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3-2


「そしておひめさまは、おうじさまといっしょに、しあわせにくらしました」

インユェは、読みやすいから読んでみろ、と言われた幼児向けの本を読んでいた。言葉を口に出してしまうのは仕方がない。何にしろ彼女はあまり学がなく、こういう幼児向けの本を口に出して読むのが精いっぱいなのだ。

つっかえつっかえ、たどたどしく読んでいく。

今日はヤンホゥが来なくていいと言ったので、牡丹殿に一人きりだ。

良くは分からないが、エンシュウとかいうやつらしい。

それにはインユェは邪魔だという事が、ほかの武官たちの態度から伝わって来た。

まあしょうがない。こんな見た目だと、インユェは分かっていた。

山と違うこの世界では、見た目で人が左右される。

インユェは自分の細っこい腕を眺めた。この腕がヤンホゥ一人なら軽々持ち上げられると知っている人はどれ位いるんだろう。

誰もがインユェをか弱げな女だと思っている。

ヤンホゥは別だろうが。しょうがない。

インユェはもう一度本を最初からめくる。色がたくさんある巻物は、眺めているだけで好きになった。文字という物が読めるようになったら、もっといっぱいこういう物を見たい。

勉強熱心ではないインユェだが、こういう物は好きだった。

でもあれには勝てない、とインユェは義弟たちと眺めた朝陽や夕日、風の吹き抜ける緑を思った。

あれらとは何て遠く離れた場所に来てしまったんだろう。

あれはインユェの心の中にある大事な風景だ。

そんな事を思い出していると、義弟たちの事が気になって来た。あの子たちはどうしているだろう。

山はどうなっているだろう。牙の消えた里で、新しい牙が選ばれているのだろうか。

それを考えると少しではなくぞっとする。それと同時に、自分と同じだけの技量の狩人がいたかと考える。

インユェは団体を指揮する立場にいたが、自分と同じだけの腕の狩人は、村にはいなかった気がした。

「帰りたいなあ」

ちょっとばかり呟いたインユェは、それでは意味がないと思い直す。フーシャの代わりなのだからしょうがない。それにここはなかなか面白いし、ヤンホゥは優しい。

悪い場所ではない。多少息苦しいかもしれないが、こんなのはヤンホゥに出かけたいと言えば外に連れ出してもらえるから問題ない。

「あれは綺麗だったなぁ……」

街の外に出たいと言ったインユェを、ヤンホゥは外に出してくれた。広がる水田という水の入った畑、あぜ道。髪を揺らした柔らかい緑の匂いの風。

それらは山では一度も体験した事のない物でも、気持ちのいいものだった。

これ位なら、いくらでも外に出してやろう、ちゃんと言うのだぞ、とヤンホゥは秘密をささやくように耳打ちしてきた。

ヤンホゥ様は好きなの、と問えば、これは大事にしなければならない風景だからな、とよく分からない言葉で返された。

好きか嫌いかじゃないもので、時々ヤンホゥは動いているらしかった。

全く不思議な物だ。好き嫌いで動く事もよくあったインユェたち狩人からすれば、あまりにも我慢してばかりだと思うのだが。

それが役割らしい。陪都公という物は楽じゃない。

そんな事を考えてから、インユェは絨毯に座り込んで絵巻物を眺める。

そしてその耳がいくつもの足音を聞きつける。軽い女性の足音だ。またその辺の廊下を宮女たちが行き来しているのだろう。

放っておいても害はない。でもおかしいな、何で近付いて来るんだろう。それもこんなにたくさん。

高性能な耳は、その足音が五人以上だと聞き取った。蟲の足音や物音を聞き分け、それがいったい何なのかを判断する頂点、牙の耳は特別だ。

インユェは巻物を丸めた。まだ早いがご飯かもしれない。

最近はヤンホゥのそばに引っ付いて一緒にご飯を食べていたので、ここで食べるのは久しぶりだ。

何が出てくるだろう。街の外に出た時に、ヤンホゥが懐に持っていた握り飯とか言うあれを食べたい。塩気がちょうどよくてふっくらと甘くて、お腹によく溜まる。いい食べ物だ。

