2-13
にぎやかだ、まずそのにぎやかさにインユェは目を丸くした。
朱色の提灯がならび揺れている軒先。
炎の盆わりとした明かりをたくさん使った市場は、インユェにとって非常識の塊だった。
甘い砂糖の匂いがする。
じゅうじゅうと焼けていく食材の混沌とした匂いもする。
道には椅子と机が並べられていて道の半分を塞いでいた。いいやそれを計算した道の作り方をされていた。だってちっとも通行の邪魔じゃないのだから。
インユェはあちこちを田舎者と同じ仕草で見まわした。
破れた壁を抜けていき、二人でこそこそと抜け出した先はまるで異空間だった。
「すごいなあ、今日は祭りなんすか」
「夜の市場はいつもこうだぞ」
「村の祭りの時よりもずっとにぎやかです」
「この陪都は並みの街の優に六倍は人間がいる場所だからな」
六倍。それがどれだけ多い人数なのか、あまり数字に強くないインユェにはいまいちピンとこない物だった。
分かったのは多いという事位だ。
「そんなに人間がいてよくまあもめごとが……」
「馬鹿野郎何処見てんだよ!」
「てめえの方がどこ見てんだよ!」
インユェの感想の途中で、男たちが怒鳴り合い始め、インユェは認識を新たにした。
どこでももめごとはつきものらしい。
インユェは男たちの言い争いを眺めた。お前がぶつかったいいやお前がぶつかったというしょうもない争いだ。
そしてその争いで胸ぐらをつかみ合っているわけである。
本当にしょうもない。
インユェはそれがどう決着をつけるのか気になった。
村での喧嘩は仲裁をするのが上手い奴を呼んできてなだめるのだ。
しかし陪都ではそう言うお節介はいないらしい。
もっともインユェの里は人口もかなり少なく誰もが顔見知りと言う部分があって、まったくの赤の他人を仲裁するわけではなかったのだが。
男たちは今にも殴り合いを始めそうだ。
「インユェ、ぼうっと立っているな」
別にぼうっと立っていたわけではないのだが、インユェは近付いてきたというか戻って来たヤンホゥに腕を取られた。
「あれを見ていたんです」
「うかつに喧嘩なんか眺めるもんじゃない」
「どっちが勝つのかなあって」
「とばっちりを受けたらどうする」
ヤンホゥがあきれたように言うが、インユェとて馬鹿ではない。
「あの人たちがおれに勝てるわけがないから、あの人たちがおれをどうこう出来るわけもない」
「もしもの事があるだろう、だいたいお前は万事に暢気すぎる。もっと危機感を持て」
「持てって言われても。だいたいどうにかなっちゃいますし。でもいつまでも見ていたらご飯食べる時間無くなっちゃいますよね。どこ行くんです」
ヤンホゥはのんびりとしたインユェにちょっと溜息を吐き、言う。
「お前は本当に目を離すと何が起きるか分からんな……こっちだ、行きつけの店がある。味もそれなりだ」
「お支払いはヤンホゥ様自腹?」
「当たり前のことを言うな」
「つけとかないんですか」
「つけたら後が大変だ」
「ふうん」
里ではお金を払って何かをしてもらったりするのは滅多になかった。
里でお金が必要になったのは他の村や街、旅の商人との交易の時だけで、つけという言葉もインユェは実際の所は全く知らなかった。
ただ旅の商人がお酒の流れで愚痴を言ったり、他の村の商人たちが苦笑いをしながら失敗談を語るときに使われる言葉だという事位しか知らなかった。
インユェは手を引かれるままに道を進んだ。にぎわう街はどう見ても祭りのそれで、それだけ陪都の豊かさを示している。
客引きの女性たちの黄色い声を耳に入れながら、インユェは自然とこの空気の中に溶け込んでいるヤンホゥを見つめた。
彼は場違いだという印象が全くない。
別にどこにでもいる一人の街人という感じがするのだ。
すごいなあ、と思った。
その場の空気に溶け込むのは、実はとても難しい。
山がそうだった。山の空気になじまなければ蟲に近付けない。
山の空気に溶け込めずに、足になって早々に狩人をやめた人間も多いのだ。
だからインユェは、この非日常を絵に描いた様な世界に溶け込み、風景の一部になっているヤンホゥをすごいと思ったのだ。
「すごいなあ」
勝手に口から出る呟きを聞いて、ヤンホゥが振り返る。
「何がだ。この市場の大きさか?」
「それもあるけど、ヤンホゥ様がここになじめるのがすごいなあと思ったんです。おれはとても、馴染めない気がする」
ここはあまりにもうるさすぎる。
真顔で答えたインユェに、ヤンホゥが言う。
「大丈夫だ、何度も来れば空気になじむ」
「それは山も街もあんまり変わらないんですね」
「お前今一体何と比較したんだ」
「里と。山と」
「そうか」
