3-7
「ヤンホゥ様。怖い顔してどうしました?」
インユェは男に笑いかけた。背中にしょっている男を下ろす事も忘れ、重さを感じさせない足取りで近付く。
そんな相手が怪我一つない事を確認したヤンホゥは、息を吐き出してから答えた。
「……お前が、飛び降りたと聞いたのだ」
「あー、降りました。だって迂回路めちゃくちゃ距離が長いんですよ。飛び降りた方が早いし楽だったんで」
「お前にとってはそうだったのか?」
ヤンホゥの言葉に、インユェは頷いた。
背中の男が、その言葉にさらに呆気にとられたとも気付かないで。
「だっておれは、そう言うのが得意ですよ。村も周りの山で牙が必要な時、迂回路なんて取ってらんないでしょう?」
「……肝を冷やさせるな」
「どうしてあなたが肝を冷やすんです?」
「お前が責任を感じて自殺でも図ったのではないかと思ったのだ」
「あははははっ!」
インユェは笑った。それだけ彼女にとってはおかしな事だった。笑える事だった。
「このインユェが、自殺を図るなんてそんなのあってたまりますか!」
「笑っているがな……?」
高らかに笑っているインユェに手を伸ばし、ヤンホゥはその白いほほをつねりあげた。
「普通はそうなのだ。覚えろ。お前の山での常識もお前の実力も、街に近ければ近いほど通じないのだ」
頬を思い切りつねりあげられ、インユェはやっと合点した。
そうだ、この物覚えの悪い頭はいつも忘れるが、自分は街では常識を超えているのだ。
身軽な体も、戦いに強い力も、思考回路も何もかもが、街のそれとは異なっているのだ。
「ヤンホゥ様変なの。だっておれなのに。蟲狩インユェをそんな風に扱って」
「……お前はそれだから阿呆なのだ」
頬から手を離し、ヤンホゥは彼女の華奢に見える体に背負われている相手を見やった。
「皇帝陛下、遅くなって申し訳ありません。この女は陛下に不作法な真似をなさいませんでしたか? 何分田舎者で。至らない所も多々あったと思いますが」
「いいや、些事でしかない事ばかりだ」
そこでやっと、インユェは担架の上に背負っていた男を下ろした。
「陛下。ご無事で何よりです」
彼を囲む人々。それらを男は受け流し、受け止め、担架によって運ばれていった。
それを見送り、インユェはヤンホゥに問いかけた。
「あの人は何者なんですか」
「皇帝陛下だ」
「それじゃ答えになってない。おれが聞いてるのは、あなたとの関係です。あなたはあの人を気にしているでしょう?」
「……まあな」
「それなのに、そんな他人行事で壁でも作ってて。何か喧嘩でも?」
「いいや、俺のしょうもない引っ掛かりだけだ。俺はあの人に頭を下げる存在だ」
「ふうん」
インユェは、底に潜む言いたくない事の匂いをかぎ取った。
だが、問いかけはしなかった。
言いたくない事を無理に言わせることなどしなくていいのだ。
語りたくなったら、相手の口は自然と緩む。向こうから語りたいと口を開かないのに無理強いをしても、欲しい答えは返ってこない。
蟲がそうだった。相手が腹を減らしていないのに、餌をちらつかせても反応は悪かった。
狙うのは空腹の時だった。そういう蟲も割といた。
「皇帝陛下は見つかりましたよ、ちゃんと届けました。おれはもうここに居なくていいでしょう?」
「そうだな。時にお前は、ほかに落ちた人間を知らないか」
「死体なら三つほど」
「……死んでしまったか」
「当たり所が悪かった。皇帝陛下ってのは運がいい。乗っていた輿が壊れた代わりに、本人は助かったんだから。ほかの人は崖の下の岩に頭を砕かれたり首の骨をやられたりでもう、おれじゃ助けられなかった」
インユェは言いつつ、少し後悔して落ち込んだ自分に気がついた。
「おれじゃ、助けられなかったんです」
そんなインユェを見て、ヤンホゥが手を伸ばす。
そしてその汚れた金の頭を撫で、聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「いいや、あの人だけでも助けられたお前は、立派だ」
それはインユェの耳だからかろうじて聞こえた声で、インユェは目を瞬かせた。
「なんだ?」
言った言葉などなかったかのように、インユェの主は見つめて来る。
「早々にここを後にする。確かにこの辺りは蟲が多いようだからな」
「じゃあおれは歩いて行きますよ」
「日が暮れる」
「でも。おれが乗る物なんてないでしょう」