しかしそんな事を考えていても、耳はおかしな音を聞きつける。どうも、料理の皿などを持っている人間の足音じゃないのだ。

もっと軽い。何も持っていない人がどうしてこっち来るんだろう。

怪訝な思いにとらわれたインユェは、牡丹殿の外に出た。周りを見回して、ひょいと屋根の上に飛び上がる。瞬間のそれを、誰も気付かない。

屋根の上に上がって様子をうかがっていると、廊下を伝って女性たちが現れた。

誰もが着飾り、きらきらしい。その彼女たちに付き従う女性たちもまた、きらきらと目に楽しい。

綺麗だな、とインユェは眺めながら感想を抱いた。とっても綺麗だ。でもやっぱりフーシャに適う美女はいない。フーシャは誰よりも綺麗だ。

ああ、フーシャに会いたい。会えばあの子は、ちょっと笑いながら頬をつねってきて、それは楽しそうにこの名前を呼んでくれるのだ。あのさわやかな風のような声が懐かしい。

インユェがそんな事を思っていたら、下の方はちょっとした騒ぎになっていた。

「どこにもいないじゃない!」

「本当にここにいたのかい!」

「わ、わたし、今日は陪都公がその女を軍事演習にまでは連れて行かないと聞きました」

「でもいないじゃないか!」

「どこにいるのかしら?」

「ここ以外にどこに行くというのかしら?」

「まさか男でも作っているんじゃないですか?」

ちょっと考えてしまったインユェである。

この牡丹殿に住んでいるのはインユェ一人で、ここを探すとなったらそれは自分を探しているという事なのだろう。

目的は何だろうか。ちょっと様子を見てみようと思い、只ならぬ空気に呼吸を意識してひそめる。

見ればか弱げな女の子が、きらきらとした女の人達に責められている。

聞けばここに住んでいる女……つまり自分だ、がいない事を責められているらしい。

彼女は必死に言い訳をしているが、それも通じていないらしい。

あまりの事に振りかぶられた扇子は装飾品で痛そうだ。

降りるか。女の子が痛めつけられるのを見るのは、趣味が悪いと思う。

インユェは音を一つもたてずに地面に着地した。

そして口を開いた。

「人の住んでるところで何女の子いじめてんのさ。さいてい。やるならよそでやれよ」

彼女たちはいっせいにぎょっとした顔になった。それもそうだ、いきなり気配もなく現れれば普通はびっくりする。

山では気配を消すのだって訓練の一部で、いきなり現れようが消えようが驚かれないのが常識だったインユェは、彼女たちがあんまりびっくりするので、ちょっと笑えた。

ちょっと笑うはずが、彼女たちの顔が間抜けすぎて、笑いが止まらなくなった。

「なんです、あなた!」

「あーわるい、ここに寝泊まりしてるんだ、おれ。で? おれ探してたんでしょう。用事はなあに?」

涙をぬぐい、インユェは彼女たちを見やった。

ぶたれると怯えていた少女が、インユェを認識して言う。

「あの方です! 陪都公の後ろをくっついて歩いているのを見ました!」

彼女の言葉で、きらきらしい女性たちの視線が一気にこちらを向いた。

とたん。

「この女狐が!」

一人がつかつかと近づいてきて、扇子を振りかぶった。閉じられた扇子は角がありなかなか痛い。インユェは紫宮にいるときに学習した。

それに打たれる理由もないのだが、打たれない理由もない。

ここはぶたれた方がすぐに話が終わるかな、と考えたインユェは、打たれるに任せた。頬が鈍く痛むが、なに、骨が折れたわけでも何でもない、明日ちょっと痕が付く位だ。

山で鬼鍬形と出くわして、直撃を食らった時の方がよっぽどえらい目にあったと思ったものだ。あの時は頭に血が上って、その顎を引き裂いてしまったっけ。

大人しく打たれるがままのインユェを見て、ほかのきらきらした女性たちも近付いてきた。

「陪都公の恩寵がいつまでもあると思わないでちょうだい!」

「あなたが寝室までの扉の前に立ちふさがるから、わたしはあのお方にお会いできないのよ!」

「陪都公を独占して!」

そのままあちこちぶたれて、さすがにインユェはあきれた。

「それって」

「しゃべらないでちょうだい、耳が穢れるわ!」

ばちん。ぷしゃ。

インユェは扇子の特に尖った場所が当たったな、と分かった。頬と額が切れた。

ちょっとばかり飛んだ紅色に、女たちは見事にひるんだ。

「ひっ……」

「……」

インユェは頬をぬぐった。やっぱり切れている。

額にも触れればぬるりとした感触。手を見れば赤い。

顔はほかの場所よりも血が出やすい。傷自体は浅いだろうとインユェは勝手に判断した。

「えーっと」

別に顔に疵がつこうがつかまいが、インユェは自分が何も変わらないと知っている。

そのためのんびりと、問いかけた。

「何が目的なの。言いたい事は今言えば。聞くだけ聞くよ」

「でっ……」

血を見てどよめている女性たちの中の一人が、口を開く。

震えた顔をしている。よっぽど血が出たのだろう。こんなにひるむ位。

「出て行ってちょうだい!! あなたはこの場所にはふさわしくないわ!!」

ひるみながらも言い切った女性は、くらりとよろめいた。それを支える宮女たち。

「しっかりしてくださいませ」

「姫君……! お前、姫君に何と言う事を!」

インユェははあ、と返した。

何もしていない。やったのはお前たちだとよほど行ってやろうかと思ったが、言う価値もない。

それよりも顔の傷の確認がしたい。ヤンホゥは驚くだろうから。

彼女たちを一瞥して殿の中に入ろうとした時だった。

「インユェ、顔をどうした?」

声がかけられた。その声を聞いて青褪める女性たち。インユェは彼を見て言った。

「おれが邪魔なんだそうです。ここにはふさわしくないらしいので、別の居場所が欲しいです」

「お前をここに入れたのは俺だろう。何が問題なのだ?」

近付いてきた彼は、言いながらインユェのおとがいをつかんだ。

「血が随分と出ているな」

「かすり傷にもならない物ですよ。痛くもない」

「だが怪我は怪我だ。ちょうどいい。……来い、インユェ」

ほかの女性などまるで無視をして、陪都公はインユェの腕をつかんだ。

「別に逃げやしませんよ」

言いつつインユェは、周りの誰もが絶句しているので、これは相当びっくりする事らしいな、と判断した。

そのままインユェは、ヤンホゥの私室に引っ張られていった。


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