3-1
陪都公が指輪をしている。それは陪都公の後宮の中を火が付いたような速度で駆け抜けた話だった。
その相手はいったい誰なのか。
これまた忌々しい事に、何処の出かもわからない市井の女がそうらしい。
まずそれを聞いた時后妃たちは一笑した。
あり得ないと判断したのだ。
陪都公ともあろうものが、そんな利益にもならない女を一番の女性とするなどありえない。
だが。
陪都公の周りをうろうろとしている女が、なんと本当に陪都公とそろいの指輪をしているという情報が出回ったとき、彼女たちは愕然とした。
あり得ないと思いつつも、事実として女は指輪をしている。陪都公の后妃ですらない女が、后妃の頂点である指輪もちという事に、后妃たちは信じられなかった。
それでも子飼いの宦官たちの青くなりながらの報告に、后妃たちはそれが嘘ではないと知るのであった。
ではこの女はいったいどんな女なのか。
興味がわいた后妃たちがいないわけがない。
彼女たちはさっそく人を遣わして、女を測ろうとした。
しかし。
女はいるはずの牡丹殿にいないのだ。
あそこは空っぽだと遣わした人々は語る。誰もいない。人気がない。
そんな馬鹿なと誰でも思う。牡丹を与えられたのに、呪われていると言われながらも最高の位置である牡丹殿に住まないなどどういう了見なのか。
后妃たちは、その謎の女の事がまるきりわからなかった。
しかし嫉妬の炎は燃え上がった。どんな女かは知らないが、陪都公の寵愛を一身に受けるだけで嫉妬の対象なのだ。
后妃たちは女らしいあの手この手を使う事を決意していた。
そんな一方、当事者であるインユェは平和な日々を送っていた。
「公……」
「なんだ」
「それは何をなさっているのでしょうか……」
「昼寝だ」
いやそこはわかるんだが、と宦官も文官も同じ事を思った。
陪都公の政務は忙しい。その激務を知っているからこそ、時折の休息が必要だともわかっていた。
だが目の前の光景は理解をはるかに超えている。
陪都公が長椅子に横たわっている。
これは見慣れた光景だ。そこの長椅子は誰もが使っている一時的な休憩所だ。
陪都公がそこに寝転がっているのに何らおかしなことはない。
もっと上等の長椅子を用意すればいいのに、とは思うのだが。
陪都公が頭を乗せている物が問題なのだ。
それは華奢な女の膝の上だった。
文官とよく似た質素な藍色の衣装を着た女が、陪都公に膝を貸している光景。
これはいったい何なのか。
陪都公と付き合いの長い官吏たちでも、目の前の光景は理解しがたい光景だった。
「インユェ、後で茶を淹れろ」
「おれはそう言う事ができません」
「覚えろ」
「はーい」
女は陪都公がどれだけの身分なのかよく分かっていないんじゃないかと言うような態度である。
幼児向けの易しい本を熱心に読んでいる女は、この執務室で一番の謎だった。
何故いるのか。女が。こんな女がどうしてこの執務室で幼児向けの本を読んでいるのか。
そこが誰もにとって謎であった。
そしてこの女は目を見張るほど美しい。後宮の粉黛もかすむほどの美しさだ。
その美しい女が美々しい男に膝を貸すのは非常に絵になるが、執務室には不似合いだ。
女は足がしびれないのだろうか。そう思う程じっと動かない。動かずに巻物を眺めて丸めている。
「あと十分で休憩おしまいだから、もうちょっとだけ待って」
眺め終わったらしい彼女は、官吏たちを見てそう言った。
そこには何もない。陪都公がたぶらかされたのかもしれない色香なんて物は全くない。
無邪気だ。そして鋼の強さを秘めている。
そして誰もが仕事をしながらも気になり続けた十分が終わる。
「ヤンホゥ様、お時間ですよー」
女は暢気な調子で陪都公を揺り起こす。
陪都公は目を開き、何もおかしなことはなかったと言いたげな調子で起き上がり、体を伸ばして執務机の前に座った。そして何事もなかったように裁量を始めた。
女はそれを長椅子に座って待って居る。
忠実な犬のようだと宦官は思った。待てと言われれば待ち続ける忠犬に見えたのだ。
しかし彼女は不意に立ち上がってどこかに行ってしまった。
「陪都公……」
あの女が何者か知らないが、ふらふらとあちこちを歩かせてはいけないのではないか。
そんな疑問を抱いた文官の一人が口を開いた時、陪都公はこともなげに言った。
「あれは茶の用意をしに行った。そのうちいろいろ抱えて戻って来るぞ」
彼はちょっと口の端を緩めてそう言った。
陪都公が女性関係で笑った、と官吏たちは絶句した。陪都公は女に無関心で知られていたのだから。
「あれは物覚えが悪いわけではないからな。何か好みの菓子を言づけておけば用意してくるだろう」
お前たちも頼めと言わんばかりの陪都公。
あの少女は陪都公のなんなのだ。