「俺の隣に乗ればいい」
「そう言うのだめだと思う、おれ泥だらけです」
「俺がいいと言ったらいいのだ」
強引なまでの強さで、ヤンホゥがインユェの手をつかむ。
「傍に居ろと言っただろう」
そうして引っ張られていく、これくらいの力に屈する自分ではないのに、とインユェは従いながら思った。
この人はやっぱり特別だ。このインユェを引きずれるのだから。
それとも自分が何かこの人の時だけ、違うというのだろうか。
分からない。
よく分からない。
だが一つだけはっきりしている事があった。
「分かりました、おれがいいのならば、その傍に」
自分はこの人の傍に居なくてはいけないのだ、と言う純然たる事実であった。
この人は衝立がいない間、結構面倒くさかっただろうな、とも思った。
陪都まで目と鼻の先の難所。
それが皇帝の落ちた場所だった。
ここは中々整備のできない地形をしており、街に近いというのに大型の蟲が跋扈する場所でもあった。
そのため、蟲が出なければ速やかに陪都まで戻る事が出来た。
あっという間だな、インユェは馬車の中でそう思った。がたがたと揺れる馬車は輿と同じだけ揺れるが、仕方のない物なのだろう。
これなら馬蟲に乗ったほうが乗り心地がいいはずだ。
インユェは飛び回るあの蟲を思い浮かべた。あれは早かったのだ。
あれを飼いならすのは容易ではないが、インユェは野生の馬蟲の背中に乗り、乗り回すのが得意だった。
あれはこつがあるのだ。
そんな事を思い出し、宮に入る。
やっと外だと思い、真っ先に飛び出す。
馬車から飛び出したのが見えたのか、宦官の一人が怪訝そうな顔をした。
続いて降りて来た陪都公を見て、宦官たちは背筋を伸ばした。
インユェ相手では敬意を払わずとも、この土地で陪都公に敬意を示さないやつはいなかったのだ。
「来い、インユェ」
陪都公はそう言い、インユェが頷くのも見ないで歩き始めた。
それにインユェは習い、いったいどこに行くのだろうと思いつつも、それに従った。
陪都の宮の中を歩く。歩きなれないという程、インユェは道を知らない。
彼女が知っている道は、自分の与えられた牡丹殿とヤンホゥの執務室、そしてそこから食べ物を扱う場所に行く道位だからだ。
それ以外の道など知らない。
彼女には訪れる友人もこの後宮にはいないのだし、当然彼女を連れ出す相手もいない。
そのため見知らない道を、ヤンホゥの進むままに歩けば、やはり見知らない場所にたどり着くのだ。
ここはいったいどこだろう。
インユェはちっともわかっていなかった。ヤンホゥが通ったのは人通りの多い通路で、ここを歩けばまあかなりの数の宦官や宮女たちに姿を見せる事になるのだ。
そんな通路を連れ立って歩けば、陪都公の寵愛が厚い事など明白で、その話は次の日になれば後宮全体を駆け巡るなど、インユェの知る所ではないのだ。
今までは人目につかない道ばかり歩いてきていたので、インユェは公的な道を知らなかった、それだけのことかもしれなかったが。
インユェは周りを見回し、散々見まわし、そこが見覚えのある場所だと気がついた。
これが村や山だったら、彼女は覚えていただろうが、彼女にとって町やそのもっともたる後宮はいつまでたっても自分の領域ではないのだ。
そのため気がつかず、彼女はその宮の周りにある植物や使った事のある井戸などを見て、はっとした。
「ここ牡丹殿ですか」
「分かるのが遅い」
ヤンホゥはあきれたように言った。だがインユェからすれば驚愕の場所だったb・
今まで陪都の牡丹殿は、あまりきらびやかな場所ではなかった。それはいわくつきと言う事から発せられるくらい空気で、だがそれを恐れないインユェからすれば些細な空気だった。
しかし今は一新されていた。見事な程立て直されていて、清々しい空気が流れるようだった。
「……ここどうしたんですか」
「何、一度見せようと思っただけだ。お前にはあちこち居を移させて悪いとは思っているがな、また居が変わるのだ」
ふうん、とインユェはたいして疑問に思わなかった。
インユェにとって、引っ越す場所が大事なのであって、その過程はあまり重要ではないのだ。
しかし。
「おれがここから引っ越したら、ヤンホゥ様色々面倒じゃないんですか」
「ここは老朽化して久しくてな」
何を思ったか笑ったヤンホゥが、言った。
「お前には、この前建てた新しい宮殿の一か所をやろうと思っているのだ」