3-6
「おぬしは女じゃったのか……?」
朝になり、寝相で着崩れた服を着直していると、男が呆然とした調子で言った。
「そう、女だけど、それがどうかしたのか?」
インユェは男を見下ろして問いかけた。
服を着直すために立ち上がっており、男は起き上がりインユェを認識して発言したのである。
そのため、普通であれば男を見上げる事になるインユェは、男のつむじを眺める事が出来た。
しかし形のいい頭である。くるりと丸い。そしてその髪の色は鮮やかに赤かった。
「どうもこうも……女じゃと言うのに、狩ができるのか?」
男の問いかけは、都ではもっともな問いかけであった。
普通の女子は狩などに参加しない。
それは体力的な物もあるが、女の方がか弱いという認識のもとである。
女が狩などとんでもないという街の常識での発言でもあった。
その言葉にインユェは肩をすくめた。狩ができるか、なんて物を、こうやって問いかけられるという事は、村の牙という物は、きっと都や街では相いれない考え方なのだろうと、そう言う事も思った。
「というか狩しかできない。おれ普通の女の子じゃねえもん。ほら、腹減ってないか? いいものあるんだ、ちょっと待ってろ」
インユェは、昨日見つけていた湧水の場所を頭の中に思い浮かべ、男に笑いかけた。
そうして男を木のうろに残し、インユェはその辺にあった木の皮をはいだ。
はぎ取って曲げ、器用に小さな器を作ってしまう。
インユェはそこに湧水を注ぎ、うろに戻って火にかけた。
そして腰の袋を漁った。
出てきたのは濃い緑の塊である。若干茶色が混じっている。
「何をするのじゃ?」
男が興味津々と言った顔と調子で聞いて来る。
「え、お茶沸かすんだよ。呑むだろ、おれ朝一番にこのお茶を飲むのが最近好きなんだ」
「茶葉が無いじゃろう」
「あんた知らないのか? これお茶っ葉を固めたやつなんだけど」
インユェは塊になり、手のひら大の煉瓦状になった物を渡した。
「匂い嗅いでみな、お茶のちゃんとした匂いがするぜ」
男が煉瓦状の塊を受け取り、匂いを嗅ぐ。嗅いで感心した。
「本当じゃな」
「さて、茶がわく前に、飯だ飯」
言いつつインユェは、昨日の残りを切り分けた。
そしてこれまた腰の袋を漁り、乾燥しきった粉を振りかけた。
「それはなんじゃ?」
「これ、辛い粉、あんたは多分名前も聞いた事ないだろうから、言っても意味がない」
「また適当じゃな」
「そーそーおれは適当なの。昨日の奴に違う匂いつけると、またうまいんだよ」
言いながらインユェは昨日と同じようにかぶりつき、殻を吐き出した。
「全く器用じゃな」
男はそう言いつつ、自分は小刀で殻をはがして、インユェを真似して粉を振りかけた。
肉を齧るのを見て、インユェはちょっと安心した。
食べられればまあ、そこまでひどい事にはならないのだ。
食べられない程衰弱していたら、それこそ担いで意地でも人、それも医者を見つけなければならない、事態は深刻になる。
インユェは、怪我の手当ては知っている。当然のように、毒に侵された人間の対処法も知っている。
だが、病気となるとあまり得意な分野ではないのだ。
そういうのは全部フーシャ任せにしていたので。
フーシャとインユェは実にいい相棒で、二人そろっていれば怖いものなしと村で陰ではささやかれていた程だった。
彼女は今どうしているだろう。インユェは沸いた湯の中で茶葉が開くのを眺め、そんな事をふと思った。
心配だ、義弟たちよりずっと心配だ、だってフーシャはきれいな女の子で、男たちの視線を全部集めるそれはそれは素晴らしい女の子で、ちょっと計算と計略が上手い。
頭の空っぽなインユェとは相性のいい女の子だった。