「お腹すきました、あとどれくらい進めば食べ物にありつけるんでしょうか」
「もうじきだ」
ヤンホゥはそう言い、一つの店に並んだ。
その店は割合行列をさばくのが上手いらしく、そこそこの速度で行列は減っていく。
前の人たちが何かを買い求め、どんぶりをもって露台に座り食事を始めるさまを、インユェは新鮮に思って見ていた。
山では料理は作る物だ。決して買い求めるものではない。
そのためこの光景は、インユェが見てきたどの世界とも全く違う光景だった。
「この店は何」
「どんぶり屋だ。こういう場所ではこういう物に並んで食事を買う」
「どんぶりって何です」
「飯に具材を乗せた食べ物だ」
飯。その時点でインユェの理解の外側だ。
「飯ってなに」
「……お前は米を喰った事が無いのか」
「北のお山では米なんて採れませんよ」
だから知らないと言外に言うと、ヤンホゥは顎に手を当てる。
「そうか……そのうち現物を見せに行こう」
「約束ですよ」
そんな他愛もない約束をしている間にも行列は進み、インユェはヤンホゥの注文の仕方を観察した。
どうもこの店は一つの商品しか取り扱っていないらしい。
そしてそれを買い、ヤンホゥはどんぶりを二つ持ってインユェに一つを渡してきた。
「持て」
「はい」
渡された素焼きのどんぶりはどちらかと言えば熱いと言っていいほど温かく、焼けた見慣れない肉と根菜らしきものが和えられていてたれに絡んでいた。
その甘じょっぱい匂いはやはり嗅ぎ慣れない匂いで、これは果たして食べ物だろうかとインユェは内心疑問に思った。
しかし露台に座ったヤンホゥは器用に竹製の棒を二本に割る。
インユェも見様見真似で同じ事をすれば、竹の棒は切り込みが入っていたので簡単に二つに割れた。
二つの棒という事は。
「これも箸?」
「そうだ。慣れないか」
「箸ってものをなかなか見た事が無かったんで。へえ、こういう作り方もあるんですね」
インユェはそんな事を言いながら、周りを見回した。
誰も彼もがどんぶりを口元に持って行って箸で中身をかっ込んでいる。
これが正しい食べ方なのだろうか。
里では指を使ってものを食べ、後宮では優雅に箸とレンゲを使っておっとりと口に運ぶ行為を見てきたため、インユェはどこの食べ方が正解なのか分からなくなってしまった。
どんぶりを睨み、インユェは本気で考えた。何ならいいのだろう。
「インユェ、どうした。食わないのか」
「食べ方は何が正しいんですか」
「お前そんなのを気にするのか」
「気になったんですよ」
しかし睨み続けていても食事ができるわけもない。インユェはがっとどんぶりをつかみ、がつがつとどんぶりの中身をかきこみ始めた。
上に乗っている具材は甘じょっぱく香辛料が効いていて、複雑な醤の風味がした。
それに蟲とは比べ物にならない程柔らかく噛み切りやすい肉と、甘くなるまでよく炒めた根菜は実に合う味だった。
そしてその味全体を程よくしみこませた飯なる物は、甘く弾力がありもちもちとしていて、おととい食べたあの白い物と同じ味がした。
インユェは食べる途中で飯をまじまじと見た。
よく見なくとも、橙の明かりのともる場所でも、それがあの白い物と同じものだという事は理解できた。
そうかこれが飯なのか。
インユェは一つ学習した。
栄養条件のいい蟲でもなく、宮廷料理じゃなくとも、おいしいものはこの世にいっぱいあるのだとインユェはやっと知る事が出来たのである。
食べ終わっても食べたりない。インユェは一粒も残さずに平らげてしまったどんぶりを恨みがましげに見た。
山ならあきらめがつくのだ。採れた物だけしか食べられないし、携帯食も残数を気にして食べなければならないのだから物足りなくとも我慢ができる。
そういう物だと分かっている。
だがここはあまりにもいい匂いがしすぎた。
もっと食べたいと言いたくなった。
「インユェ、どうした変な顔をして」
食べ終わったヤンホゥが問いかけて来るほど変な顔をしたインユェは彼を見た。
「足りないです」
「大の男でも腹いっぱいになるあのどんぶりが足りないのかお前は」
「だって足りないです」
「お前はよくそれで山籠もりができるんだ?」
「山じゃこんなにたくさんいい匂いがしません。食べ物の匂いがするのに物を食べられないなんて村じゃ考えられない事です」
「山の中では?」
「もっとあり得ない。食べ物の匂いがしたらそれは食べるためにある物です」
インユェのなんとも言い難い主張に、ヤンホゥは目を瞬かせた後頷いた。
「なるほど。山ならそうなのかもしれないな。ちょっと待て」
言いつつヤンホゥは帯に手を突っ込みごそごそと何かを確認した。
