3-4
ぎりりと彩られた爪を噛みしめる。子飼いの諜報員が悲痛な顔で跪いている。
陪都公の後宮に潜入するのだから女なのは当然として、その女をチュンリーは平手で打った。
「役立たず! あの女ごときに陪都公を奪われるなんてあってはならないというのに!」
彼女の言葉は後宮の女のすべてが声を大にして言いたい事だった。
いきなりどこかから湧いて出てきて、陪都公の寵愛を一身に受けている女。見た目ばかりはいいかもしれないが、あの粗雑さは後宮には入れたという事がおかしいほど。
それなのに陪都公はあの女に対してだけ態度が違う。
政治に女が直接かかわるのは、あまり良い顔をされないというのに、あの女は政治の中枢でうろうろしているというのだ。昼日中から執務室に入るあの女を、宮女たちが目撃している。
何かの間違いではないかと思うのに、宦官の一人はあの女が執務室でも陪都公に膝を貸し、なんと陪都公に茶を淹れさせるというのだ。
百の寵愛を一身に浴びる、という言葉を体現したようである。
「申し訳ありません、あの女は神経という物が通っていないのです」
「人間でしょう! 後宮にいられないと思わせる程度の事が出来ずしてどうするの!」
チュンリーの言葉は事実に基づいていた。この陪都の後宮の女の中には、確かに以前も身分が低いが陪都公に気に入られていた女がいた。
後宮の女のすべての嫉妬を浴び、嫌がらせの数々を受け、彼女は心を病んで里に去って行ったのだ。
そう言う事はよくある話で、チュンリー以外だって手を尽くしているのだから、あの新入りの女が同じように心を病むことだってできるはずなのだ。
それなのに、結果は芳しくないのだ。
嫌がらせの類は底が尽くほどあらゆる后妃が行っている。
それなのにあの女は、けろりと平気な顔をして毎日を送っているというのだ。
傷ついた顔を欠片も見せずに。
「毒は」
「どの毒も効果はありません。心を狂わせると聞いていた毒も、あの女は平気で食べるのです」
「……」
チュンリーはそれを聞いて不意に微笑んだ。
いい手を思いついたのだ。それこそ良い手段だ。
「それを逆に利用すればよいのよ」
「……姫様?」
「誰か、あの女に茶葉を送って差し上げなさい」
「え?」
「それが届いたら、わたくし直接彼女に会いに行くわ」
「姫様、何をなさるのです?」
「ふふふ、きっとうまくいくわ」
彼女は麗しいかんばせを綺麗に微笑ませた。
「茶葉には指示を出しますもの」
「はい」
彼女の命令は絶対だ。宮女も諜報員も彼女には従うのだ。
「あの女を陥れるにはちょうどいいわ」
「どこの誰からの物?」
インユェは牡丹殿に届けられた贈り物に、首を傾けた。
「インユェ様の御里からだと伺っていますが」
届けに来た宦官も、あまり詳しくは知らないらしい。
インユェは首を傾け、それを受け取った。
質素な木箱に入った物を振る。かさかさと音がする、乾いたものらしい。
里からと言うが、あの北の山から何かが届くわけない。
それともあの里からの手紙でも入っているのだろうか。
インユェは手紙という物をよく知らなかった。紙に文字を書いたものを遠くの人に贈る、という事しか知らない。
そのため木箱などに手紙が入っているわけもないし、里で文字を全く知らなかった彼女に、あえて手紙を送る友人がいるわけもないという事実に、いまいち気が付かなかった。
そのため不用心にそれを受け取ったのである。
彼女は宦官が立ち去ったのを見送って、その箱を開けた。
そして目を丸くした。
それは陪都に来てから見るようになった、お茶の葉だったのだ。
上等の物なのか、いい香りがした。
そしてインユェは、その匂いを嗅ぎ分けて首を傾げた。
「何でこんなもの送る人がいるんだ」
そう思い箱を持って立ち上がる。
見せた方が手っ取り早い。
バカなインユェだって、最近食事に毒が盛られている事に気が付いていた。これでも鼻はいいのだ。
なんか部屋がぼろぼろにされていたり、服と言う服が破られていたり、扉の前に悪臭を放つ糞尿がばらまかれていたりしていた。