自分がいなくなって、生きにくくなっていたらどうしよう。インユェはそんな不安を胸に覚えた。
しかし今はそれを心配するより先に、この男をこの男を探しまくっているだろう集団に届けなければならない。
男は足をひねっていてうまく歩く事は出来ないだろうし、崖を登るなんて事も決してできないだろう。
結局インユェが担いで歩かなければならないのだ。
そこは構わないのだが。
インユェは器を火から取り上げた。
よくさましてから一口飲む。いい味だ。
「ほら、飲めるようになった。あんたも飲みな。悪い物じゃないと思うし、これから急ぐから」
「……おぬしは変わり者じゃな」
「おれは頭の空っぽな変な奴なのさ。それでもヤンホゥ様が信じてくれっから、いくらだって力を貸すんだ。おれは自分の従いたい人を間違えないのさ」
「おぬしはヤンホゥのなんなのじゃ?」
「なんだろうね、なんて言ったらあんた納得すんの? そう言う答えはおれには答えられないよ、あ、でも衝立かな」
「衝立、とな?」
「おれが守るの。おれが矢面に立つの。それでいろんな物から、あの人を守るの。なかなか悪くない生活だぜ。美味しいご飯とあったかい布団。文字も教えてもらった。でも村も恋しいな、山で栗集めして皆で焼くんだ。北の栗はそりゃあおいしいんだぜ」
インユェは男に笑いかけた。男はインユェの言葉に興味を抱いたらしかった。
「では、道中おぬしの昔話を聞かせてもらえぬかのう」
「ああ、そんな事?」
お茶を飲み干し、インユェは頷いた。
「それくらいでいいなら、喜んで。さあ出発だ、小便とか済ませてくれよ。何時間歩くか分からねえんだもの」
男が言われたままに用を済ませると、インユェは男に背中を向けた。
「乗りな」
「おぬしは女じゃろう」
「それがどうした? おれはあんたを担いで山登り位できるぜ、もっと重い奴だって担いで山を下りた事もあるんだ」
「蟲が出るじゃろう?」
「そん時は逃げるさ、おれは足も速いし。牙の足なめちゃいけない」
インユェは自信しかなかった。自分はそれができると知っていた。
その自信は、男にはよく伝わらなかったらしい。
困り顔になる男。
「余はそこまで軽くもないんじゃが」
「大丈夫大丈夫。ほら乗った乗った、早くしないと夜になっちまう。それにいつまでもあの場所のあたりに人がいるなんて思えない」
インユェの言葉に、男はもの言いたげな顔になった。
「何か異論があるんだろ、言って見ろよ」
「余は皇帝じゃ」
「あのでっかい建物の主なんだろ、ヤンホゥ様から聞いてる」
「余が見つかるまで探さないなど、怠慢じゃ。不忠者じゃ」
「……本気で言ってる?」
「皇帝の亡骸も見つけられないなど恥じゃ」
インユェは、町の常識をいまだにちゃんとわかっていない。
そのため、男の言う事が実は至極全うで、皇帝に対しては当たり前の事だといまいち分からなかった。
しかし男を信じる事にした。インユェの第六感が信じてもいいと言ったのだ。
それを信じ、しかしインユェは背負う事は譲らなかった。
「分かったから、あんたも早く人に会いたいだろ、乗って乗って」
「本当に音を上げないのじゃな?」
「牙はそんな恥になる事しない」
「牙が何か全く分からんのじゃが、信じてみよう」
「ありがとう」
インユェは笑った。信じてもらえた、それがうれしいのだ。インユェはいつもあけすけな程感情が見える顔をしている。
そしてその笑顔は、男を呆然とさせるほど華やかだった。
「どうしたんだよ、ほら乗って」
男はインユェの背中にぎこちなく乗った。具合を調整し、インユェは言った。
「飛ばすから、しっかちがっちり捕まっていてくれ」
その声は笑っていて、とても皇帝に発する声ではなかった。
