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「全く、何をすればこうなる」
呆れた調子で言われても困るので、インユェは首を傾げた。
「打たれた方が早く終わると思ったんです」
「お前は筋金入りの馬鹿だな。知っていたがここまで阿呆だとは想定外だ」
随分と酷いいいようだが、しょうがないかもしれない。
ヤンホゥは水差しの水で布を濡らし、インユェの傷をぬぐう。顔の傷など自分で手当てできないので、インユェはされるがままに任せた。
しかし、思ったよりも浅い傷でも、水はしみるらしい。ぴりりと痛みが走った。
「何を言われた?」
突然の問いかけに、インユェは答えられなかった。何って何に対してか、誰が誰にか。
本気で分からなかったインユェを見て。ヤンホゥは言う。
「あの女どもはお前に何を言った?」
「ああ。何か出て行けとかそう言う類のお話ですよ、無理な事を言いますよね」
インユェにしてみれば、言われたからどうこうなる物でもない。
自分がここにいるのは、ヤンホゥが望んだからだ。
そのヤンホゥがいらないというまではここが、インユェの居場所なのだ。
それなのに女の人達が出て行けと言ったから、出て行くわけがない。
フーシャの代わりに里をから出てきたのだし。
自分が帰ってしまったら今度こそ、嫌がる誰かが里を下りなくちゃいけなくなるかもしれないのだ。
そんなのは許せない。インユェは望まない。
それを隠して、インユェはにへらと笑った。
「おれはあなたの衝立なんですよ、女の人達から防ぐ盾。言われたから出て行く道理はないだろう?」
「お前はそう思ったのか」
おかしなことを聞くヤンホゥである。衝立なのだ。盾なのだ。
それのどこがいけないというのだろう。
それゆえためらいも迷いもなく返す。
「ええ、あなたが出て行けと言うまではいるに決まってるじゃないですか」
それを聞いたヤンホゥは何も言わずに、軟膏をインユェの額に塗り付けた。
さらに布をあてがわれ包帯を巻かれ、その仰々しさにインユェは聞いてしまう。
「こんなに手当てする程、ひどい傷でしたか、おれがわかってないだけで」
「黙って手当てされていろ。俺が丁寧に手当てをする相手など滅多にいないのだから」
「ふうん」
言われて大人しくしていながら、つい考えた。
怪我の手当てをされるのなど何年ぶりだろう。手当てをする方にはよく回るが、されるのは久しぶりだ。ちょいとばかり懐かしい。
まるで大事な物だと言わんばかりに触れて来る手も、なんとなく不思議な感じがする。
「ヤンホゥ様、もっと乱暴に扱ったってインユェは傷つきませんよ」
「お前を大事にしないで何を大事にしろと言う?」
「ええっとですねえ、部下の人たちとか」
「阿呆。お前はそれだから阿呆なのだ」
言いつつヤンホゥはインユェの髪を乱暴に撫でる。
「いいじゃないですか、阿呆で。扱いやすいでしょう?」
インユェの本気の言葉に、ヤンホゥがあきれた顔になる。
「なんだ、自覚があったか」
「おれは色々足りないんだってよく里でも言われてたし。牙でいる時と普通の時とで落差がおかしいとかもよく言われましたよ」
言いつつ額の布に触れ、インユェは感心した。
「それにしても上手にまきますねえ。手当てなんてされたの本気で久しぶりですよ。おれこう見えても頑丈で生半可な事じゃ怪我なんてしませんでしたから」
感心するほどヤンホゥの包帯の巻き方はうまかった。
しかし彼の意見は違うらしい。
「高々宮中の女風情に打たれて血を流しているのに、よくそんな事が言えるな」
「いや、あの扇子本気で痛いもんですね。予想よりも飾りのきらきらした尖ったのが鋭かったのが誤算です」
本当に誤算なんてその位なのだ。宮中の女がそこまで乱暴でもないわけだし、あの程度の扇子で打たれて怪我をするなんて誤算だった。
それだけ扇子がごてごてと飾られていたともいう。
「あの程度の大きさと重さなら、ちょいとばかり赤くなる程度のはずだったんですけどね。失敗しました。もうちょっと相手の得物を目算する事を覚えます」
その言葉たちに、ヤンホゥが黙ったのをいい事に、インユェは続ける。
「それにあなたが割って入ってくれたでしょう、終わり良ければ総て良しと言うやつです。あれあの後どうしようって本気で思ってましたからね」
「入っていなかったらどうしたんだ」
「考えてませんよそんなの。事の流れるままに進んだんじゃないですか」
「……お前は頭がどうにもおかしいな」
「よく言われます」
しかし、彼が登場して場が収まったのだからあれでいいではないかと思う。何か問題でもあるのだろうか。
起きた事が全てという厳しい山の現実ばかり知っているインユェにとって、もしもは存在しない。起きた事が事実なのだ。そこに至るまでの背後関係などは一切気にしない。
そんなインユェは立ち上がった。
「エンシュウ終わりましたか」