ここ数週間は、夜になると雨漏りでもしたように屋根から水が垂れてくるのだ。
別に部屋がぼろぼろになろうとも片付ければいいし、服は繕えばいい。糞尿なんて適当に始末すればいい。
それが嫌がらせだと、インユェはぼんやりわかっていた。
そう言うのはしょうがないのだ。だって自分はヤンホゥの衝立。彼を女から遠ざける役割。
ここ数日殿にこもって読んでいるお話の中でも、権力者に一番近いのに身分の低い女に、嫉妬とかいう物をする女がいっぱい出てきていた。
そういう人たちが、嫌がらせのつもりでやっているんだろうな、とインユェはわかってしまったのだ。
黙っていようとも思ったのだが、こんな物を贈られても始末に困る。
だって人にあげる事も出来ないのだ。
インユェはそれのふたを閉めて、立ち上がった。
そして扉を開ける。
扉を開けて、さっきから立って待っているらしい女性を見やった。
「ああ、おれちょっと用事があるんだ。じゃあね」
女性にさらっと言い、インユェは箱を小脇に抱えて牡丹殿を出た。
残された女が絶句しているのを気にも留めずに。
回廊を歩き、インユェは執務室の前に来た。
無遠慮に扉を叩き、さっさと中に入る。
「インユェ、本を読み終わったのか?」
「まだ途中、あれ面白いですねえ。それよりも困った事がありまして」
「困った事?」
ヤンホゥが手を止めた。
「これ、毒草なんですけど。さすがのおれもあえて毒草を茶葉に混ぜて飲む趣味はないんです」
インユェは箱を開けて中を見せた。
「毒なのか?」
「匂いがそうです。困った事に」
「……何が言いたい?」
「どうもおれ、嫌がらせを受けているみたいなんですよね」
「嫌がらせ?」
「これ、里から来た事になってるんですけど。北の山にこの毒草は生えないんです。もっと暖かい所の毒なんですよ。それもとっても高価な。……ねえ、これを村に届けに行ってもいいですか? きっと皆喜ぶんです」
インユェは言いながら思いついた事を気に入った。
そうだ、この毒草は高くてこんなにたくさん行商が持ってきてくれたためしがないのだ。
これを村に送れば、向こう数年は銅貨がいっぱい節約できる。
聞いたヤンホゥはしばし黙った。彼女の言葉が理解できないのだろう。当然だ。
毒を送られて喜ぶ集団とか村とか一体何なんだ。
執務室にいた誰もが思った。お前の村一体何なんだ。
「……わかった、手配させよう」
「やったね」
インユェはあけすけな笑顔を浮かべた。
「インユェ」
「はい」
「お前は言ったな、利用していいと」
「ええ」
「さっそく利用させてもらってもいいか?」
「もちろん、何処の蟲を狩るんです?」
身を乗り出したインユェに、ヤンホゥは複雑な顔をした。
「一週間後に、皇帝がこの陪都に来るのだ」
「はいはい」
「お前は道中影から皇帝に危険がない様にしてほしいのだ」
「そんだけ?」
「ああ。……この時期は蟲が多い。道で何人も死んでいるのでな」
「わかった!」
そう言う事なら簡単だ。
「その間に掃除をしておいてやろう」
「掃除?」
「お前のぼろぼろにされた牡丹殿をだ」
「あれ、おれいつ部屋ぼろぼろにされたって言いましたっけ」
ヤンホゥはあくどい笑顔を浮かべ、肘をついて顔を乗せ、言う。
「お前がさっさと頼ってこないのがわるい。お前が気が付いていない事をいろいろと俺は知っているぞ」
言われてもインユェは困らないし、弱みを握られたとも思わない。
思わないで手を叩いた。そして屈託もなく頷いた。
「知っていても手を出さないあたりが好感度上がりますね」
「お前な……」
「だっておれはだめだったらちゃんと助けを呼ぶ人間ですよ。牙っていうのは伊達じゃないけど、普段の生活じゃ助けを呼んでばっかりだったもの」
「そうかそうか。で、必要な物はあるか?」
多少呆れたように言うヤンホゥに、インユェはちょっと考えた。
「ええとですね」
インユェは欲しい物を告げた。
「お前はそんな物が欲しいというのか?」
「大事ですよ」
真顔で言ったインユェは、言った。
「出発はいつなんですか?」