インユェは走る。元々ずば抜けて高い身体能力を、いかんなく発揮する。
森だろうが平地だろうが、インユェの速度を落とす障害にはならない。
そして。
「おぬしはどこの出身じゃ?」
「北の山。魔の山とかいう人もいたと思うぜ」
「歳は?」
「十八」
「何故ヤンホゥに仕える事になったのじゃ?」
「それは話せば長いけど……」
会話を平然と成立させている、つまり息も乱れていないのである。
たいした体力だと言えるだろう。
飛ぶように走り、インユェは大体今までの事を、男に話していた。
そして話す事も大体無くなった時点で、問いかけた。
「あんたは?」
「は?」
「あんたはヤンホゥ様のなんなんだ? あの人が気にかけているんだから、何かしらのつながりがあるんだろうし、あの人が心配するんだから、あの人にとって大事な人なのは間違いなんだけど。あんたたちどんな関係なんだ?」
この問いかけに、男は黙った。
聞いてはいけない事を聞いただろうか。
どうも自分は無神経な部分があり、人を傷つけやすい。
この性格で五六人女の子を泣かせているインユェは、前科持ちだった。
大体フーシャをいじめる女の子をとっちめて、逆に泣かせてしまっていた。
男でもインユェの切りつけるような言動に、思わず泣く奴は結構いた事を、彼女は思い出していた。
男は黙って黙って、逆に問いかけて来た。
「おぬしは何だと思うのじゃ?」
「しらね」
「しらね、とは?」
「おれの役割に関係ないもん。あんたたちの関係なんて。おれがヤンホゥ様のためにする事に、何にも問題にならないし」
割と本気で言ったインユェに、男は背中で瞠目する。
自分とあの息子のかかわりをどうでもいい、とばっさり言い切る女は今までいなかった。
この女は、ただ物ではない。
いいや、無知なのか。
男は息子を思い浮かべた。もっと直接的に言うのならば、このもの知らずの乙女を飼いならす事をしているだろう、息子をだ。
さぞ楽しいだろう。さぞ新鮮だろう。
そして、何よりも心を癒すに違いない。
この短時間であっても、男はこの乙女の言動に、この分かりやすく単純で、裏も表も何もない頭に、心が癒されていたのだから。
この女は、飼いならせば何よりも心を潤すだろう。
そう言う女を、男はたった一人も知らなかった。
この女を、自分のもとに置きたいと男は思った。
これは慈雨と同じだ。絶対に裏切らない。いいや、裏切る頭すら持っていない、しかし自分の心のままに動く野生の獣と同じだ。
これは欲しい。傍においても、どんなものも跳ね返し、笑って立っているだろう。
そう言う女が一人くらい、居ればどんなに心が休まるか。
「おぬしは」
「うん」
「紫宮にいたと言ったじゃろう」
「言ったな」
「では、戻る気はないのか」
「ないよ、何言ってんの」
「欲しい物をすべて与えると言ってもか?」
「欲しい物なんてもういっぱい貰ったから、もういらねえ」
インユェは言いながら、そうだと思った。
自分はたくさんの物をもらっている。そして何も返していない。
目の奥で赤色が翻る。そして悪い笑顔で笑い、手を差し伸べて来るたった一人を思い浮かべた。
彼が求める物であり続けたかった。
多分それが、自分の真実なのだから。
インユェはくつくつと笑った。
「おれ、いろんなものの何にも、あの人に返してねえもん」
言いつつインユェは、崖の前に立った。普通なら登れない崖だが。
「しっかり捕まってくれよ、落としたら大変だから、がっちり捕まっててくれ」
言うやいなや、彼女は断崖絶壁に等しいそこを登り始めた。
後から、皇帝を背中にしょった女が崖の下から突如現れ、あっけらかんと笑ってヤンホゥに駆け寄った現場を見ていた人々はこういった。
「いや、あれは普通じゃない」