官吏たちは激しく疑問に思いつつ執務をこなし続ける。
午前中の小腹がすいてくる時間になって来た。
誰もがちょっと何かつまみたくなる時間だ。
そんな時間。
「はいおまちどう!」
軽快な声が執務室の前から響き、現れたのは先ほど消えた女だった。
女はどういう平衡感覚をしているのか、腕に大量の蒸篭を乗せている。そして片手には茶器。お湯の入っているらしき水差し。
一人で持つには重すぎるだけの量を、女はケロッとした顔で持っている。
持っててこてことやってきて、何でもない調子で空いた机に置いた。
そして陪都公の前に立つと、これまた悪意なく手をひらひらと振った。
仕事の邪魔をすれば途端に絶対零度の視線を投げつけて来る陪都公だ。
この女も同じ対応をされるに違いないと誰もが思った矢先。
「そんな時間か」
「お茶の淹れ方教えてくれるって言ったのあなたじゃないですか。おれお茶なんて入れたことないですよ、煮出したことはいっぱいあるけど」
「お前の里はそう言う茶の淹れ方をするのか」
「薬缶にいっぱい水を入れて茶葉を放り込んでぐつぐつ。五分もやれば水で薄めて飲む原液ができますよ」
それは果たしてお茶なのか。官吏たちはまた突っ込みたくなった。
そして陪都公が平気な顔をして、それ以上に優しい表情で彼女に対応しているので、彼らはそっと外を伺った。槍でも降るんじゃないかと危惧したのであった。
「お前の里はなんなんだ。中央とは文化が違いすぎるな」
「人の来ないお山ですしねぇ。ほら、蒸したお菓子冷めちゃいますよ、お湯だって冷めちゃうから走って来たんです。熱いほうがいいんでしょ」
「そうだな」
言いつつ陪都公は立ち上がり、流れるような手つきで茶を淹れ始める。
それを面白い物を見ている顔で見つめる女。
まるで玩具を見る子供だ、と執務室の誰もが思った。
「これが茶の淹れ方だ。覚えたな」
「覚えても次からできる気がしません」
「何度でも練習をさせてやろう。利き茶は得意そうだ」
「お茶の種類をこたえるってやつでしょう。おれ匂いはちょっとばかり自信があります」
「そうかそうか」
陪都公は滅多に浮かべない頬笑みを浮かべて女の頭を撫でた。
そして口を開けそうになっている官吏たちに言った。
「お前たちも適当に休憩をとれ。菓子はここに用意されているだけしかないが」
「は、はい……」
官吏たちが何を言えただろう。かろうじて答えて、改めて目の前の女のいろいろな事が気になった。
「あっちい」
インユェはヤンホゥの淹れたお茶が熱々なので、思わず呟いた。
冷めた物や冷え切った食べ物やお茶には慣れている。山の冬はそう言った凍っている一歩手前の物をよく食べた。塩漬けにした蟲の肉を薄くそぎ取って食べ、口の中で凍った肉が溶けとろけるような味をおいしいと思ったものだ。
そのためインユェは熱い物には慣れていない。
熱い物はとんでもなく贅沢な物だった。山は真夏でも肌寒い場所で、暑さに弱い蟲が山にはたくさんいた。
それはさておいても、まきや薪を大量に使う熱い料理は、里ではめったに口にできない物だった。
蟲の肉を焼いたものは別だ。あれは蟲の油で火が強くなるから芯まで火が通るほど焼けただけである。
インユェは熱いお茶をそんなにおいしいと思わなかった。
「どうした。味がおかしいか」
「山は寒い場所だったんで、熱い物ってそんなに食べる機会なかったんです。だから熱いお茶とかまだ慣れないんです」
「茶会で用意されたものは飲めるのだろう」
「お茶会で用意されていたものって、移動している間に冷めた物が多かったんです。あれはあれでおいしい」
「そうかお前は安上がりだな」
「安上がりでいいです。でもあったかい物って心が温かくなる気がしてちょっと好きになれそうかもしれないです」
「そうか」
インユェは陪都公が柔らかく笑っているので、なんだかわけが分からないまま、もう一度お茶を口にした。
華やかな香りのするお茶は、村では一度も飲んだことのない手の込んだ物に間違いなかった。
それを呑んでも動悸が収まらない。
全部ヤンホゥが笑うせいだ、とインユェは理解していた。
殺せない相手がこんなに心をおかしくさせる物なのかと思うと、先代の牙が口を酸っぱくするほど言い聞かせていたことを思い出す。
殺せない相手には出会わない方がいい。人生を捨てたくなるから。
まさにそうだとインユェは思う。ヤンホゥは殺せない。
殺せないだけならまだいいのに、そばにいて守りたくなる。
彼は村の人でもなければ、インユェが守らなくちゃいけない人間ではないのに。
インユェは、ヤンホゥのそばにいても心地よいし、守っている事を誇らしく思いたくなる。
この感情が何なのか、まだ知らなくていいとインユェは心の底から思っていた。