2-12
姉は最強だった。彼は思い出す。姉は最強だった。誰も姉にはかなわなかった。
そんな姉が誇らしかった。姉と言うにはいささか美しすぎる義姉だった。
その姉の一番美しい姿と言えば、決まっている。
蟲と戦い血を流し流させ、傲慢なほどの笑顔で笑う姿だ。
爪として生きてきてあれだけ美しい物を見た事は今までない。
姉は勇ましかった。
その分ちょっと足りない頭をしていて、私生活はだいぶ問題のある人だった。なにしろ男の自分よりもだいぶいろいろ下手なのだ。
その代りなのか、姉は誰よりも蟲に対しては強かった。
その義姉はいない。
……あんな女の身代わりになるなんて、許せないけれど。
あんな女だ。誰でもに色目を使って品を作って媚を売り、護ってもらおうとするあの女。
けれど容姿だけは特に良くて、村の若い男はほとんどあの女に恋をしていた。
あの女は美しい友情と銘打って、義姉を人身御供に送ったのだ。
別れの時に浮かべた涙が、袖につけた小瓶から伝ったただの水だと知っている人間はほとんどいない。
寝具の修繕は滞っていた。それはインユェがあまり器用ではないからかもしれなかった。
彼女は繕い物が苦手だった。
罠用の縄を綯うのも、網の補修も得意だった。
だが縫物はからっきしだった。インユェは始めたもののあまりのできなさにうなった。
こういうのを弟たちに回していた付けが来ているのだろう。
弟たちはこういうのが上手かった。女でもあんなに綺麗には穴を塞げないだろうとほめられそうなほどうまかった。
インユェは、中が見えない程度にかろうじて塞がれている穴を見やった。
半日かけてこれなのだ。幸いと言うべきか、寝具は布で覆いがかけられている仕様で、その上布を洗って繕えば十分使える物だった。
今は天気が良いので、湿気とりのために天日に干してある。
インユェは目をこすった。ちまちまとした縫物は精神力を消耗するもので、気晴らしをしたくなる。
山の空気が恋しい。山に入りたい。火を熾して獣や蟲の肉をあぶり。揺れる炎を眺めたい。
しかしそれを勝手にやったら衝立になれない。インユェはそれが分からない馬鹿ではなかった。
だがインユェは諦めどころを知っている人間でもあった。蟲を追う時、諦めどころを知らなければ狩人は死ぬのだ。
これはだめだと見切りをつける事も、牙の重要な役割でインユェはそれの引き際も心得ていた。
自分の実力も十分わかっていた。
なので彼女は、穴が開いてないからいいだろう、誰が来るわけでもなし、誰かをこの場所に泊めるわけでもないのだからと割り切った。
「しかし見事な掛け布団」
インユェは美しい緑色をした敷布を撫でた。百年ほど時間が立っていても、日陰に置かれていて閉じ込められていた敷布の色は褪せていなかった。
そこの端に刺された流麗な刺繍達は、この敷布の主がとても身分の高い女性だったことを示しているに他ならない。
こんな刺繍を作るのはとてもできない。職人という物は太刀打ちできない物である。
それがこれ以上穴がないかを確認し、インユェは窓の外の光が斜めに陰っていく事に気が付いた。
もうじき夕方だ。寝具たちを取り込み、夕飯の準備をしなければならない。
夕飯は用意してもらえるだろうか。夕方に呪いのかかった殿に来るのは女性にとってとても嫌な物だろう。
ここで料理ができればいいのだが。そんな事を考えつつ、インユェは寝具を取り込み寝台を整えた。出来上がりに満足して耳を澄ませる。
誰も来ないらしい。夕飯は抜きか。
それはさすがにないだろうと思いつつも、それもあり得そうだと思うのは直感のなせる業だった。インユェは年々勘が鋭くなる一方だったのだ。
ここ牡丹がどういった意味を持つのかは知らない。
だが牡丹に入った人間を注視する人間がそれなりにいる事を、見張られ続けているインユェは気が付いていた。
見張られているのに気付くのは簡単だ、視線がうっとうしいのだから。
こんなにあぶられているような気分になるほど眺めまわされて、見られていないなどという鈍感な奴ではない。
インユェは天井の右斜め上を眺めた。そこに誰かがいるのは分かっていた。
そして目が合ったらしい誰かが、身をすくめたのもわかった。
見られたくらいで身をすくめるならば、、最初からもっと気配を隠せと言いたくなる。
インユェは牡丹殿内をよく探索した。結果、侍女たちの使っていたらしき台所を発見した。
鍋釜が残っている。これも慌てて逃げだしたから残っているのだろう。
