おれの村じゃあれくらいで捨てるの贅沢以外の何でもないだけなんです」

「お前の村は、あまり豊かではなかったのだったな」

インユェは頷いた。

「だっておれ、後宮に入るまで、石で作られていたり漆喰とかいうので塗られていたり、屋根瓦がある家とか、見た事なかったです。

「……屋根瓦がないのはわかるが。お前の暮らしていた村の建築様式はどうなっていたのだ」

「穴掘るんです」

「穴?」

インユェは同意した。

「ある程度まで穴掘って、掘った土をふちに盛り上げて行って、板を立てかけて壁を作って。床に柱穴を掘って柱立てて、垂木を縄で固定して萱とかで屋根をふくんです」

「……ひと昔どころではない建築様式だな」

「村に来る商人たちは全員、ありえないって最初は突っ込みましたからね、そうかもしれません」



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