「お前はたしか、銅銭の使い方と銀銭の使い方は分かると言っていたな。この通りは大体食べ物を取り扱う店が多い。文字は読めるか」
「全く読めない」
「文字を読めないのか? この周辺のどんな貧村でも文字は習うのに」
「北は文字を使わないです」
インユェは胸を張った。文字を使わなくとも周りの村とはやっていける。
身振り手振りで何でもできる物なのだ。
だが。
「……お前は手当たり次第に物を買い込みかねないな」
ヤンホゥは不安になったらしい。
「しょうがない。小遣いをやろうと思ったが文字が読めなければ世話がない。一緒に見て回るぞ」
ちょっと笑って彼は妥協案を出してきた。否やのないインユェは頷き、ヤンホゥの手を取った。
蒸篭で蒸されている笹の葉に入ったちまき。
現在進行形で火にあぶられている焼き肉。
串焼きの茸に醤がたらされて香ばしい匂いが漂う物。
いちいち止まるインユェに、ヤンホゥは根気よく店の取り扱う物を説明していく。
そしてだんだんと、何も分かっていないインユェに教えるのが面白くなって来たらしい。
最初の方は結構適当に説明していたのだが、途中から詳しい説明が入るようになった。
インユェは分厚い茸のかさを焼いて乳油と醤を垂らして味をつけたものが気に入った。
山で食べる濃厚な味の毒茸一歩手前には負けるが、歯ごたえもよくじっくりとしたうまみがあるのがいい。
三つほど食べて、それから小型の鳥の肉に味をしみこませて煮込んだ物をつまんだ指をなめながらヤンホゥと手を取って歩く。
そして通りを歩いていて、目の端に光ったものに気を取られた。
「……」
インユェはまた立ち止まった。
みればそこは石の飾りを売る行商だった。
つやつやとした乳白色の小さな飾りが、ひときわインユェの目を引いた。
それはとても小さなわっかだった。
なんだろう。
インユェはこれも正体を聞くべくヤンホゥの袖を引いた。
馬鹿力のインユェが袖を引くので、ヤンホゥも止まる。
「今度は何が食べたいんだ? 甘い物か?」
ここまで来ると耐性が付くらしい。また食べ物かと言わんばかりに見やった彼が、インユェが指さす物に目を細めた。
「そんな物が気になるのか?」
「この小さいわっかは何です?」
「ああ、指輪だ」
「指輪?」
「指にはめる飾り物だ」
「へえ……」
インユェはまじまじとそれを眺めた。
こんな物も街では売っているのかと思うと、遠くまで来たのだと感慨深いものがあったのだ。
「欲しいのか?」
「ううん」
欲しくはない。ただ何か聞きたかっただけなのだから。
首を振ったインユェを見て何を思ったか、ヤンホゥはインユェの隣にしゃがみ込み、手を引っ張った。
「はい?」
「どうせだ、お前は飾り物を一つも持っていないのだから、これ位かわいい物だろう」
言いつつどんどんと指に輪をはめたり抜いたりしてくヤンホゥ。
そして内側から発光しそうな乳白色の石の指輪がちょうどよかったらしい。
それをとって、帯に手を突っ込み行商に渡す。
「これをもらおう」
「いらないのに」
「女に飾り物を買うのも男の甲斐性だ」
「飾り物は作る物じゃないのですか」
「作れない物もこの世にごまんとあるだろう」
「そっか」
インユェは自分の物になった簡素な指輪を眺めた。
「なんで左手の薬指に指輪をはめるのです?」
「そこに白い指輪をはめるとな、自分には決まった相手がいますと言っている物だからだ」
「おれヤンホゥ様のものですしねえ。なるほど、首輪の代わりですね、これなら自分でも見えるから自覚しやすくっていいですね」
「……お前よくまあ今まで男に騙されなかったな」
「牙を騙すくらい命が惜しくないやつは村にはいませんでしたから」
簡素だが、その分石の素材がよく分かる指輪は、素直に綺麗だとインユェは思った。
「ありがとうございます、すごくきれい。月の光を固めたみたいだ」
しみじみと眺めて本気で言ったインユェに、ヤンホゥが問いかけた。
「そういう石が好きなのか?」
「きらきらしすぎないのが好きです」
「それはいいことを聞いたな」
言いつつヤンホゥはインユェの手の中にもう一つ指輪を落とした。
そして言った。
「はめろ」
「こんな大きな指輪おれの指には大きすぎます」
「誰がお前にはめろと言った。俺の指にはめろと言っている」
「決まった相手がいるんですか?」
「なに、多少騒動を起こすための準備だ。どうせだ、お前にはめられた方が意味がありそうだからな」
「……?」
よく分からないものの、嫌な予感のしなかったインユェはそれを男の指にはめた。
そしてそこで気が付いた。
「おれのとそろいみたいな指輪ですね」
「まあな。そろそろ戻るぞ、腹も膨れた」