インユェは下にあった棚を開けた。ごろごろと石の塊が出て来る。
それは山では見慣れた物だった。
「塩か」
インユェは一つを手に取って感心した。かなり状態のいい塩だ。鼻を近づけると花のような香気がする。
その正体に気が付き愕然としそうになった。
「花塩結晶! こんな純度の高い奴初めてみた」
それは花のような香りがする、山で採れる岩塩の中でも最高峰の岩塩だった。
インユェのお里でもめったに見つけられず、見つけたらたいてい交易品としてどこかよそに持っていかれる物だった。
インユェはこのとき強烈に思った。
「山蟋蟀……」
腹の肉の柔らかい、あの蟲が食べたい。あれは淡白な味と香りで、塩の味の良さが引き立つのだ。
考えればよだれが出て来た。それを飲み込み、インユェは思案した。
今日も夜中に扉の前に立たなければならないだろうか。
衝立になると決めていたし、一度決めた事は曲げないので構わないが、腹が減っては気力も忍耐力も著しく欠ける。
何かを腹に納めなければならないのは間違いないのだ。
しかし待って居てもご飯は出てこないらしい。そう言うものだ。インユェはそこまで考えて、はっとひらめいた。
外に出る事がいけないならば、この大きな宮殿の中の食べ物を取り扱っている場所に行くのは構わないはずなのだ。
そう気づいたら後は早い。インユェは外に出て、肺いっぱいに空気を吸った。
そこから必要なにおいを選別していく。
食べ物の匂いだ。それが分かれば後は行けばいい。
そうやって匂いをかぎ分けていく途中の事だった。
「インユェ」
声をかけられたのは。ただ声の主にも気が付いてたし、誰かが近付いてくるのもわかっていた。
しかしここでは聞く事もないと思っていた声だったので、インユェは相手の方を振り返った。
「……どうしてこっちまであなたが来たの。ヤンホゥ様」
「何、ともに出歩きに行かないかと誘いに来たのだ」
「出歩く? それって外に?」
インユェは壁の外、にぎわう街を指さした。
ヤンホゥが頷く。
「そうだ。お前は外に行きたがっているかもしれないと思ったんだ。何しろお前は都でも街の造りに興味津々だったからな」
「行っていいのですか? 夜はお勤めがあって、女の人の相手もしなくちゃいけないんじゃないんですか、昨日だって夜に六人も人がいていて」
「公務は基本朝から昼までだ。朝と言っても日が昇ってすぐの明け方から。昼と言うのは銅鑼が鳴るだろう、あの時間までだ」
そう言えばなんかでかい音なっていたな、とインユェは思い出した。耳をしびれさせるびりびりとした音が流れてたことも思い出す。
あれは一気に耳を圧して空気を揺らめかせて、余韻を残して消えて行く音だった。耳にこびりつくような音でもあった。
あんな音は山では立てない。あんな不快な音を聞けば蟲をいたずらに興奮させる。
「昼餉の後は自由だ。最も政務の滞っている時期は政務を延長するがな」
「へえ」
「俺はお前を呼びにやったのだぞ、それなのにお前は来ようともしないで。何をしていた。人をやったのだぞ」
「その人来てないですよ」
「だろうな、ほかの女が来た。お前は衝立だという自覚があるか? そう言う時のための衝立だろう」
「そんな事言ったってどうしようもないですよ。おれは呼ばれなかったらあなたのそばにいられないんです。だっておれは政務にはかかわれない。四六時中あなたのそばにいてあなたの盾になれと言うのなら、それを先に言ってもらわないと」
ヤンホゥは意外そうな顔になった。
「命じればそばにいるというのか?」
「いますよ、だっておれは衝立だもの」
「では、これからは常に俺のそばにいろ」
インユェは笑った。これは分かりやすい命令だ。こんな分かりやすくて実行しやすい命令も滅多にない。
「わかりました。あなたのそばに」
それ以上の言葉を述べようとした時、インユェの腹の虫が鳴った。
インユェは自分がそんなに腹をすかしていただろうかと真剣に考え、その表情がおかしかったのだろう、ヤンホゥが爆笑した。
「まあ来い、街の食事はうまいぞ」
「全部お代はあなた持ち?」
「お前は一文も持っていないだろう。さて、この奥に壁の破れた場所があってだな。いつもそこから出て行くのだ」
ヤンホゥはちょっとした冒険のような調子でそう言い、インユェを手招きした。
「日が暮れてからの市もなかなか面白い。お前はきっと初めて見るもので面白いだろう」
その誘いを断る理由はどこにもなかった。