「終わったから様子を見にいけばあれだったのだ。お前が打たれるなど予想外すぎて驚いたぞ」
「それはすみません。でもおれはそんなに様子を見に行くほど危なっかしく見えますかね」
「お前は非常識に過ぎるのだ。どういう育て方をされたのか疑問になるほど危なっかしい」
言い切られたインユェはしかし言い返した。
「でも町の常識は、皆ヤンホゥ様が教えてくれるじゃないですか。なんか問題があるんですか」
それは普通ならばしないような、全幅の信頼だった。
ヤンホゥが黙ったとしてもおかしくない言葉たちだった。
しかしそれだけの事を言ったとも、気付いていないインユェはお腹がすいたなと呑気に考えていた。
牡丹に戻ればいいだろうか。あの女性たちが主のいない牡丹に侵入するとも思えない。
お育ちを考えればそうだろう。彼女たちは陪都公の後宮に入るだけの教育を受けて来た貴婦人たちで、そう言うやっかみや嫉妬からの嫌がらせをするはずがない。
と言うのがインユェの判断だった。
つまりもう、あの場所に女性たちはいない。
怪我の手当ても終わったのだし、今日はヤンホゥのそばに引っ付いていなくてもいい日らしいので、牡丹に戻るべきなんだ。
そんな事をつらつらと考えていたインユェは、何故か肩をつかまれて目を瞬かせる。
何だと思って相手を見れば、ヤンホゥの顔が近い。
至近距離から灼熱の眼を投げられて、インユェはぶわっと顔が赤くなる自分を自覚した。
これは本当に何なのだろうか。正体不明すぎてどうしようもない。
かかる息すらぞわぞわとしてくる。
しかし不愉快な物でもないので、よくわからな。
「お前は」
ヤンホゥが言う。何を言いだすんだろう。また怒られるんだろうか。それにしては何かが決定的に違う。
「教えた事が間違いだという疑いは持たないのか」
真顔だった。あまりにも真剣な顔なので、インユェはそれを真顔で見返した。
大体、この人何を馬鹿な事を言っているんだろう。
「だっておれみたいな頭に花が咲いているようなのに、あえて間違いを教える道理がどこにあるんです?」
彼の目が驚きに開かれた。それをみつつもインユェはさらに言う。
「だっておれはあなたの都合のいい奴隷で衝立でしょう? たとえあなたが間違いを教えたんだとしたって、それは衝立にとって必要な事なのでしょう。そうでしょう?」
ヤンホゥは仕事ぶりを見るからに合理的で、こんな何でもかんでもすぐに信じるインユェ相手に嘘を言うのならばそれは、何かに必要だからそうするのだ。
インユェはそう判断していたのだが。
ヤンホゥはたっぷり黙ってしまった。
「ヤンホゥ様?」
「……お前は天性の底抜けの阿呆だな」
「ええそうでしょうとも」
言ったインユェは、いきなり抱き寄せられて慌てた。
「……馬鹿だ」
ヤンホゥがなぜそんなに苦しそうな声を出すのか、まったく分からないまま、インユェはその腕の中にいた。慌てたが、きっとこれも何かに必要な事なのだ。
だからインユェは、腕を回して抱き返した。
抱き返すのなど初めてで、力加減がわからない。彼女は下手をしたらヤンホゥの背骨を折ってしまう。
だからそっと、羽のような力を意識して抱きしめた。
「ヤンホゥ様、苦しいのならばいつだっておれを使ってくれていいんですよ。おれはあなたの衝立、あなたを守るのが役割でしょう?」
インユェはそれを本気で信じている。
だからそう言ったのに、ヤンホゥは抱きしめる手に力を籠めるばかりだった。
「俺に守られろ。インユェ」
「あなたみたいな弱い人に守られるほど、牙インユェは落ちぶれていませんよ」
「お前の戦い方では、守れない部分もあるからそう言っているのだ」
「大丈夫ですよ、生きるか死ぬかってのは慣れてます」
「そんな物ではない」
「変なヤンホゥ様。それ以外に危ない事なんて何があるんでしょう」
「謀略という物がある」
「そんなの、叩いて伸ばして斬り裂けばどうにかならないんですか」
「ならないから言っている」
そんな通じ合わない会話をしていると、彼女の耳に足音が入ってきた。
「誰かきますよ」
「構うか」
「ふうん」
誰か来てもこの状態でいいらしい。これはやましい事じゃないんだな、とインユェは判断した。
「公、演習の問題点と被害が深刻になりつつある蟲の……」
扉を開けたのは男の人で、屈強な武人と言う感じの人だった。
口ひげを整えたその人は、インユェとヤンホゥの状態を見て、たちまち顔を赤くして、わなわなと震えた。
しかし仕事に忠実だからか、見ないふりをして書類を机に置いた。
「ヤンホゥ様、ご公務が終わったのは知っていますが、どうか本日中に目を通しておいてください」
「ああ」
ヤンホゥが言い、武人は扉を開けて去っていく。
インユェの耳は、扉が閉まったとたんに駆けだすその足音をしっかりと聞いていた。
何そんなに慌てるんだろう。
インユェにはよく分からない事だった。




